江戸幕府は15代の慶喜で終ってしまいましたが、明治以降の徳川宗家、御三家、
御三卿のそれぞれは、どうなっていったのでしょうか?
また、その家系は今も続いているのでしょうか?

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A 回答 (2件)

 私の旧姓は田安です。

御三卿のひとつである田安家の子孫だと         聞いてはいますが、家系図があるわけでもなく、なんの証拠もありません。    珍しい名字なのでそうだろうと信じています。                      ちなみに、祖父は東北地方の出身だと聞いています。                 私は北海道に暮らしています。                              競馬でよく「タヤス~」って言う馬が走っているらしいのですが、            こちらの方も遠い親類かも、なんて勝手に思っています。                あまり参考になるとは思えませんが、ついうれしくなって投稿してしまいました。  スイマセン。
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もちろん続いていらっしゃいます。


慶喜のお孫さんの著書に詳しい家系図がありました。


http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/backno/html/97 …

参考URL:http://www.shibuyam.com/Keizu/SOUKE.html
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Q8代将軍・徳川吉宗以降の、御三卿も含めた徳川将軍家のわかり易い家系図を教えてください。

江戸時代の徳川将軍家の、8代将軍・徳川吉宗以降の、御三卿も含めたわかり易い将軍家の系図が知りたいです。

徳川将軍家の8代将軍・吉宗以降のわかり易い家系図を教えてください。

Aベストアンサー

普通に考えると将軍家の家系図となるとこれだと思いますが。きちんと家柄(水戸、尾張、紀伊など)も載っていますので。

参考まで。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/5/55/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%AE%B6%E7%95%A5%E7%B3%BB%E5%9B%B3.svg/1280px-%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%AE%B6%E7%95%A5%E7%B3%BB%E5%9B%B3.svg.png

Q一向宗と江戸幕府の関係について

「真宗大谷派」の門徒ですが、宗派の名前に疑問を感じ、調べた所、やはり歴史に於ける一向宗からの動向を理解すべきと思い書かせて貰いました


さて、織田信長と一向宗との争いは「有名」ですが、豊臣 秀吉になってからは、そういった「軋轢」を聞いた事が有りません

仮に、その豊臣時代、関係は「良好」であったとして「江戸時代」に於いて、一向宗は、どのような感じで、かつ、幕府との「関係」は、どのような感じだったのでしょうか?

例えば「浄土真宗」を呼び名にして欲しい、との要望を出したが、聞き入れて貰えなかった、と聞いたように思います・・・正確かどうかは解りませんが

しかし、御存知の如く、真宗大谷派は徳川 家康に、言わば「独立」を認められた訳ですから、行動は「穏便」であったのでは?と、いう気がします

ですが、どうも江戸時代に於ける真宗大谷派の動向・・・武士に反抗?或いは恭順?さて、どのような感じだったのか?

また、それにより「江戸幕府」との関係は、どうだったのか?

「本当の所は、どうなのか?」知りたく思っています、詳しい方、おられましたら宜しくお願いします

「真宗大谷派」の門徒ですが、宗派の名前に疑問を感じ、調べた所、やはり歴史に於ける一向宗からの動向を理解すべきと思い書かせて貰いました


さて、織田信長と一向宗との争いは「有名」ですが、豊臣 秀吉になってからは、そういった「軋轢」を聞いた事が有りません

仮に、その豊臣時代、関係は「良好」であったとして「江戸時代」に於いて、一向宗は、どのような感じで、かつ、幕府との「関係」は、どのような感じだったのでしょうか?

例えば「浄土真宗」を呼び名にして欲しい、との要望を出したが、聞き入...続きを読む

Aベストアンサー

No.1です
わざわざお礼を記入頂いて有難うございます。
お礼の中に
>徳川家は「浄土宗」の門徒ですか、意外です、武士は殆ど?が禅宗と思ってましたからね
とありますが、家康と増上寺との出会いは、家康が秀吉の指示で江戸へ向かったときに、増上寺の住職が沿道に迎えに出て家康と親しく会話したのが始まりとされています。

武家は確かに禅宗が多くみかけられますが、そうとも限りません。
加賀前田家は日蓮宗で、立正安国論の原本を所有している千葉の中山法華経寺に五重塔を寄進して、現在重要文化財として残っています。
大奥の女性にも日蓮宗の信者が多く、その影響で、将軍の中には、お家安寧を願った祈祷札を日蓮宗のお寺へ収めている人もいます。

江戸幕府は発足当初から宗教集団とは距離を置いていました。
宗教信者を政権の維持に期待するなどという考え方は毛頭ありませんでした。
神道も仏教も大切にはするが、口出しはせさないというスタンスです。

