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霊・死後の世界の存在を真面目に信じている人間がけっこういます。彼らはどこで間違えてしまったのでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • 質量を伴わない存在ということは絶対にあり得ない。
    存在とは「物質としてあること」を指します。

      補足日時:2024/06/23 08:29
  • 高卒・四流私大卒に生存*なし。

      補足日時:2024/06/25 05:53

A 回答 (52件中21~30件)

神がいると信じる人と、いないと信じる人というのは、実は、コインの表裏のようなもので、どちらもそう信じてるという意味において同質なんです。

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そうですね。

光は現象の1つなのは事実ですし、この世のほとんど、と言うか全ての心霊現象はその理由が科学的に説明がつくと思います。

ただ、全ての心霊現象に説明がつくからといって、霊がいないという証拠にはなりません。いわゆる悪魔の証明というやつです。
霊がいることを証明するには霊を1匹出せばいい訳ですが、霊がいないことを証明することはまず不可能です。

存在の否定が不可能である以上、いるかもしれないとも言えるわけですから、いることを信じる人が現れるのは自然でしょう。また、なにか心の拠り所が欲しい人は、そういったものに対して救いを求めるためにも、霊や神はいる前提の上で、こうすれば救われると定義してそれに従うようなことをし、精神的な安寧を得たいという人もいます。宗教ってやつですね。
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存在の定義を物質の有無においているのであればそうなのかもしれませんが、その定義の仕方がどうなの?と思う所存です。


ある事象が、たとえあなたの言う「現象」であっても、実際に観測されているのであればそれは存在していると言えるのではと思います。
もちろん、科学的な議論をするときに、幽霊がいたんだ!と言って幽霊の存在を認めるのはどうかと思いますが、光や感情は現象であっても、光や感情がそこにあるのは間違いありませんからね。
光などの概念が物質でないというのは、私も事実だと思います。ただ、物質でないから目の前に実在しないというのは正しいのかと思います。

要するに、目の前のそれが「物質」なのか「現象」なのかを判定するのは間違いなく重要ですが、存在しているかどうかという杓子で言えば、観測されているのなら、「その物質は存在する」、「その現象は存在する」と言わざるを得ないと思います。

>間違ったことを書いて〜
もし間違ったことを書いて、それを指摘くだされば、それはもちろん認めて訂正しなければならないとは思いますが、
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この回答へのお礼

定義の仕方とかではなく「表現」の問題でしょう。光が見えるのは現象です。霊は現象の錯覚です。

お礼日時:2024/06/23 17:18

具体的にどのあたりが訳わからん知識のマウントだと思われたでしょうか。


あくまで客観的な意見を述べているつもりです。もしそれがうまくできていない箇所があれば、具体的な箇所をご指摘お願いします。
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この回答へのお礼

物質ととして存在していなくても「現象」として見えているだけなんですよ。だから光は概念であってそれ自体は「物質」「モノ」ではないんです。間違ったことを書いてあたかもみたいなことを自信ありげに書くのって更にタチの悪い「間違ったマウント」じゃないですか?

お礼日時:2024/06/23 16:24

>存在するということは〜


確かに、光(光子)は物質ではなく電磁波の1つです。
しかし、電磁波として存在しているのは事実です。
もし光が存在していないのであれば我々は何も見ることは出来ません。視覚というのは、目から受け取った光を脳で認識することなわけですからね。

さて、ところで、存在する=物質であるという前提が私にはよく分かりません。
例えば、この世には「サッカー」というスポーツが存在しますが、「サッカー」という物質はありません。
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この回答へのお礼

劣学歴の人間は訳の分からん知識でマウント取ろうとするけど、ホントにばかなんだな。笑笑

お礼日時:2024/06/23 16:01

詐欺師的悪徳導師に洗脳されたからです。

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その人の考えが間違っていたとしても行動が間違っていなければ良いのでは?



以下は長いので参考程度にお読みください。

私も若い時は「真実を知るべき」と思っていました。しかし「人生の苦境」を味わったとき「打算や偽善」によって親切にされたことがあります。これに対しては本気で感謝しました。逆に「道理」を持ち出されて厳しくされた時もあります。これに関しては無性に腹が立ちました。

「実施した人の心のうちは関係ない。俺は感謝したいだけだ」

この様に強く思ったとき「その人の動機」は気にしても仕方ないと痛感しました。「相手の意見や考えは話半分」とし「何をするのか?」だけを見るようになりました。

「死後の世界を信じて現世をいい加減に生きる人もいれば、
 死後の世界を信じて現世を修行の場と考える人もいる。
 死後の世界を信じないで何をしても無駄だとあきらめる
 人もいれば、死後の世界を信じずに現世でしか自分の成
 長を楽しめないと考える人もいる。現世に生きるうちは
 現世でいい加減に生きている場合のみ咎めればよい」

