プロが教えるわが家の防犯対策術!

徳川家康は。豊臣家の権威を否定し、無かったことにしたかったから墳墓を破壊して遺骨を海に捨て、大坂城の跡地は徹底的に埋め立て、その積土の上に新たな徳川家の大坂城を建造しました。豊臣時代とは見た目もまったく違う大坂城に作り替え、豊臣政権の権威を無かったことにしたんですか?また豊臣秀吉の墳墓は阿弥陀ヶ峰にありましたが、これもポツンと墓があったわけではなく、当時巨大伽藍で大仏もあった方広寺から繋がる大きな寺社の中に荘厳な墳墓があったのですが破壊されたんですか?

豊国大明神の霊廟であり、イメージするなら日光東照宮の豊臣秀吉版が京都の東山にあったのですか?これをそのまま残すと、反徳川の聖地のようになってしまうので、破壊の必要がありましたか?

遺骸を掘り出して海に捨てるなんて?そこまでやる必要があるかとは思いますが、そのままには出来にくい事情はあったのですか?

A 回答 (3件)

質問者さんにお勧めします。


豊臣秀頼は大阪城で本当に死んだか。
秀頼の子供の国松は実は生きていた。
天草四郎は秀頼の九州亡命後の遺児だった。
なんて説があります。
ぜひ、調査してみてください。
質問と無関係回答を載せたことを
お詫びします。
私にはこちらの方が
凄い興味を覚える物です。
    • good
    • 0

大坂城に関しては家康ではなく秀忠の時代です。

家康は1616年に亡くなっていて、その3年後に大阪は幕府の天領となり、その翌年の1620年に大坂城の再築工事が始まっています。徳川二代目になったことで、大阪からの豊臣色の払拭を狙ったのでしょう。

大坂夏の陣の後、豊臣秀頼の庶子であった当時8歳の豊臣国松は、市中車引き回しの後、六条河原で長宗我部盛親らと共に斬首されています。そして、豊国廟も同じく1615年に家康の命令で廟と社殿が破壊されることになりましたが、北政所のたっての願いにより社殿だけは何とか残されます。しかし、社殿の修理をすることは一切許されず、朽ち果てるままに放置されます。その後、明治時代になって廃仏毀釈の流れから豊国神社の再建が行われたのに伴って、豊国廟の再建も行われています。

尚、秀吉の遺骸に関しては、明治時代に豊国神社再興工事の際に、針金で束ねられ朱で経文が書かれた瓦の下に埋められていた大壺(大甕)から数珠を手にかけて西向きに足を組んだミイラ化した秀吉のものと思われる遺骸が発掘されています。工事関係者の不手際で遺骸は崩れ落ちてしまったため、崩れた遺骸を拾い集めて再度埋葬されています。副葬品は盗掘にあってなくなっていたようです。掘り出されて海に捨てられたというのは、どこの情報でしょうか。さすがに、そこまではしなかったのではないでしょうか。

家康は、大坂夏の陣で秀頼を滅ぼし、更に豊臣の廟と孫を消したことで、豊臣家の影響力を自分の死後に残さないようにしたと考えられます。そうすることで、やっと安心して翌年に永眠することができたのでしょう。
    • good
    • 0

欧州の王家や中国王朝が代わる時は前の支配者一族は皆殺しされるのが


常ですが、日本では、その様な事はしません、

墳墓を荒らす様な人物に天下を治める事は出来ません。
項羽は始皇帝の墓を暴いたので、諸侯が離れ、劉邦に負けました。

高台院が秀吉の後を継ぐのは家康と決めたから、家康が幕府を開けたの
です。
高台院が「わらわの元に来やれ」と一声、発すると、その日の内に
一万、翌日には五万、遠く肥後の加藤清正が駆けつける頃には二十万の
軍勢が集まる、後家さんなのです、徳川家康と言えど太刀打ち出来ない
存在なのです。

大坂は関西の拠点として重要不可欠だから城を再建したのです。
織田信長は石山本願寺の跡地を商業都市にするつもりでしたが、
秀吉は大坂城を建て、太閤検地で得た財をせっせと蓄財しました。

堺、難波、福原(神戸)の巨大商業圏の構想は秀吉には、無かった
様です。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A