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他人の言動から裏があると分かってしまう気がして、つらい。


他人の言動から「私のためを想って言ってるように見せかけて、自分のことしか考えてない」など、段々と分かるようになってきた感覚がしています。


他人は(きっと私自身も含めてですが)、自分の都合のよいように「嘘をつく」であったり、「思わせぶり」であったりする人が多いと思うようになりました。

しかし、その直感のようなものが働くようになってから、人を信じられません。

人は信じていませんが、「この人の何を信じればいいんだろう?」と疑問に思ってしまいます。

信じられる人も、数人います。

その人たちは違和感がなく、私を真っ直ぐ見てくれている感じがするのです。

ただ、私は信じられない人のために生きたくないので、生きづらさを抱えています。

そんなものなのでしょうか?


私は職場など、人と距離をとって関わるようにしています。

それはあまり人と深く関わると、その人のことが、なんとなく色々と分かるまではいきませんが、伝わってきて、自分がしんどくなるからです。

けっこう生きづらいです。


これは自分の性質なのでしょうか。

A 回答 (5件)

分かると言うのは、相手が認めることを言うので、質問者さんの状態としては、現段階では決めつけの度合いが増して、閉鎖的な気持ちになっている時期なのかも。



どんなに見え見えだとしても「それぜったい思ってないでしょ?」と相手へ聞くくらいで留める方が良いとはおもいます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

自分でも閉鎖的な気持ちだったと思います。

お礼日時:2023/07/23 23:28

「信じる」という言葉を「頼りたい」と言う思いに使っていませんか?



身を任せえ安心したいという欲求は誰にでもありますが、それは大人としては良く無いでしょう。

「子供を守る様にして寄り添う姿を信じるという。
 けっして大人を頼るような気持ちで縋る姿ではない」

本来の徳として知られている「信」とは「結果を問わず付き合うと決める」と言う表現に近いものであり、裏切られることも前提として「一緒に過ごすことを選ぶ」という勇気ある行為を指します。

以下は長いので興味があればお読みください。

先ほどの解釈により、親は自分の子供を信じているとなります。論理で考えれば何の保証もありませんし、子供は成長段階ですから親にとっては容認できない行動を取りますよね。しかし、この子は育って必ず立派に成ると信じています。こういう内容を信じると表現します。「裏切らないでほしい」と言う気持ちは、子供が親に求めるの庇護と同じ願いからきます。

「親が自分を信じていたのであり、それと同じものを他人に
 求められないからと言って信じられないと言ってはいけない」

「信」が発揮されるケースの一つとしては、自分が相手よりも優れていると確信し(逆に言えば相手を劣っていると確信し)、尚、愛すべき存在であると思えるときです。何があっても自分は大丈夫であるという自信があれば、相手を守るために付き添うと決めることもできます。その時、自分は相手を信じていると心から言えるでしょう。

自分が他人を信じられないのは自分の弱さに原因があり、相手の誠実さに原因があるわけではないんです。裏切られたとき自分を自分の力で守る自信が無いのであり、信じていないの自分自身です。

例えば貴方が幼い子供達に囲まれて、子供達に頼りにされ、

「行かないで~。一緒に居て~。いてよお」

と泣かれたとき、貴方はどうします?

他の人がこういったとします。

「この子たちは自分の利益のために君を利用しようとしている。
 だから本当に君の事を好きなわけじゃない。
 どこかで自分の欲求が満たされたとき、君を裏切るだろう。
 子供だからね。それが分かっているのに、自分を犠牲にする
 必要は無いだろう?」

と言われたとき、貴方はどうします?

貴方は相手の言う事をその通りだと認めても、

「私はこの子たちを信じているし、この子たちが私を裏切るの
 は私を信頼しているからだと思う。私はなんとも思わない。
 きっと大人になっても私を覚えていると思う。
 そして懐かしんで私がいないことを寂しいと感じるはずだ。
 私はそうなると間違いなく信じている」

と言うでしょう。この最後の「信じている」が本来の「信」という徳です。この様な「信」を発揮する人は他者から好かれます。と言うか皆が心の底から感動して憧れるでしょう。如何でしょうか?