という結論に至りました。

他人がどう考えているかを気にして咎めて回れば「自分の人生が有限である」という発想に立って合理的じゃありません。そんな暇はないはずです。

「これで終わりじゃないとしても、今を無駄に過ごしてよ
 い理由にはならない。やはり機会損失は起きている」

私は霊の存在や死後の存在を否定するのは合理的ではないと思っています。私たちは証明がなされた後も「その証明の前提が間違っているケース」を想定しています。安易に他人の証明を信じてはいけないのです。科学が万能でないのは「うっかり決めつけていました」と後で反省されて発表されるからです。

しかし、

「科学を否定することで神秘の存在を証明しようとする人
 もいるが、科学も神秘も双方ダメダメだったという可能
 性も残る。科学を否定することで神秘を証明しようとす
 る人ほど科学の存在の大きさに慄いていることになる」

ということも言えますよね。

科学だせえと思っている人は敢えて科学を否定するような暇なことをしません。神秘万世の人は「科学かわいそう」と思っているはずでしょう。

逆に「科学万世」の人は「神秘かわいそう」と思っていて「神秘の否定」のような暇なことをしないんです。

では科学も神秘も「信用できない」という立ち位置に立った時、人がとる合理的な方法は何か?

「どちらが正しいのかはっきりしてくれ。どちらに賭ける
 のか決めたいんだよ」

「どちらにも札を貼っておくのじゃだめなんかい? どち
 らか一方だけしかしたくないという物臭に思えるよ。
 大事なのは確からしいとなったとき、手のひらを返して
 先行していた人たちを追い抜くことだろ? どちらかし
 か認めないって人は容易く追い抜かれるぞ。状況を見て
 本気を出すだけでいいはず」

私は神秘の存在がありそうだという社会風潮になったとき、いち早く先行者を追い抜いて利益を得ようと思っています。そのため中腰で様子を見るのが正しい選択であり「一般に信じられているから」という理由で用心を怠るのは怠惰であると思っています。

「結局誰もがどちらか一方に賭けるほうが危険だときがつ
 いて死後の世界があろうとなかろうと現実に集中する以
 上に効率の良いものはないと気が付く」

死後の世界があると信じて現世を無駄に生きた人は、死後の世界がなければ丸損です。死後の世界がある事と現生の生き方は独立しており、その存在の有無によって「今の自分のベスト」が変わることはないのです。

例えば「死後の世界がない」と固く信じている人は「死後の世界があると信じており、そのために現世でも充実しよう」としている人に対しては「理由は間違っているが、俺のほうが負けそう」と思えばよいわけです。その逆であれば「理由も生き方も間違っている」と思えばよいでしょう。そして死後の世界を信じている人も同様です。大事なのは「現世の生き方」でしかないのです。

「結局は死後の世界の有無により、今の生き方を変えよう
 という企みを持つ人が一番損をする」

となります。

なので興味を引く話題であっても入れ込み過ぎては行けないというのが大人の立ち位置であり、夢中になっている人に対して諫め、同時に諫めすぎて自分のことが出来ないという愚かな状態を避けようとします。

死後の世界を否定しないのは「あろうとなかろうと、今を充実させる以上に得なことはなく、そんな暇ないから」です。

以上、ご参考になれば。
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途中の回答に「死後の世界がないことを証明すべき」とありましたが、死後の世界が存在することを主張する側が存在することを証明すべきだと思います。


何故なら存在しないことを証明するのは難しく、悪魔の証明になってしまうからです。
科学的に証明できないものは、一旦存在しないものとして扱われるのが普通です。
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>質量を伴わない存在ということありえない。


光は質量0ですが存在しますよ?
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この回答へのお礼

存在するということは、それが「物質」であることを示さなければならない。存在するとは「質量のある物質である」ことなんです。光や音は「現象」に過ぎない。

お礼日時:2024/06/23 13:39

間違えたと言うよりも、死ぬことが怖くて、死んだ後も魂となって自分の存在が続くことを願っているのです。



宗教の大半が死後の世界を示しているのは、死ぬ事へ恐怖を持っている人に安心感を与え、進行することで叶えられる誘うためです。
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この回答へのお礼

おっしゃるとおりだと思います。事実を知るのが怖いんでしょう。(^^)

お礼日時:2024/06/23 13:50

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