これ何て呼びますか Part2

上杉景勝が会津征伐において南下していたら、関ヶ原の戦況は変わりましたか?

結城秀康率いる徳川軍を撃破、江戸城攻略、家康追撃の勝算は?

A 回答 (6件)

秀忠が率いた徳川本隊が、真田の上田城手前でもたもたしてましたし、家康の進軍も、それほど早かったわけじゃない。


上杉軍が攻撃しないと見極めるまで、それなりの対策は用意してたでしょう。
 上杉軍を叩いてから、改めて関ヶ原へ行進再開で、大勢に影響なし。
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徳川軍の迎撃の準備をしてたが追撃の想定はしていないし、背後には、


伊達と最上がいます。
奥羽では、上杉は、よそ者なので、領地の体制は弱く構築の最中で、
近隣の大名達との友好関係を結んでいませんでした。
南下すれば、坂東の大名達が領土拡大のチャンスとして、会津に攻め込み
ますので南下して追撃する事は出来ないでしょう。

現に、直江兼続は最上勢を追っ払うので手一杯でした。
伊達政宗はこの隙に南部を攻めた事が家康にバレて、領地100万石の
約定がパ~ァに成りました。

豊臣秀吉の深謀遠慮の政策を徳川家康は上手く利用したのです。
伊達政宗の行動も予想して間者を忍ばせていたのです。
これ以降、伊達政宗は領地拡大を諦め内政の強化をしましたので
60万石の領地は実質100万石越えに成りました。
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この頃東国は、家康派の大名がほとんどでしたから、家康派の大名の加勢も計算して、江戸城はそう簡単には落ちないと踏んで


家康は西へ向かったと思われます
なので、上杉軍が動く事は想定済み
関ヶ原の結果にはほとんど影響はなかったと思われます
そして、江戸攻略は籠城戦となれば時間がかかりますから、関ヶ原の決着がついてもなお上杉軍が江戸を手にすることは出来ていない事でしょう
さらに、その後について
九州では黒田官兵衛(如水)が九州平定を目論み、もしかしたらその後九州の兵力を持って家康に挑もうと考えていたかもしれません
がしかし、
あまりの決着の早さに、それも間に合わないと踏んだのか、如水が家康に挑む事はありませんでした
こうなると、西から一部の軍が江戸戻って来て、上杉は敗退となった可能性が非常に高いかと思われます
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上杉を越後から会津に動かしたのは、徳川が軍を畿内に向けた場合に、徳川軍の後ろを突くためで、その前提は、上杉の後方の最上と伊達が上杉の与力としてともに徳川の後ろを突く。

それが豊臣秀吉の戦略でした。

こういった大名たちの国替え戦略の立案には、太閤検地の実務を担っていた石田三成や三成の補佐役的な役回りも担っていや大谷吉継も大きく関わっていたでしょう。この2人と、上杉を事実上仕切っていた直江兼続を加えた3人は、ある意味、それを実行に移したということになります。

しかし、三成の決起を知った吉継が猛反対した理由は、秀吉死後の豊臣恩顧の大名も含めて有力大名たちの多くが、徳川家康寄りに動き、三成は逆に嫌われまくっているという事実でしょう。
実際のところ、最上と伊達は明確に徳川の与力大名に化しているので、三成が反家康勢力を結集できたとしても、上杉は徳川軍の背後を突けないということもある。

それでも三成の決意は揺るがないことを知って、吉継も決起を決断しますが、人気がない三成にはじっと今までのように隠れていろと主張し、吉継が根回しをして毛利を反徳川軍の総大将に担ぎ上げるところまで持って行ったわけですね。

上杉は、会津方面に徳川軍を出来るだけ引き付け、大垣城やその後方の陣構えを急ぎ構築していた関ケ原方面で想定される東西対決の結果を。出来るだけ西軍が有利になるようにする。上杉の役割はそこまでで、あとは西軍勝利を待って掃討戦に参加するという感じでしょう。
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無いです。


旧領の切り取りを目指す伊達政宗と犬猿の仲である最上義光が不穏な動きを見せていたので、動きようが無かったのです。最上攻め以外の選択肢は伊達攻めですね。広い最上領との境を守るのは困難ですが、最上の目標は庄内平野の奪還ですから、庄内平野に手厚く防御を敷きつつ、伊達を攻め、伊達を倒せば陸奥からも最上を脅かすこともできます。
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歴史には結果しかありません


そういった妄想は単なる小説の世界でしかない
言い放題です
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