ですが、これは自分が子供達より強いと確信しているから出来るわけです。その逆であれば立場は子供たちの側になるんですよ。

貴方が信じられる人がいると言っているのは「親みたいな人を見つけた」と言っているのであり、本来の貴方の真価を発揮しているわけでは無いと思います。

「他人を選ぶ前に自分に自信を付けないとカッコいい自分を
 自分が味合う事が出来ない。ズルをしても通用しない。
 無理だと思って回避しようとしても他に道が無い。
 子供たちを守れる位には強く成らないと行けない。
 いつまでも親の代わりを探していては成長機会を失う。
 まずは、裏切られて許すという経験を繰り返して、心の傷
 の瘡蓋が硬くなるまで頑張ってみよう」

とするしかないでしょう。

ちなみに私もそうしました。

そうするしかないと自覚したのは小学校の高学年くらいでしたかね。

私が不当な苛めにあっている(親がいないで施設から通う)同級生に気が付いて、その子を庇ったときです。私は苛めっ子に辞めるように言いました。すると数日たって対象が私に代わりました。制裁何でしょうね。1年半ほどの長い戦いになりました。その途中、全ての友は裏切りました。ある子供は私との会話を逐一苛めっ子に報告していたんです。

あるとき目の前で私の友人がニヤニヤしながら苛めっ子と仲良く振舞い、私が個人的に話した内容を言って二人で私を馬鹿にしました。私にショックを与えるためにそういう作戦を二人で立てていたんです。漫画みたいでしょ?

しかし、一方で私が守った同級生は必死に私についてきて、私をしたってくれました。この子は中学卒業するまでずっとくっついてましたね。

最後は私たちが勝ちましたが、その時に私が勝てた理由は、

「他の子が自分と同じ目にあう必要は無い。
 だがしかし、必ず私を頼る子供が出て来る。
 その時に私が戦い続けていれば寄りどころとなるだろう。
 きっとそうなると信じている」

と思っていたことです。これは今でこそ大正解であると信じて疑いませんが、子供が自分で考えてこの答えにたどり着けたのが奇跡であると思います。漫画みたいな事が自分の人生に起きたという事です。

当時は全く確信が無かったですし、状況からすると負け惜しみであると自分で思っていたのかもしれません。しかし、この言葉を(私が庇った)一緒に耐えた同級生は信じていました(つまり彼は保障がないまま私に付き合うと決めていたんです)。

そして本当にそう成りました。苛めっ子が焦って味方に高圧的に振舞い、もう辞めようと提案する子供を見せしめに苛めはじめたんですね。その子たちがこちら側に来ました。つまり負け惜しみの通りになったんです。

「自分が戦い続ける姿が、少なからず他の子供にも届くと信
 じていた」

もし、私が他の同級生を悪と決めつけて信じていなかったら私は負けていたんですよ。私は誰も責めなかったんです。苛めっ子の首謀者はずっと私を見ていました。早く心が折れて欲しいと思っていたでしょう。そういう誘惑もされました。彼が勝って辞めたいと思って焦っているのが分かりました。

そして恐怖で味方を支配しようとし、最後は味方に裏切られ続け、密告にあい(これも私を裏切った友がやった。もう裏切りまくりの奴ですね)誰も自分を守ってくれない中で負けを宣言しました。最後は心が折れて恥ずかしい恥ずかしいと言っていました。どうしてあんなことをしたのか今でも不思議に思うと言っていましたね。

全てが終わって皆が解放されたとき「誰よりも卑怯な奴」として多くの子供達に認知された子供が数人誕生したんです。

「人生の初めでそんなレッテルを自分に貼ってどうするよ?
 俺だってどうにもならない時は卑怯な事をすると思う。
 今回は迷ったけど頑張りぬいた。
 君らはいったい何を得るためにその不名誉な称号を受け入
 れたんだ?」

