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平家の栄耀栄華は、王朝文化の最後の光輝であり、平家の滅亡と共に王朝の時代は終わったという説がありますが本当ですか?教えて下さい。

A 回答 (4件)

平家を武士と考えるのか、それとも公家と考えるのかという問題でしょうか。



武士と考えるのは、平家が安徳天皇の誕生で天皇家の血筋を一門の権威の背景にしたことを考えれば無理がありそうですから、平家の栄耀栄華が王朝文化の最後の光輝であったという解釈は至って妥当であり、特に新説というほどの説ではないような気も致します。

新説風に何かを主張するのなら、例えば「明らかに武家政権である幕府ではなく、朝廷の人臣最高位である関白を、日本国統治の根拠として栄耀栄華を誇った豊臣氏こそ、王朝文化の最後の光輝であった」くらいの話にしては如何でしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。目からウロコが落ちました。豊臣の話し、興味深いです。

お礼日時:2024/11/01 04:14

>平家の滅亡と共に王朝の時代は終わったという説がありますが本当ですか?



天皇が存在してますから王朝は令和の現在も続いていますよ。

公家の朝廷は武家を番犬として馬鹿にしていた存在でした。
その朝廷に風穴を開けて力を振るったのが平忠盛・平清盛親子です。
この親子により、武家政権の道筋を付けたので、源頼朝が鎌倉幕府を
開く事が出来、関東と奥羽を支配する事が出来ましたので、武家政権
の始まりでしょう。
豊臣秀吉が関白になり、朝廷は武家に支配され、公家の朝廷は、文化面
を司る存在になり政治権力は滅亡しました。
庶民を顧みず、子供(子孫)造り、蹴鞠、和歌詠み、に明け暮れた、
公家による朝廷の権力が滅亡するのは、当然の事と思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:2024/11/01 04:15

考え方ですね。


承久の乱まで、力関係は朝廷の方が上でしたし、東国の支配は幕府に委ねられましたが、東国諸国からの朝廷への貢納や荘園領主への貢納は、幕府が責任を持って請け負っておりました。
承久の乱の首魁である後鳥羽は文化活動にも造詣が深く、実質的に王朝文化の最後の瞬きは後鳥羽の治世であったとも言えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:2024/11/01 04:15

その後は政治の中心は鎌倉幕府になりました。


朝廷は政治文化の中心ではなくなったのだから、王朝時代は終わったといえます。
それから明治まで、日本の中心は武家政権。

京都の朝廷は「権威の象徴」であっても国家=政治の中心ではないです。
今の「象徴天皇」も同じになってますね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。大変勉強になりました。

お礼日時:2024/11/01 04:16

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