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朝鮮半島の歴史は大陸勢力の属国状態である時代が長いですが、曲がりなりにも新羅→高麗→李氏朝鮮 と王朝が続いており、他国の完全な支配下に置かれたのは日本が併合した35年だけです。

唐、宋、明といった漢民族の王朝系でなく、元や清といった騎馬民族系の王朝も朝鮮半島を攻めて服属させますが、あくまでも属国として扱っており、朝鮮州とか朝鮮省になることはついにありませんでしたが、それはなぜでしょうか?

大陸勢力にとって、朝鮮半島を自国に編入する魅力がなかったのか、コスパ的に見合わないと考えたのでしょうか?

A 回答 (3件)

中国大陸を支配した「漢民族」と呼ばれる人たちには、明確に「自分たちの領土の範囲」と言う考えがありました。



具体的にいえば、北は黄河流域まで、南は長江を主眼にしつつも珠江流域までが「漢人の中原」としました。理由は「農業民族である漢人が抑えておくべき河川流域であり、黄河から珠江までは殆ど山がない平原」だったからです。

この平原を中心として栄えた民族を漢人と呼びます。
この図面を見てもらうと分かると思いますが、、北京ー西安ー上海を結ぶ領域は大平原になっていて、ここに四川盆地を合わせた地域が元々の「漢人の領域」だったのです。

この地形を元にして、中華思想が発展し#1の説明の通りになるわけですが、さらに話は続きます。
北京を見てみると山裾にあることが分かると思います。この山から北側は高原であり、農耕には適さない場所になります。ですから騎馬民族であるモンゴル民族などが支配する地域であり、そこから西の朝鮮半島にかけては大興安嶺と長白山山系が連なり、大興安嶺の東側は満州族の土地、長白山から西南は朝鮮族の土地、だったのです。

漢人は騎馬民族が大嫌いで、万里の長城を何度も作り変えていますが、そのたびに騎馬民族側も侵攻して略奪を繰り返したわけです。

逆を言えば、北京より北側の騎馬民族、珠江より南のベトナム民族などが中華平原に侵入してこなければ「とても豊かで平和な土地」だったわけです。これほど広い平原は世界中でもなかなかありませんから、周囲に出て行ってコストを掛けるよりも、侵入を防いで漢人の国家を発展させた方が良かったわけです。

朝鮮に関しては、厄介な場所にありました。陸路で行くには満州族の土地を通る必要があり、多大な犠牲が必要になったからです。船で行くならすぐに行けたわけですが、陸路に比べれば手間もお金もかかり、逆に朝鮮半島というか旅順あたりから満州族が船で侵略しに来るかもしれなかった、といえます。

騎馬民族も船は嫌いだったので(馬を運べないから)、それほど心配はいりませんでしたが、朝鮮は懐に入れておく安全保障は必要なものの、自分たちの領域とするには野蛮で言葉も文化も違う民族だったので、中華には入れなかった、ということになります。
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中華思想からきています。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF …
東夷・南蛮・北狄・西戎という言葉を聞いたことがありますか。
中国は世界の中心であり、その周辺国は夷(野蛮人)です。
そのような野蛮人たちは服従させることはあっても
統一して一緒になりたいと思わないのです。
ちなみに日本や朝鮮は東夷にあたります。

古代では、中華の威を得ることは周辺諸国への外交で
非常に有利な立場になりますから、こぞって朝貢し
倭の王の珍は「使持節都督倭・百済・新羅・任那・
秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を称して
宋の国に任命を求めて朝献したとされます。
実際に倭が中国の支配下になったのではなく、
百済や新羅も支配下に置いたわけではありませんが、
当時は中国に認められることが必要でした。
日本は聖徳太子のころに中華思想の呪縛から抜けましたが
朝鮮は下関条約までその影響下にありました。

近代でも、1871年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件で
抗議する日本に、台湾を「化外の地」として清国の領土でも
法律が行き届かないから責任が無いという態度でした。
これがのちの台湾出兵につながりますが、
出兵した日本に(事件の責任はとらないけど)清の主権を
侵害したと激しく反発しています。
(その後は日本の主張を認め補償に応じています)
中国にとっては過去の朝鮮も化外の地だったのです。