と当時の私は思っていました。

これには後日談があります。中学のとき(当時は)不良グループと言うのがありました。中学デビューをする新一年不良は、度胸付けと格付けをするために、同級生をしめて回るの慣例がありました。一年生は誰彼構わず狙われるので恐怖が蔓延していました。

しかし私だけは狙われませんでした。

不思議に思っていましたがあとで分かりました。不良グループの中で「私だけは辞めてくれ」と一所懸命に上級生に頼んでいた子がいたんです。この子が小学校の時、苛めグループからこちら側へ逃げ込んだ(番格だったのに皆の前で見せしめに辱められた)子でした。彼は私には内緒で必死に私を守っていたようです。それを知った(当時の)私は驚いただけで何も感じませんでした。

しかし何十年もたって大人になってから、突然意味が分かりました。涙が止まりませんでした。その子は誰にも知られずに私に恩を返そうとしていたんです。

当時は子供でしたから(大人になってもですが)子供たちの表面の言動や行動を見ては「イイ奴だ」「嫌な奴だ」と思っていました。だからその(番格の)子にそれほど誠実な心があるとは(侮って)思っていなかったんです。

大人になって人を信じて見ようと思ったんですよね。すると、記憶の蓋が空いて次々と「あれはこうだったんだよ」と自分が自分に真実を教えてくれたんです。これは本当に幸せな体験でした。

「どんな人であっても、
 上手く行動できなくても、
 皆が皆、自分のドラマの主人公であって、
 本当は物凄く格好いいのだ」

と分かったんです。

そして私はこれを信じています。

しかしちょっとしたコツがあります。

「誰だって誘惑すれば負けるし。励ませばついてくる。
 そういう脆さがあるからこそ、嫌な自分を体験させない
 ように格好いい方に倒してあげるべきなんだ。
 自分が何もせずに相手を格好良くする事は出来ないんだ」

自分が様子見をしていたら、相手は格好悪い方に倒れますよ。そんなもんですよ。相手が格好いい振る舞いが出来るように(引っ込みがつかないように)格好いい方に誘惑して「もどるな。もどるな」と持続的に相手の格好いい所を褒め続けないと行けないんです。

人間が性善だ性悪だという人は「やる気がない人」です。どちらにも成り得ると信じて自分が一押ししてあげるべきでしょ?

「お前は格好いい奴なんだ。信じている。
 お前が負けるところをみたくない」

そして、

「自分は格好いいのだ?」

と感じた人は二度とそれを手放そうとしませんよ。一度でも格好いい方を体験させれば、その人はずっとイイ奴のままなんです。そして「その様な変化を他人に与えられるように」と意識する事が大事なんだと思います。

信じる事の真の力をお話しました。

以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!
私には難しい話でしたが、わざわざ書いていただきありがとうございました。

お礼日時:2023/07/23 23:27

私も含め6割あなたと同じ性質だと思います。


残り3割は鈍感、ポジティブ。残り1割は守られてるセレブじゃないかと個人的に思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

お礼日時:2023/07/23 23:25

そんなものと言えばそんなものかもしれませんね、、、。



でも実際には、嘘つきや詐欺師、極端な例で言えば、オレオレ詐欺を指示しているような人間ですら、常に24時間嘘を付き続けているというわけではありませんし、普段の生活上、または友人関係に於いても、一般の人達よりも正直で信頼でき、困ったときには助けてくれるような人もいたりします。

色々な意味も含めて100%常に正直な人は滅多にいないかもしれませんが、ある特定の人のみが、ある特定の他の人達よりもより正直かどうかというのは難しいところがありますよね。

少なくとも、悪さをする人達でさえ、自分の欲求には正直だとも言えるのですから、、、。
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この回答へのお礼

たしかに。
24時間どんな人間であっても、嘘をつき続けるのはしんどいですね。

私の考え方に偏りがあるのかもしれませんね。

お礼日時:2023/07/21 23:39

性質じゃ無くて病気じゃないですかね

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この回答へのお礼

自分でも分からないんですよねー

お礼日時:2023/07/21 23:37

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