ちょっと先の未来クイズ第4問

レポート課題です。

縄文時代~鎌倉時代までの出来事についてレポートを書かなくてはなりません。

レポートを書く手順は、以下の通りです。

①出来事が起こった原因について書く

②出来事が世の中に与えた影響について書く


源頼朝の政治力に惹かれ、鎌倉幕府の誕生について取り上げたいと思いました。

しかし、
①鎌倉幕府の誕生の「原因」について、文章に起こすのが難しいです。

以下、間違いがあれば、ご指摘ください。
源平の合戦に勝ち、天皇から征夷大将軍を命じられ、鎌倉幕府を誕生させた。原因として、何だかしっくりきません。
人間誰しも、権力がほしい。鎌倉幕府を誕生させた原因として、権力が欲しかったからも、レポートに書くにはおかしいです。

どのように表現すれば、良いのか、お詳しい方にご教示頂きたいです。宜しくお願い致します。

またその他の歴史的出来事で、レポートの書き方の手順を満たす、分かりやすい出来事があれば、併せてご教示頂きたいです。

質問者からの補足コメント

  • 以下、自分なりに調べた内容です。間違っていたら、ご指摘ください。

    平清盛や弟の源義経は、天皇や貴族のところに自分の子を嫁がせたり、関わりを持ち、政治の実権を握るという昔からの考えから抜けきれなかった。

    しかし、源頼朝は、そのような使い方を古いとし、そのような考えらなかった。
    天皇を守るという立場にたち、武力で不当に抑えつけるということはしなかった。

    これらの時代背景も絡めつつ、鎌倉幕府の誕生の原因を文章にしたいです。

    乱文失礼致します。宜しくお願い致します。

      補足日時:2024/08/11 17:59

A 回答 (7件)

平安の朝廷貴族は、子供作りと和歌詠みと蹴鞠に明け暮れていました。


年貢を集め納める地方の豪族に不満が溜まるのは時代のの流れでしょう。

宋との交易で財を得た伊勢平氏の平忠盛・清盛の親子が朝廷に風穴を
開けたのです、これに由り、坂東の豪族は朝廷が無力・無能な事を
知ったのです。
流刑で伊豆に居た八幡太郎義家の嫡流の源頼朝の基に坂東武者が
集まるのも当然の流れでしょう、源頼朝は血筋は有れど自前の兵力は
有りませんでした、そこで、一所懸命の法度を作り、領国の経営権を与え
ました、年貢が入らない朝廷は当然、兵を派遣して源平合戦の始まりです。

平清盛は瀬戸内と九州に盤石の体制を作り上げて居たので、源氏に
負ける要素は無かったのですが、軍事の天才源義経の登場で敗れたのです。

坂東の雄、新田家や足利家は、浅間山の噴火の復旧の時に平清盛に
援助して貰っていたので、頼朝の挙兵に参加出来ませんでした。
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吉川英治が「平家物語」で勝者必衰と言い切ってるように、平清盛政権は絶対的な強さを誇ってました。


その平家を追い落としたものの、そこから逆襲されないために、ヨメさんの実家・北条家の勢力が強い鎌倉に幕府を立てて、権力を安定させる必要があった。
 平家のように、朝廷がある京都近辺を拠点にしていろいろ干渉されるよりは、離れた場所に武士の世界を創るのが、頼朝の理想。朝廷=天皇も、武士たちが関東に行けば、自分たちの生活環境はそのままだから、ウィンウィンの関係かと。

朝廷は、頼朝と義経の二大勢力をいがみ合わせて均衡を取ろうとして、義経にいろいろ働きかけた結果、頼朝の義経抹殺作戦スタート。頼朝は、ついでに奥州の大勢力、藤原氏も義経を匿う悪い奴と因縁をつけて、屈服させた。東北地方はこの時から、ずっと低迷が続く。
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直接の原因は、北条政子との結婚とそれに伴った北条氏の権力の拡大です。

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>縄文時代~鎌倉時代までの出来事について



ここに課題の隠れた意図があります。それは「土地所有と保障」です。

平安時代の初期は律令制で口分田だったのに、やがて墾田永年私財法ができ個人の土地所有が認められるようになります。

ただ同時に「他人が開墾した農地を武力や権力で奪う」人たちも出てきました。

なので人々は「自分の土地を奪われないようにする」努力をするようになっていきます。
 これが鎌倉幕府開闢に深くかかわっているのですが、平家もその前の藤原摂関政治も基本は同じです。

当時の日本で「どうやって富を得たのか?富を維持するために何をしなければならなかったのか?」を読み取れば、鎌倉幕府の成立は説明できると思います。
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そもそも「鎌倉幕府」ってなんなの? ってところは押さえておいた方がいいんじゃないかなぁ.



どの時点で「鎌倉幕府の成立」とみなすか, だけで (時間にして 10年以上異なる) 5つくらいの説があるわけで.
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①頼朝は流刑人で、直属の幼い頃から従ってきたような家臣は一人もいません。

どのような人々が何のために頼朝を担いで、朝廷(平家)に反旗を翻したのか。
②朝廷の平家を倒しても、天皇・上皇の権威を否定しなかったのは何故か。
③頼朝直系の将軍が、横死を続けて途絶えたのは何故か。そもそも頼朝にさえ暗殺疑惑があるのは何故か。

①と③は似たような話になるかもしれませんが、その辺を、平将門の失敗と関連付けて、論をまとめれば、鎌倉幕府誕生に関する良いレポートが書けるのではないかと思います。
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頼朝には3人のお手本がいました。


関東に新しい独立国家を建てようた平将門
朝廷に従いながらも東北で実質的に独立を果たしていた奥州藤原氏
朝廷内で栄達し、京で位人心を極めて平清盛の平氏政権
これらの良いところ採りをしたのが頼朝です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
⚫平将門
⚫奥州藤原氏
⚫平清盛の平氏政権
自分では、結び付けて考えることができませんでした。歴史の流れから、つながりを持って考える。難しいことですが、そのような力を身につけて、歴史を楽しみたいです。

上記3つは、鎌倉幕府の誕生の「原因」になりますが、レポートの書き方の基準を満たすように表現が難しいです。

お礼日時:2024/08/11 18:27

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