遅刻の「言い訳」選手権

明治時代薩長閥といいながら薩摩出身の総理大臣は人数も期間も少ないですね。なおかつ大正以降は長州と対照的に0ですか。

A 回答 (3件)

鹿児島の人は、地元愛が強く、中央に対する執着が弱いのでしょう。


一方、山口県は、中央でいい顔をするためには、平気で原発施設の誘致のように、地元を犠牲にすることを平気で。
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これ、司馬遼太郎も指摘して


いましたね。

薩摩藩は、幕末時、あれほど
凄まじい権謀術数の
限りを尽くしてきたのに、
事が成ったら、
しぼんでしまった、と。

闘争期にこそ、力を発揮する
国柄なんでしょうか。
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やはり、明治維新の最後の戦争とも言うべき西南戦争で、西郷隆盛をはじめ薩摩出身の有能な人の多くが戦死したことはあるでしょうね。

西南戦争直後には薩摩藩出身の西郷とならぶ大久保利通が暗殺されます。

薩摩出身の両雄が亡くなれば、当然、薩摩の力は落ちるでしょう。ですので明治後期になると、長州藩出身に占められるようになってきますね。

典型的なのは蛤御門の変で、死亡した人達の取り扱いです。孝明天皇の命により薩摩は幕府と組んで長州藩を破ります。ですので当然。長州藩が「朝敵」「賊軍」になるのですが、なぜか「賊軍」のはずの長州藩兵の死者が明治の初めに靖国神社にまつられているのですよ。

朝廷の命令で戦に出動したはずの幕府兵・薩摩兵の死者がまつられたのは大正時代になってからです。
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