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「楽しくなければ勉強じゃない」、「勉強は楽しくあるべき」などの考え方が現在の主流のようですが、それは本当なのでしょうか。

かなりの長文です。最後まで読まれて全ての内容を把握された上でのご意見をお願いします。

価値観や主観は多様ですから、勉強が苦手で勉強が楽しくないと感じている子ども、苦手な科目や不得意な単元は楽しくないと感じている子ども、なども多いと思います。そんな子どもたちは、楽しくないから勉強しなくても良い、のでしょうか。その様な子どもたちには、勉強させるべきではないのでしょうか。教育者や保護者は、そんな子どもたちにも楽しく感じられる様に配慮・対処しなければならないのでしょうか。その様な配慮・対処ができそうにない場合、高い金額を払って外注しなければならないのでしょうか。
私は、そうではない、と考えています。

本来、「勉強」とは「勉(つと)めて強(し)いる」の意味ですから、「(何かの目標や目的のために)例え嫌なことやつらいことでも我慢して最後までやり遂げること」であったはずです。『勉強』と『学習』は全く別物だったはずです。知識や技術の習得が目的ではありません。「勉強」は手段であって目的ではないのです。嫌なことや辛いことでも最後までやり遂げることによって、人間は成長します。「勉強」は人間の心を鍛え成長させるもの、だと考えます。「受験『勉強』」、「資格取得のための『勉強』」とは言いますが、「受験『学習』」、「資格取得のための『学習』」などと言わないのはそのためでしょう。
ちなみに「学習」とは「(自分の興味や関心に従って)何らかの知識や技術などを習得すること」であって、あくまでも自発的な行為であるはずです。「勉強」は人間の頭を鍛え成長させるもの、と言えるのではないでしょうか。
ところが、昨今、「勉強」と「学習」が混同されるようになってきました。そのせいで多くの弊害が起きているように感じます。

「勉強」は嫌でも辛くてもやらなければならないものです。嫌でもつらくても我慢してしばらく続けていくうちに「勉強」も習慣化されていきます。習慣化されると心理的負担が減り、「勉強」の継続が容易になります。「勉強」を継続するうちに、精神的負担が減り、代わりに精神的な余裕が生まれてきます。そこまで来て始めて「勉強」している内容に興味や関心を持てるようになります。「勉強」が習慣化することで「学習」に成り代わる瞬間です。私は、幼いうちに子どもたちにこんな体験を積ませてやることが「『勉強』する(させる)意味」だと考えています。またそうすることで、いわゆる「ヤル気」が生まれてくるのではないでしょうか。「たのしく『勉強』する」ためにも、「『勉強』に『ヤル気』を出させる」ためにも、辛くてイヤな『勉強』を乗り越えることが必要なのです。「楽しくなければ勉強じゃない」、「勉強は楽しくあるべき」などの考え方は、子どもたちからその様な体験のきっかけを奪ってしまっているのではないでしょうか。

また、「楽しくなければ勉強じゃない」、「勉強は楽しくあるべき」などの考え方は多くの保護者を追い詰める「呪い」の言葉であるとも考えています。
1970年後半に中京地域の家庭教材販売会社がTVCMの中で、「楽しくなければ勉強じゃない」と言うキャッチフレーズを使いました。それまでは、「勉強」は辛くて当たり前、との考えが主流でしたから、この逆説的なフレーズは世間の耳目を集めました。ちょうどこの頃、日本の出生率が2.0を割り込み、少子化問題が取りざたされ始めた時期でした。少子化に敏感に反応したのが、民間の教育産業でした。先細りする顧客少しでも多く集めるために、他の業者との差別化を図らなければならない時期でした。そんな時に先ほどのフレーズは保護者たちに「うちのサービスを利用すれば、子どもたちにラクに楽しく勉強させることができますよ」と言うメッセージを強く打ち出すことができたのです。「楽しくなければ勉強じゃない」と言う風潮は民間の教育産業が積極的に広めたものなのです。
ご存知のように、元々は教員の労働時間を短縮するために始まったゆとり教育もまた、このフレーズを大義名分の様に積極的に利用しました。お題目だけしかなく具体的な方法論や方針がなかったゆとり教育にとっても「勉強は楽しくあるべき」のスローガンは、大変魅力的だったのでしょう。

それからおよそ半世紀が過ぎた現在、ほとんどの保護者は、家庭で「勉強」させることを諦めてしまいました。多額の費用を払って、塾や習い事に子どもたちを預けることが当たり前になってしまいました。「楽しくなれば勉強じゃない」と言うキャッチフレーズに囚われてしまったからでしょう。家庭で学校の宿題をさせるだけでも虐待のように感じてしまう保護者すら少なからず存在します。
保護者は口先では「勉強は楽しい」、「学校は楽しい」などと言いながら、自らの手で子どもたちに「勉強」させることは減ってしまいました。その言葉を信じて育った子どもたちの中にも、勉強は嫌だ、学校は楽しくない、と感じる子どもたちも出てきます。親たちの言葉と自分の気持ちとの矛盾に苛まれ、自己否定してしまう子どもたちも出てくるでしょう。これが、登校渋りや登校拒否の原因の1つにもなっているのではないでしょうか。

