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もし日本が沖縄に攻め込まれる前に、第三国の仲介で、日本の要求も通る形で講和が結ばれたら、戦後の日本はどうなったと思いますか?またそんな仮定の話を描いた映画や小説はありますか?

A 回答 (2件)

安江弘夫著【大連特務機関と幻のユダヤ国家】


P.232 19年7月・・・安江(仙弘)に‥石原莞爾から親書が届いた。
「日本既に敗れたり。敗戦の責任はかかって海軍にあり。山本は死場所を求めていたのだ」(出典:辻政信戦争指導指針)
P.234 安江(仙弘)の慰霊祭での寺村詮太郎弔事。
「たまたま昭和19年の終わり、太平洋戦争も敗戦の断末魔となったので、ここに共に謀り、某国某ユダヤ人会某有力者に日米和平斡旋を尽力してくれるよう諮り、その賛成を得て翌20年3月には効果現れ「日本が南方及び中国大陸から一兵残らず引揚げるなら、米国は満州だけは日本の占領にまかす」という意見がワシントンにあるから、日本軍部から短波でワシントンに連絡せよとの事でしたから、私は1人で3月に上京し、同志石原莞爾と謀り、阿南惟幾も陸軍大臣として梅津参謀総長をも協力せしめ、東京の連絡は陸軍省軍務局長永井八津次少将、新京の連絡は関東軍参謀副長池田純久中将として、関東軍の短波でワシントンに連絡する事とし、某有力者の録音を吹き込ませ、いよいよ連絡せんとする際、池田中将から「中央の空気が変わったから一時見合わせてほしい」とて、再三迫ったが「暫く待ってくれ。善処する」との事で待機した。しかるに、間もなく秦彦三郎が参謀長としてやってきた。安江兄も私も秦氏とは意見の対立がかねてあり、精神も異なっているから、これは秦中将の邪魔と察し、また陸軍大臣に掛合ったが、相変らず「一寸待ってくれ」との事で、当時飛行機は無し、中央との連絡は取れず、池田中将やその他これに参画せし関東軍の幕僚も俄に他に転出したので二人は如何ともし難く、ついに手を引き運命にまかせた。折角の日米和平工作も水泡に帰した次第です。もし、安江さんの案が採用されていたら、今日の世界歴史は如何に変化しておったでしょうか。感慨無量です。」
p.s.
この和平案が成立していたら、満州国・南北朝鮮・台湾は日本保護領として現在も独立して存在していた可能性があります。
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これ



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