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関ヶ原の戦いは、毛利対徳川の構図で見た方がより分かりやすくなるというのは本当ですか?(石田・大谷も頑張ってはいましたが)毛利は、五大老筆頭の地位を狙っていたのですか?

A 回答 (7件)

人物・能力は別にして、戦力と威光的には中国地方の大半を領有する毛利一族の筆頭である毛利輝元が徳川家康に次ぐ存在であったことは間違いない。



石田・大谷が家康に脅威を与える大勢力を結集できたのは、毛利一族を西軍側に引き入れ、毛利輝元を西軍の総大将に据えることに成功したからだ。

関ケ原の戦いは、松尾山に陣取った小早川秀秋が裏切ったことで東軍の圧勝となったが、この松尾山は、西軍総大将の毛利輝元の本陣用に準備された陣地だった。

ここに、予定通り輝元が出陣していれば、戦いの様相はかなり変わっていただろう。
しかし、ここに毛利一族の重鎮小早川隆景の養子としてもうに入った秀吉の甥(北政所の甥)である小早川秀秋(形の上では毛利一族のひとり)が入り、輝元は何故か大坂城に豊臣秀頼とともに残った。

この辺の機微は、家康が毛利一族との裏交渉による成果だっただろう。
「毛利対徳川の構図で見た方がより分かりやすくなる」という話は、その辺の関ケ原の戦いを決定づけた両者の裏交渉のことを言っているのではないだろうか。
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この回答へのお礼

いつも、ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。

お礼日時:2023/11/13 18:50

西軍の名目的な総大将が毛利輝元ですから、そういう見方も出来ますが、その総大将が動かず、東軍が石田と大谷の二人の謀叛とアピール。


東軍も、徳川本隊が遅刻で、徳川以外の武将たちがメインですから、東軍対西軍が一番正確な表現かと。
毛利輝元は、適当なところで仲裁にはいり、漁夫の利狙いだったかも。まさか半日で決着がつくとは予定外で、結局、何も出来なかったと。
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関ヶ原の戦いは、毛利対徳川の戦いじゃないのは常識です。

 言うまでもなく、家康と三成の権力闘争です。
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ウソです。

誰でしょう?そんな無責任なことを言っているのは。

毛利は出陣したものの徳川方と密約を結び戦闘には参加しませんでした。もし毛利が参戦していたら、徳川方を包囲し西軍の圧倒的勝利になったでしょう。
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わかりやすい/わかりにくいと言うのは個人の感覚なんで、正しいとか間違いとかありません。

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そうでしょうか


既に密約をかわして中立の立場で戦わなかったのに?
其れよりも陣の配置 
元豊臣の家臣を前面に押し出し、いつ裏切るかと見張らしていた本多忠勝を見るほうが私は面白い気がします
輝元自体天下を競望せずと言った家訓を守っています
単に西軍の大将に祭り上げられたお坊ちゃまです
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それ、ドリフターズっていう漫画の解釈な

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