江戸城の場所も家康が入城した当初は、現在の千鳥ヶ淵一帯にお寺が集結していましたが、さっさと追い出しています。
日蓮宗5寺禅宗5寺浄土真宗2寺天台宗1寺あったそうです。
有名な紫衣事件のときも、禅宗の臨済宗大徳寺の住職であった沢庵和尚を出羽へ流罪処分しています。

何事も一宗一派に偏らないように細心の注意をはらっていました。
将軍の埋葬地も寛永寺と増上寺に分けていたのは、権威が集中することを排除するのが目的でした。
春日局の菩提寺である臨済宗麟祥院も大切にされ現在でも春日通りとして名前が残っています。
大名がどこの宗派であるかなどはキリスト教以外は全く無頓着でした。

蛇足
門徒というのは浄土真宗の方が使われる言葉で一般には壇越、檀家と言います。
門徒宗という呼び名もここからきたのではないのでしょうか。
今時なら単に信徒でしょうかね。

No.1です
わざわざお礼を記入頂いて有難うございます。
お礼の中に
>徳川家は「浄土宗」の門徒ですか、意外です、武士は殆ど?が禅宗と思ってましたからね
とありますが、家康と増上寺との出会いは、家康が秀吉の指示で江戸へ向かったときに、増上寺の住職が沿道に迎えに出て家康と親しく会話したのが始まりとされています。

武家は確かに禅宗が多くみかけられますが、そうとも限りません。
加賀前田家は日蓮宗で、立正安国論の原本を所有している千葉の中山法華経寺に五重塔を寄進して、現在重要文化財として...続きを読む

Q徳川(江戸)幕府はなぜ滅びたのか?

徳川幕府の滅びた原因に国内と国外からのプレッシャーがあったとあるサイトで読んだのですが、具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?3~4つずつ挙げていただけると嬉しいです。(もちろん一つでも構いません)

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿様から将軍になり、享保の改革を行い、徳川幕府を建て直しました。 しかし、19世紀に入ると将軍は凡庸で、これを補佐する老中にも人を得られず、弱体化して行きます。

(2) 世界の重商主義の波に乗り遅れた
世界は18世紀後半にイギリスで始まった産業革命でそれまでの農業中心から工業中心に変わっていきます。 しかし、日本はこの世界の進歩発展をわずかに長崎の出島でオランダ人を通してしか知ることが出来ませんでした。 

士農工商の厳格な身分制度で経済の実験を握っていた商人を一番低い身分に置いたまま。 これでは世界の波に乗り遅れるのも当然です。 19世紀に入ると、日本にも佐久間象山(さくましょうざん)のように洋学といって欧米の先進技術に精通した研究者はいました。 しかし、徳川幕府は彼を登用しませんでした。 

(3)欧米列強の帝国主義の波に抵抗できなかった
前の世紀に産業革命を経験したイギリスに触発され、ドイツ、フランス、オランダ、ロシア、アメリカはアジア、アフリカに進出し、植民地を巡って競争を繰り返します。 19世紀の後半になると、関心は極東に向けられます。 彼らは強大な武力を背景に徳川幕府に開国を迫ります。 

彼らの武力にたいし、長州藩が1863年馬関海峡を封鎖し、馬関戦争が勃発しますが、鉄砲と大砲の火力の差を骨の髄まで知らされることになります。 この戦争によって、徳川幕府は欧米列強との武力の差を知ることになります。 
 
(4)人材育成の遅れ
徳川幕府の他の諸般に対する一番大きな差は人材育成の立ち遅れにあります。 徳川幕府は昌平坂学問所を作り、旗本の子弟育成に当たります。 しかし、ここの教授陣には洋学の」素養もなく、旧態依然とした朱子学に根ざしたもの。 

19世紀の日本には各地に優れた私塾がたくさんありました。
広瀬淡窓(たんそう)の咸宜園(かいぎえん)、緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)などです。

幕末の偉人に大きな影響を与えた吉田松陰は10才の時、時の長州藩の藩主に新春の進講講義をして論語を説いたほどの俊英でした。 そこで藩主の毛利公は参勤交代の列に14才の松蔭を加え、江戸に連れて行き、佐久間象山に洋学を学ばせ、さらに広瀬淡窓に博愛の心を学ばせています。 

このように各藩は子弟の教育に励んでいます。 長岡藩小林虎三郎による米百俵(こめひゃっぴょう)の逸話も子弟教育に対する熱意を示すものです。

しかし、権力の座にあった徳川幕府は子弟教育に大きく遅れを取り、薩摩長州を中心とした勢力との権力闘争に敗れてしまったのです。 

これは長年政権与党の座に居続けている自民党の若手議員が、」ひ弱で無能なのと似ていませんか。

>具体的にはどのようなプレッシャーがあったのでしょうか?