長らく読んで頂いて有り難うございます。ここからが本題です。

「勉強」と「学習」を明確に区別するべきではないでしょうか。
それが、現状の子育てや教育の問題の解決の糸口にはならないでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • へこむわー

    すみません。間違っていました。

    ×「勉強」は人間の頭を鍛え成長させるもの、と言えるのではないでしょうか。



    ○「学習」は人間の頭を鍛え成長させるもの、と言えるのではないでしょうか。

      補足日時:2025/05/10 11:00
  • ご意見有り難うございます。
    「勉強、学問が娯楽という人もいます。知る、考えることが大好き。」それこそ自発的な「学習」ではありませんか。「勉強」嫌いの子どもたちにその様な逸話を伝えたら、「ヤル気」を出してくれるでしょうか。幼い頃から「勉強」は嫌でもしなくてはいけない、と教えておいた方が「(イヤイヤでも)ヤル気」を出してくれるのではないでしょうか。
    モーツァルトは家にピアノがなくてもピアノの天才になれたでしょうか。モーツァルトの才能も、生まれつきばかりではないと考えます。子どもたちの才能には環境の関わりは無視できません。幼い頃から「『勉強』は我慢すべきもの」の様に育てられたら、「精神崩壊」や「甘やかしすぎて勉強不足鍛錬不足で社会不適応引きこもり」になることも少ないのではないでしょうか。
    「勉強」は辛くても我慢するもの、と教えることと、「勉強」を押しつけることとは違うと思います。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2025/05/10 11:41
  • どう思う?

    「勉強」の意味について

    Oxford Languagesの定義 · 詳細によれば、、、

    べんきょう
    【勉強】
    1.
    《名・ス他自》
    無理にでも(=強)努力して励むこと。
    2.
    仕事に精を出すこと。
     「やあ、相変わらず―しているね」
    学業・技能などを身につけようと努力すること。
     「数学を―する」
    今後、事を処するのに役立つ、身にしみる経験。
     「今度の失敗は(いい)―になった」
    3.
    商人が品物の値段を安くして売ること。
     「せいぜい御―いたします」

    と言うことだそうです。

      補足日時:2025/05/10 12:33
  • どう思う?

    質問について再度確認しておきたいと思います。

    「長らく読んで頂いて有り難うございます。ここからが本題です。

    『勉強』と『学習』を明確に区別するべきではないでしょうか。
    それが、現状の子育てや教育の問題の解決の糸口にはならないでしょうか。」
    (最初の質問の最後の部分)

    私の「勉強」と「学習」の定義についても、よくよくご理解頂いた上でのご意見をお願い致します。
    現状、「勉強」と「学習」を混同されている方が多い様に思います。「勉強」を「学習」に変えてやること、育ててやる?ことは大切ですが、それぞれの指導方針や方法は区別するべきではないでしょうか。

      補足日時:2025/05/17 09:49

A 回答 (25件中1~10件)

>それが将来何の役に立つのでしょうか。


>小学校や中学校の知識や意欲が役に立つのか?
めちゃめちゃ立ちますよ。役に。
それは得る知識がどこで使われているか知らないだけです。

確かに、小中高で得る知識が、必ずすべての人に役に立つというわけではありません。
ただ、将来学問や実務として役に立つ人も多くいます。

例えば数学は理系ならほぼ全ての人が使いますし、文系でも経済学や経営学、心理学で主に使います。
英語はどんな分野でも基本的に使いますよね。
国語も然りです。

小学校と中学校(と高校)は、生活で使う知識を学ぶという意義もありますが、大学でより高次な学問に関わるときに、問題なく学べるようにその基礎を教えるという意義もあります。

そういった意義を教えるのも先生や親の役目なのかなと私は思いますが、現実問題それは達成されていませんね。悲しいものです。

>何を仰りたいのでしょうか。
端的に言えば、「現実的には無理が多い」というのはあなたの想像では?ということです。

>勉強は楽しくあるべきだという矛盾に囚われ〜楽しいけれど結果が出ない授業をする先生はたくさんいる。
たくさんいるのですか?私はそう思いません。
なにか根拠はおありでしょうか。

>〜そんな子どもたちが話題となっていることくらいはご存知でしょう。
ええ。ですが少数ですよね。
さらに、その子達が小学校の内容も分からない理由が「先生の教え方」だと断定できる理由もありません。
例えば発達障害や知的障害による根本的な学習能力が原因となっているという可能性もあります。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。

「小中高で得る知識が、必ずすべての人に役に立つというわけではありません。」

仰る通りです。つまり回答者様のご意見では、小中学校の「勉強」が役に立たないこともある、全ての人の役に立つわけではない、と言うことですね。であれば、これ以上の議論は無駄でしょう。

