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日本の海峡を通過するなどそれこそ自殺行為じゃないですか?たしか沿岸砲台も備えてましたよね?たとえ燃料があったとしてもこんな選択肢は初めからないのでは?

質問者からの補足コメント

  • うれしい

    ウラジオストク港の入り口で待ち伏せれば完璧ですよね?

      補足日時:2025/04/30 21:39

A 回答 (10件)

Wikipediaに記事がありますが、日露戦争開戦後にウラジオストク艦隊は津軽海峡を通過してますので、可能だったと思います。



------------Wikipediaから引用ここから-----------
要塞諸施設の完成後に日露戦争(1904年(明治37年)2月8日から1905年(明治38年)9月5日)を迎え、函館要塞も動員されるが、ロシア帝国ウラジオストク艦隊の軍事挑発を阻止できず北海道が孤立混乱した。具体的に艦隊は1904年(明治37年)7月20日に日本海より津軽海峡に侵入し、そのまま太平洋に抜けて反転、30日に再び侵入し、日本海に抜けた。その間船舶は出港を見合せた。
------------Wikipediaから引用ここまで-----------
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD …
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この回答へのお礼

可能だったのですね。ということは沿岸砲整備はろくなものじゃなかったということです。

お礼日時:2025/04/29 08:18

>ウラジオストク港の入り口で待ち伏せれば完璧ですよね?



 日露戦争中にロシアの太平洋艦隊が利用したのが、ロシアの中国における租借地の旅順港と、ロシア領土のウラジオストック港なんですが、日本側はどちらの港にいるロシア艦隊も日本の輸送路を妨害する目障りな存在で、何ども輸送船が撃沈される被害を被っています。
 連合艦隊は港にこもるロシア艦隊の攻撃を試みていたのですが、港の防御力が大きく攻撃をかける日本軍が繰り返し大きな被害を被っています。
 ようやくロシア太平洋艦隊を全滅させたものの、新たなロシア艦隊がウラジオストック港に入るのは絶対に阻止したい。

 連合艦隊がウラジオストック港の入り口付近に待ち構えて戦闘になったととすると、仮に海戦の戦況は有利だとしても、うち漏らしたロシア艦の多くがウラジオストック港に逃げ込んで、日本側は再び大きな被害を出して港を攻撃しなければならなくなります。
 連合艦隊としては、そんな状況は避けて極力日本海海上でロシア艦を一席でも多く沈めたかったと言うことです。
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この回答へのお礼

旅順の場合は港に避難している艦隊を何とか誘い出してという形でした。唯一の機会は黄海海戦でしたが、完全勝利を逃し、また旅順港に入れてしまいました。ところが今度は外洋からウラジオストク港に入ってこざるを得ない艦隊を狙うわけです。集結地点も港の入り口の十分狭いエリアで戦闘態勢を取っていれば敵はその中に突っ込まざるを得ません。

お礼日時:2025/05/03 19:50

対馬海峡の出口で待ち伏せするか、


津軽海峡の出口で待ち伏せするか、
宗谷海峡の出口で待ち伏せするか、
いずれにしても連合艦隊をその近くに配置する必要があります。
艦隊は3つもないし、3つに分けることもできない。
どこかに絞るしかないでしょう。


●海上自衛隊 幹部学校 戦略研究
『日本海海戦を科学する
  ―東郷平八郎の決心―』
https://www.mod.go.jp/msdf/navcol/assets/pdf/ssg …


それ以前に、晴れた日の昼間に通過するとは限らない。
監視哨戒技術も装備も、現代の感覚で考えてはだめです。

●海上保安庁 青森海上保安部
地方海上予報
https://www6.kaiho.mlit.go.jp/02kanku/aomori/kei …
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この回答へのお礼

逆になぜウラジオストク港の入り口に居座ろうとはしなかったんでしょう?

