あなたの習慣について教えてください!!

織田信長が足利義昭を追放したので室町幕府はほろんだと言われます。でも不思議です。
明応の政変以降、足利義材以降、まともに京にずっといられた将軍はいません。また、義昭の追放後も帰還交渉もされています。
信長による追放とは、それまでの逃げ出した将軍の状況となんら変わらなかったのではないかと思います。それなのに、なぜ義昭の追放が室町幕府の滅亡と言われるのでしょうか?

A 回答 (6件)

Wikipediaによれば、



・元亀4年(1573年)7月、京都より追放される。
・天正4年(1576年)2月、備後国の鞆に動座し、亡命政権・鞆幕府を樹立。
・天正15年(1587年)10月、京都に帰還。
・天正16年(1588年)1月13日、 征夷大将軍を辞す。准三宮の宣下を受け、皇族と同等の待遇を得る。出家し、昌山道休と号した。

ということで、
亡命政権が無力だったと考えれば、追放された時点で実質的に終わり。
形式的には、正式に征夷大将軍を辞した時点で終わり。

どちらの立場を取るかの違いでしょう。
    • good
    • 1

はい、なかなか微妙なところです。


義昭自身はその後も将軍として振る舞っており、信長自身も義昭との関係修復を試みるなどしています。
それに対して朝廷は早々に信長に対して畿内の静謐権を与えたり、数年で右大将に任じて実質的な武家の棟梁と公認したりと信長の実質的な将軍化を進めています。
グラデーションがかかった時期なので、ハッキリと「何色」と決めつけるのは不可能だと思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。そうなんです。本当はあいまいなはずなのに織田信長による追放で、室町幕府は滅んだという話しになっている。それは、なにか明確なものがあったのだろうか?と感じる次第です。

お礼日時:2024/09/28 19:20

永禄11年10月18日(1568年)、足利義昭は正親町天皇からの将軍宣下を受けて、足利幕府の第15代将軍に就任した。



天正16年1月13日(1588年)、足利義昭が将軍の地位を後陽成天皇に返上し、このとき足利幕府が終った。

と、私は考えています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうなんです。以前も逃げたした将軍だらけで信長の追放も同じです。出先で幕府というか、館をつくって指示を出していたのも同じです。
義昭だけが追放されて終わったと言われるのか不思議でした。本当は、将軍位を返上し後代を立てなかったとき滅んだというのが本当だと思うのですが。実質的な滅亡ならとっくに滅んでいると思います。

お礼日時:2024/10/07 08:00

一部の歴史学者が叫んでいるだけで決まって居るわけでは無いです。


印刷会社にとっては重要な問題ですが、一般人にはどうでもよい事です。

歴史は連続して進んでいる物であり、ある日から突然変わるものでは無い
のです、鎌倉幕府の始まりも現在、討議の最中ですよね。

歴史の教科書に載せるて授業するには、区分分けした方が都合が
良いですから、歴史学者の学派で揉めるのです、力の有る学派の
意見が通る場合が多い様です。

手紙や古文書で未解読の物が百万通以上有るそうです、新しい事実が
見つかったら、変わってしまう物です。
    • good
    • 0

幕府の頭領は征夷大将軍だが義昭以降は征夷大将軍になれなかったから。

    • good
    • 0

その後の後継が出なかったからでしょ

    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


おすすめ情報

このQ&Aを見た人がよく見るQ&A