(1)将軍家の衰退
(2)世界の重商主義台頭の波に乗り遅れた
(3)19世紀欧米列強の帝国主義に抗し切れず、開国せざるを得なかった
(4)諸藩の人材育成に大きく遅れてしまった

(1) 将軍家の衰退
家康によって樹立した徳川幕府も三代将軍家光までで、それ以降優秀な将軍は現れず、衰退します。 家康は将軍家を補佐するため水戸藩、尾張藩、紀州藩を御三家として、この中から優れた人材の発掘を命じています。 

八代将軍の吉宗は紀州藩の殿...続きを読む

Q江戸幕府で働いていた侍は明治政府下で公務員として働いていた?

維新が成功して明治政府が出来た時に江戸城で働いていた侍は明治政府の公務員にそのままなったという事はあるのでしょうか?
明治政府の高官は維新志士で固められているのは知っているのですが、明治政府が出来たばかりの頃は江戸幕府で働いていた侍がそのまま起用されたんじゃないかという自説を唱えている方がおられるのですがこの自説は正しいのでしょうか?詳しい方宜しく御願いします。

Aベストアンサー

徳川将軍家は明治維新により駿河70万石の大名に転落します。
その為全ての幕臣を以前の禄で養うことは出来ず、牧野が原を開墾し、お茶を作るようになります。
これが静岡茶が有名になったきっかけですが、幕臣のうち知行地のあるものは旧知行地の庄屋を頼っていったり、そういった伝もないものはこうして農業で生活の糧を得ておりました。
そもそも江戸時代の封建制は、戦国時代の員数をそのまま平和な時代に持ち越したため、本来一人でやる仕事を数人がやり、それでも人が余るということで、矛盾に満ちたものです。
維新というのはこうした矛盾を清算することも目的のひとつで、一人の人間が適正な仕事をしてそれに見合う収入が得られるようになり、職を得られた人間は豊な生活が出来るようになった反面、多くの武士が職を失い、士族という身分と秩禄処分による一時金を金禄公債証書として貰って世間に放り出された訳ですから、大変です。
静岡でお茶を作っていた旧幕臣たちも生活は苦しかったのですが、教育には比較的関心が深く、彼らの息子の代になると官吏として出仕する者も少なくなかったようです。
維新の時点でどれくらいの武士が失業したか分かりませんが、官吏となれたのは2割程度ではないでしょうか?
諸藩でも面倒見のよい殿様は開拓などの事業を起こして旧家臣を救った方もいますが、そのままという方も多かったと。

徳川将軍家は明治維新により駿河70万石の大名に転落します。
その為全ての幕臣を以前の禄で養うことは出来ず、牧野が原を開墾し、お茶を作るようになります。
これが静岡茶が有名になったきっかけですが、幕臣のうち知行地のあるものは旧知行地の庄屋を頼っていったり、そういった伝もないものはこうして農業で生活の糧を得ておりました。
そもそも江戸時代の封建制は、戦国時代の員数をそのまま平和な時代に持ち越したため、本来一人でやる仕事を数人がやり、それでも人が余るということで、矛盾に満ちたもの...続きを読む

Qもし、明治維新がなかったら・・・江戸幕府はその後のシナリオ

アメリカは南北戦争が長引き、ヨーロッパも巻き込まれ、中国は意外と強かった・・・ということにしておきましょう。

日本では、藩による独占ビジネスに成功したところ・・・薩摩藩としましょう・・・が力をつけて挙兵。九州を制圧する。同時に商人からビジネスを略奪。給料制にしてしまう。もちろん農民の借金は全部チャラにする。すると、この噂が四国、中国地方に伝わり各地で薩摩産いらっしゃいとばかり一揆が発生。混乱に乗じ、薩摩は短期間に四国、中国をも制する。
大阪商人はこれをみて青ざめ、幕府に申しでる。「今までの借金チャラにして、しかも軍資金を寄付しますので薩摩をぶっ潰してください」幕府はその金で大軍を整える。
ここで薩摩藩は扇動作戦を展開。島津に組みすれば借金はチャラ、商人の財産は没収。みんなにお金も仕事も分配します。税金はあんまり取らないし百姓を可愛がります。半分、民主主義にします。幕府は商人とグルです。悪いのは商人です。
この作戦がマンマとハマって大阪は放火によって火の海に。
薩摩は大阪まで進出。
江戸の商人たちは大阪の二の舞はゴメンだとばかりに幕府を説得。自分たちにそこそこ都合の良い条件で江戸無血開城する。
かくして島津幕府は封建制度を大幅に緩めて近代国家を樹立する。


