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No.3
- 回答日時:
仙傅拾遺に曰く「楊妃死して帝、楊什伍を行在に召ず。
召じて三日夜に至り奏曰く「人寰の中十州三島の内、之を求むれども得ず、後、東海上逢来の頂きに於いて妃に見みゆ、(妃)什伍に謂ひて曰く「此の後一紀當に相見るべく、聖体を保ち会ふを憶すること毋かれ。商陰此れを用ひ帝に謂ふ、帝徒だ聞くのみ「妃は九州の外に在り、若し他生に相見ば此の生林を知るべからん。」と。No.2
- 回答日時:
(補足です)
この「白文」は、
唐代の詩人・文人である白居易が、『白氏文集』に収録したものです。
「仙傅拾遺」とは、
唐代の文人である李公麟が編纂した『唐才子伝』に収録された、唐代の文人・学者・政治家たちが残した逸話を集めた書物の一つです。
「馬嵬」とは、
中国の陝西省渭南市の南にある山で、唐代の天宝14年(755年)に、安史の乱の際に唐の皇帝であった玄宗が、楊貴妃と共に蜀へ逃れる途中で、反乱軍によって捕らえられた場所。この事件は、馬嵬駅の悲劇とも呼ばれてる。
「聖体」については、
まさかのパンとワインのことでもあるまいし。不明。
No.1
- 回答日時:
(調べました。
参考までに)仙傅拾遺は、楊貴妃が亡くなった後、唐の皇帝であった玄宗が、楊什伍を召し出して、行在に呼び寄せ、三日間も夜通しで奏上した。
玄宗は、人間界の十州三島の中で楊貴妃を探し求めたが見つからず、東海上で楊貴妃に出会った。
楊貴妃は、楊什伍に対して、
「次に会う時は一紀(60年)後になるだろう。その時には、聖体を保ち、母を思い出して欲しい。
商陰(現在の陝西省商洛市)では、皇帝はただ楊貴妃が九州の外にいることだけを聞いているが、もし彼女が生きていたら、彼女と再会することができるだろう。」
と言った。
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