現在の韓国では、檀君神話によって紀元前2333年に成立した
檀君朝鮮から李氏朝鮮(大韓帝国)まで朝鮮人の国です。
実際には中国人による箕子朝鮮のあと一時的に燕に支配下にあり、
その後も衛氏朝鮮として中国の支配下といえる状況ですが、
檀君朝鮮と箕子朝鮮は神話とされ、檀君神話は詳しく教える一方、
箕子朝鮮と衛氏朝鮮はほとんど触れられていません。
(小学校の歴史では全く出てきません)
つまり、韓国でも中国の支配下に置かれたことは
(ほぼ)無かったことになっています。
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以下はYAHOO!知恵袋での同じ質問と、それに対するベストアンサーです。



そもそも中華王朝のほとんどは、拡大政策に興味を持ちません。
漢の武帝のように朝鮮半島の多くを支配下においた皇帝もいますが、このような拡大政策にやっきになった皇帝は少数派に過ぎません。

ほとんどの時代を通じて現代的な感覚では理解しがたい特殊な関係が中華王朝と周辺には存在していて、それゆえに。というのが答えになります。

現代人には、他の国々を征服して勢力を広げることは凄いし有益だ。という感覚があると思います。
しかし、中華思想は違いました。中華は世界の中心地であり、世界文化の中心であり、豊かなで文明に彩られた場所は中華しか存在しない。周辺はすべて蛮族が住まう非文明的な土地である。

そんな考えがあるわけです。
中華思想からしてみれば、そんな文明の存在しない野蛮な土地など手に入れても価値はありません。 むしろ重大なのは、蛮族から文明の地を守ることです。 たとえば漢の劉邦は北方騎馬民族の土地に大規模な侵攻作戦を展開しますが、これは土地が欲しかったわけではなく、騎馬民族の侵入に悩まされたゆえに討伐しておとなしくさせよう。というものだったのです。

しかし、こうした討伐は勝っても土地が手に入るわけでもなく(そもそも興味がない)、軍事費負担は膨大で、失敗すれば目もあてられない状況となります。

そこで中華王朝は冊封という体制をつくりあげます。
これは周辺国と形式的な主従関係を結ぶというものです。
日本で言えば邪馬台国や倭の五王が有名でしょう。
卑弥呼は倭王として任じられましたが、これは中華皇帝の家臣として倭の地域の王に封じるという意味です。
形としては皇帝の家臣ということになるのですが、あくまで形式に過ぎません。実際に支配体制が及ぶものではありませんでした。 しかし形式的にも家臣となるわけですがら、少なくとも敵対しないことは保障されるわけです。

しかしこれ、形式とはいえ家臣にされるほうは何かメリットがあるのか。といえば、お金になりました。
中華王朝に冊封された国は、家臣として中華王朝に貢ぎ物を献上する義務がありました。
この貢ぎ物に対して、中華王朝は数倍に値する下賜を与えたのです。
ねじくれていて意味がわからないかもしれませんが、平たく現代的に言うと、「おまえは子分なんだから、毎年一万円献上しろ。そのかわり、こっちはおまえに三万円のこずかいをやろう」そんな感じです。

貢ぎ物を送ると、単純に大もうけできたわけです。
冊風国は形式的な家臣になってさえいれば、ほぼ無条件で巨額の利益を得ることができたわけですね。名より実をとるつもりがあれば、こんなおいしい話はありません。

一方で中華王朝としては、お金を払ってでも周辺国を冊封体制においたほうが、いちいち軍事力でおとなしくさせるより安上がりだったのです。とはいえ、単に金を払っていては中華思想ゆえのプライドが許しません。だから下賜という形をとっていたわけです。これはあくまで温情であるむしろ野蛮な国に文明の恩恵を与えてやるのは皇帝の徳である。と、そんな感じですね。

この歪んだプライドのせいで下賜の金額は膨大に昇り。さすがに財政的負担も無視できなくなっていくため、貢ぎ物の頻度も制限されることになります。貢ぎ物が制限される、というのも奇妙な話なのですが、そういう事情なので。

朝鮮と中華王朝の関係も結局はこれでした。朝鮮は冊封国となり、中華王朝側も朝鮮側もそれで問題なかったわけです。
中華王朝には「併合」なるものに興味からしてなかった。そういうことです。

これは朝鮮に限らずですが。
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