・・・素人考えなのでたぶん、ありえないと思います。そこのところを歴史と政治に詳しい皆さん、ご教授ください。よろしくお願いします。

アメリカは南北戦争が長引き、ヨーロッパも巻き込まれ、中国は意外と強かった・・・ということにしておきましょう。

日本では、藩による独占ビジネスに成功したところ・・・薩摩藩としましょう・・・が力をつけて挙兵。九州を制圧する。同時に商人からビジネスを略奪。給料制にしてしまう。もちろん農民の借金は全部チャラにする。すると、この噂が四国、中国地方に伝わり各地で薩摩産いらっしゃいとばかり一揆が発生。混乱に乗じ、薩摩は短期間に四国、中国をも制する。
大阪商人はこれをみて青ざめ、幕府に...続きを読む

Aベストアンサー

えーとペリー来航はあったけど、その後の日米和親条約などは無かった、ということなのでしょうか?そのあたりの「明治維新に向けての外圧」がどのくらい減ったと想定しているのかがわかりません。
ので、適当に書きます。

まず外圧という点は明治維新にとって、というか薩長などが維新に向かって進んでいくのに非常に重要な推進力を持っています。したがって外圧がないのに「藩による独占ビジネスに成功したところ・・・薩摩藩としましょう・・・が力をつけて挙兵。九州を制圧する」という理由が見つかりません。他藩を軍事力で圧倒してしまっても、その後の運営は絶対にうまく行かないでしょうし、なにより尊皇攘夷という雰囲気からすれば天皇の許可を経ない九州制圧は国賊以外のなにものでもありません。
ですから、薩長だろうが他の藩だろうが、当時の「幕府を倒す思想→尊皇攘夷」という流れを無視して動くことはありえないでしょう。

また商人にスポットを当ててもかなり難しいでしょう。なにより戦争に必要な兵器や消耗品などを調達してくるのは、商人である、ということです。
 この書き方だと薩摩藩の島津公は「商人は悪者」として扱うようですが、どうやって戦争に必要な物資を供給するのでしょうか。その点がありえないし、まさか外国の商人から買うつもりではないでしょうね。そんなことをしたら九州を征服した時点で、幕府も天皇側も薩摩討伐に乗り出すでしょう。日本を外国に売り渡した国賊、になってしまうからです。

また「かくして島津幕府は封建制度を大幅に緩めて近代国家を樹立する」ということですが、そもそも藩という存在の立脚点からすれば、島津公が封建制度を緩める、または廃止する理由がまったくありません。

尊皇攘夷というのは、幕府を廃止することと、幕府を廃止しても外国に付け込まれないこと、を念頭において薩長などが連合して皇軍を組織したことから始まっています。薩長土肥という4藩連合であったからこそ「幕府廃止後の政治運営は西洋にならって民主化する」という方針ができたわけですが、薩摩藩だけでは自分たちの身分制度を否定する動きには繋がらないでしょう。ましてや藩が率先して九州を制圧するなら、その手柄は武士たちのものですから、手柄を立てた武士たちに報いるのではなく、その下の農民たちを優遇するような民主化は絶対に起きないといえるでしょう。

ですから、このような流れが起きるとすれば「どこかの藩で民主革命がおきてそれが九州全土にひろがり、九州民主政府は京都に上って、幕府に変わる民主政府の成立を交渉すると共に、幕府と対立し日本全土が民主政府側と幕藩側に分かれて戦争し、日本全土を包括する民主政府が誕生して天皇がそれを許可する」ということになるでしょう。つまりペリー以降の外圧が弱いわけですから、それを越えるだけの国内の民主化圧力が必要なわけです。

そもそも薩長土肥は幕藩体制を終わりにすること、尊皇攘夷を実現すること、は考えていましたがそれが民主政府を樹立すること、であったわけではありません。ただ、西洋列強に対応しうる政府のあり方、軍隊のあり方、ということを考えたときに封建主義の社会では成り立たず、現実的な解決策として明治政府の変革の流れとして民主化された、ということでしょう。もともと藩士であった初代の明治政府の人々は憲法も国会も「時期尚早」として作っていません。憲法は明治14年、国会が出来たのはようやく明治23年です。それまでは藩閥政治が明治政府の実態であったといえます。

このようなことから、外国の圧力もないのに、国内で商人に対する農民たちの不満が高まって民主化する、というのは実現性としてはかなり無理がある、と思います。

えーとペリー来航はあったけど、その後の日米和親条約などは無かった、ということなのでしょうか?そのあたりの「明治維新に向けての外圧」がどのくらい減ったと想定しているのかがわかりません。
ので、適当に書きます。

まず外圧という点は明治維新にとって、というか薩長などが維新に向かって進んでいくのに非常に重要な推進力を持っています。したがって外圧がないのに「藩による独占ビジネスに成功したところ・・・薩摩藩としましょう・・・が力をつけて挙兵。九州を制圧する」という理由が見つかりません。...続きを読む


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