dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

江戸時代にヨーロッパに日本の浮世絵が伝わってジャポニスムが興ったように、同時代の隣国の朝鮮には日本のものは伝わらなかったのですか。

A 回答 (8件)

朝鮮には日本のものが伝わるためには、


・朝鮮側に、日本の文化の中に優れたものがある事を認めなくてはなりません
・また、朝鮮の中で、日本の優れたものを学んで受け入れようという意識が無いと、日本の文化が朝鮮に受け入れられて根付くことはできませんね。

その朝鮮半島の意識が中華思想と、小中華思想に表れています。
 まず、中国が文明の中心の偉大な国だという中華思想。この思想で朝鮮半島は中国の属国扱いされながらも文句を言わずに中国に仕え続けてきたんですね。
 それを立場をスライドさせて、自分たちは偉大な中国に隣接する偉大な国だと勝手に定義して周辺の日本などを見下して自己満足に陥るのが小中華思想です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%B8%AD …

 日本文化の中に優れたものがあると言うことを認めたり、それを受け入れようとするのは、この小中華思想を覆すことにもなりますね。と言うことで、当時の李氏朝鮮などの支配者にとって、日本の文化を認めたり取り入れたりすることはあり得ない事だったんだと思いますよ
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとう

お礼日時:2024/06/14 15:13

交流があったことと、文化が移動してその地域に根付くかは全く別問題です。



たとえば朝鮮通信使は、日本の水田で使われいる水車に注目し、持ち帰って作ったそうですが、それが朝鮮国内に広く使われることもなく、また最初に作ったいくつかのものもメンテナンスされずにそのうち廃れた、と言われています。

これが中華思想と儒教思想を是とする朝鮮国の実態で、通信使などが伝えたものはたぶんそれなりにあったのでしょうが、根付いたものは驚くほど少なかった、といえます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとう

お礼日時:2024/06/14 15:13

当時の朝鮮王朝は、中華思想&儒教(朱子学)一辺倒の国家で、1に中国、2に朝鮮で、日本は何番目でしょうというか、論外でしょう。



当時の朝鮮は、思想が非常に硬直化していた国家で、清が明を倒す際に朝鮮は明側に付いたため、清の猛攻撃を受けて属国化されてしまいました。
属国化されたので、国の在り様としては酷いものでしたが、そのまま硬直性が温存されることになりました。
結果的に、明治時代の末に日韓併合を迎えるまで、硬直化した思想・体制が続くことになります。

朝鮮の中華思想では、本家の中国は当然として、朝鮮は唯一無二の分家という位置づけでした。
つまり、日本は未開の野蛮国(東夷)という位置づけです。朝鮮の知識人にとっては日本の文化なんて浮世絵も含めてすべてがゴミクズ同然だったでしょう。

日韓併合で、日本に来た韓国人たちは、日本には凄い寺社建築や壮麗な仏像などの文化が古代があったことを知りましたが、それらはすべて昔の朝鮮人が日本人に教えてあげたものであったり、倭寇や日韓併合で朝鮮から盗んでいったものばかりだ。ということになっているわけです。
多分、今でもそう思い込んでいる韓国人が大半でしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとう

お礼日時:2024/06/14 15:13

基本、大陸→日本なので難しいですね。


唐辛子くらいしか思いつかない。

韓国のキンパが、日本の巻き寿司ルーツという説がありますが、
これも諸説あって正しいかは不明といったところ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとう

お礼日時:2024/06/13 12:05

韓国の正しい歴史では、日本の文化は、韓国が教えた物なそうです。


兄の韓国が弟の日本からは学ぶ物は無いという、上から目線ですから、
学ぶ事はしないのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとう

お礼日時:2024/06/13 12:05

江戸時代には朝鮮聘礼使がいたので当然交流はありましたし、鎖国はしていても琉球と朝鮮だけは国交がありました


従って多方面で交流があったのは当然です
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとう

お礼日時:2024/06/13 12:05

江戸時代にヨーロッパに日本の浮世絵が伝わってジャポニスムが興ったと言う認識は間違っています。

 ご存じの通り、江戸時代には、海外との接触が幕府によって厳しく制限されており、日本の浮世絵がどんどんヨーロッパに輸出されたと言う事実もありません。 ヨーロッパでジャポニズムが勃興したきっかけは、初めて明治政府が日本の政府として正式に万国博覧会に参加した1873年(明治6年)のウィーン万博です。  ウィーン万博で紹介された日本の陶磁器などがどんどんヨーロッパに輸出されるようになりましたが、浮世絵はそれら陶磁器の包み紙や、梱包材として使用されていたのです。 江戸時代の浮世絵は、今で言えば庶民相手のグラビア雑誌のようなもので、その芸術的価値は日本では認められていませんでした。 陶磁器の梱包材としてヨーロッパに送られた浮世絵の芸術性をヨーロッパ人が認めて、浮世絵が世界で日の目を見ることになったのです。 

因みに、日本が万博に参加したのは、江戸時代最晩年の1867年に開催されたパリ万博ですが、この時は、幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ独自に出品を行っただけで、まだ「日本」という国を紹介するとは言えないかたちでした。 

上記の通り、江戸時代には海外との接触が幕府によって厳しく制限されており、朝鮮とは対馬を介してのみの接触が許されており、朝鮮通信使が日本との交流を行いました。 また、対馬の人々だけが朝鮮との交易を許されていましたが、そんな細い交易ルートでは、日本のものが多く朝鮮に伝わることもありませんでした。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとう

お礼日時:2024/06/13 12:06

有名なのは赤唐辛子ですね。



それまで朝鮮半島では赤唐辛子は栽培されていませんでした。
これは文禄・慶長の役の時に日本から持ち込まれたものといわれています。

なお当時のアジアでは中国が圧倒的な力をもっていました。
ですから朝鮮も中国文化の強い影響下にありましたから、日本からは少ないです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとう

お礼日時:2024/06/13 12:06

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A