お礼日時:2025/04/30 21:38

>射程8キロなら本州北海道両面から撃てば届きますよね。



 だから当時の砲台は函館側にあり、って書いています。津軽側にはなかったんですよ。
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この回答へのお礼

そうですか。怠慢ですね。

お礼日時:2025/04/30 21:30

可能でしょう。

津軽海峡の最も狭いところは15㎞幅くらい。当時の沿岸砲台は函館にあり、備砲は榴弾砲や臼砲でしたので最大射程はせいぜい8㎞程度。また当時は津軽側の砲台はなかったので、真ん中通れば全く届きません。そのため実際にウラジオ艦隊が海峡を通過した際には発砲自体が行われていません。
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この回答へのお礼

おかしなもんですね。射程8キロなら本州北海道両面から撃てば届きますよね。それにウラジオ艦隊は太平洋に出てしまったからともかくバルチック艦隊は日本海に出るのですから完璧な待ち伏せが可能になりますね。

お礼日時:2025/04/30 14:50

バルチック艦隊が太平洋から迂回して津軽海峡を通ってウラジオストックに向かうという可能性もないことはなかったが、津軽海峡は海峡幅が狭く沿岸砲台から砲撃を受ける恐れがあるし、ウラジオストックまでの距離が一番長くなるため、日本の連合艦隊が予想したとおり、バルチック艦隊は対馬海峡を通ってきて、帝国海軍は対馬海峡でバルチック艦隊を迎え撃ったというのが史実。

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この回答へのお礼

やはり困難です。

お礼日時:2025/04/30 14:51

日露戦争は1904〜05年(明治37〜38年)。


函館要塞の28cm榴弾砲6門ができたのは1900年。射程7.8kmは函館港の防衛用であり、津軽海峡(最狭幅17〜18km)を封鎖することは元々無理だった(考えていなかった)のでしょう。

レーダーどころか飛行機も潜水艦もない時代に、目視で洋上の敵艦を発見するのは容易ではないと思います。発見しても射程外なので砲撃できない。

当時、戦艦三笠の30cm主砲の最大射程は約12km。それでもバルチック艦隊との砲撃戦は間合い5〜6kmまで詰めてから始まりました。

第一次世界大戦の10年も前のことです。今の感覚では語れません。
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この回答へのお礼

海峡で撃つのは無理ですが完璧に位置を知らせますから海峡出口で待ち伏せに会います。

お礼日時:2025/04/30 14:52

現代も、当時も、ロシアのアジアの不凍港はウラジオストック港で、バルチック艦隊の目的地がウラジオストック港である限り、どこかの海峡を通る必要がありますね。


 その海峡を通るルートは3つ、そのうちの2つは日本の太平洋岸の沖を通って、
①北海道の稚内と樺太の間の宗谷海峡
②北海道と東北の間の津軽海峡
 最後の一つは、
③ウラジオストック港までの最短ルートの対馬海峡。

 バルチック艦隊に水兵として乗り組んでいた方が、「バルチック艦隊の潰滅」という体験談を著しておられます。
 
 その中で海戦の数日前に燃料の石炭の補給を受けたとき、水兵や士官は、司令官のロジェストヴェンスキーが遠回りでも①か②のルートを選ぶつもりだと考えていたようです。
 ところが新たな進路の命令があって対馬海峡を目指して居ることが分かって、乗組員たちは驚いて司令官を罵倒する光景が描かれてます。一番危険だと言うことが分かっていたのでしょうか。

 ロジェストヴェンスキーは自分の判断理由を部下に説明しない人だったようですが、①と②のルートは日本に位置を特定されやすくゲイゲイもされ安いのに対して、③のルートは対馬にさしかかるまでの間に日本に発見されず、更に史実のように日本艦隊が対馬で待ち伏せしていなければ、最短距離で一気にウラジオストック港へたどり着けるというメリットがあったと言うことでしょうか。
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この回答へのお礼

対馬海峡なら戦闘を交えながらウラジオストクに到達できると考えたのでは。

お礼日時:2025/04/30 14:54

日本軍が沿岸砲から発射した砲弾は,海峡の真ん中を航行するロシア軍艦まで届かなかったのではないですか。

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この回答へのお礼

でも確実な情報を打電できますよね。そうすれば連合艦隊は海峡出口で一網打尽にできます。

お礼日時:2025/04/29 10:03

あれは竜飛岬、北の外れと、


感慨にふけっておれば、
三笠みたいな、ドラエモンどらやきに
負けるなんてなければ、
台湾とか朝鮮が、悲惨な感情をもつことも
なかったような。
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この回答へのお礼

What do you mean?

お礼日時:2025/04/29 01:05

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