「>〜そんな子どもたちが話題となっていることくらいはご存知でしょう。
ええ。ですが少数ですよね。」

本気で仰っておられるようでしたら、もうお話しすることはありません。

「その子達が小学校の内容も分からない理由が「先生の教え方」だと断定できる理由もありません」

小中学校で身につけさせられなかった、と言うことに代わりはありませんね。

恐れ入りますが、以降の回答はお断り致します。
議論のための議論に終始なさっておられるようで、進展のない議論に疲れました。最初の質問文を何度も引用しなおさなればならない議論は初めてです。
全ての回答者に質問の意図を理解して頂く様に、質問の仕方に十二分に気をつけなければならないことを痛感致しました。

その様な気づきを与えてくださったことには感謝致します。

お礼日時:2025/05/19 00:27

>最初の質問に書いた以下の部分についてどうお考えでしょうか。


要は「嫌でも勉強する→習慣化して余裕が生まれる→興味関心を持てる」という流れがあるだろうということですよね。

それでも構わないとは思いますよ。
私は最終的なゴールとして「知識を得ること(テストなどで合格水準以上の成績を納められること)」と「勉強(純粋に、学ぶ事の意)への関心意欲を得ること」の2つだと思います。
これら2つが達成できるのであれば「嫌でも勉強する→興味関心を得る」でも、「興味関心を持つ→勉強する」でも、問題ありません。

ただし、勉強の入り口から興味関心を持って授業や家庭での勉強に入った方が効率的だと思います。
嫌いな科目はあまり成績が伸びないけれど、好きな科目はするっと伸びていくということは誰しも共感できることだと思います。

>「勉強は楽しくあるべき」という考え方は子どもから体験のきっかけを奪う
いいえ。
それは単に勉強(純粋に学ぶこと)の楽しさや面白さを実感できていないだけです。

そういう意味では「勉強って楽しいわけなくね...?→勉強する→あれ!楽しいじゃん!」という流れもよいと思いますが、そもそも「勉強って楽しいわけなくね...?」と思わせない方が早いです。

>勉強と学習の違いを意識することは教えられる側にも重要
受験に挑まざるを得ないとは....?
高校以上、特に大学は義務ではないので、挑みたくなければ挑まなくてよいですし、挑みたいという意欲のある人だけが挑むべきものです。

>受験勉強と受験学習は違うと意識しておくことには意味があると思います。
その理由や論理を詳しくご教示いただけますか?

>ほかにも、嫌がる複数の子どもたちに〜
>理想論的には認められても現実的は無理が多い。
では私の先生は現実的に無理が多いものを達成していたということでしょうか?すごい先生ですね。

「現実的に無理が多い」というのは想像に過ぎないのでは?
少なくとも、理想を現実にできるように努力するのは必要なことかと。

>楽しいけれど結果が出ない授業よりは〜
結果が出ない授業は楽しかろうと楽しくなかろうと、授業として失格です。
というかそもそも、楽しいけれど結果が出ない授業を目指す先生はいないと思いますよ。

>多くの授業の積み重ねを通して〜
それでもよいと思います。
最終的に子供たちが意欲関心を得られるのであれば。
ただどちらかというと、1つの授業でその分野に意欲関心を持たせられる方が、「多くの授業を積み重ねる」のが効率的に、より早くより深い学びを得られると思います。
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この回答へのお礼

ご意見有り難うございます。

「私は最終的なゴールとして『知識を得ること(テストなどで合格水準以上の成績を納められること)』と『勉強(純粋に、学ぶ事の意)への関心意欲を得ること』の2つだと思います。」

それが将来の何の役に立つのでしょうか。小学校や中学校の「勉強」で得た「知識」や「意欲」が全ての人に役立っているのでしょうか。「勉強」する・させる意味や理由が納得できていない子どもたちや親御さんたちが溢れています。その様な方たちが、どこかで聞いたことかあるような、そんな理由で納得されるでしょうか。

「勉強(純粋に学ぶこと)の楽しさや面白さを実感できていない」

どうやら、まだ私の意見・主張が理解して頂けていないご様子ですね。

「>受験勉強と受験学習は違うと意識しておくことには意味があると思います。その理由や論理を詳しくご教示いただけますか?」

最初の質問文の中でも触れています。

「>ほかにも、嫌がる複数の子どもたちに〜
>理想論的には認められても現実的は無理が多い。
では私の先生は現実的に無理が多いものを達成していたということでしょうか?すごい先生ですね。」

何を仰りたいのでしょうか。

「そもそも、楽しいけれど結果が出ない授業を目指す先生はいないと思いますよ。」

「『勉強』は楽しくあるべきだ」と言う矛盾に囚われた結果、目差しているわけではないのに「楽しいけれど結果が出ない授業」を繰り返す先生はたくさん居るようですね。中学校の理科や社会で小学校で習った内容を覚えていない、高校にもなって小数や分数の計算ができない、そんな子どもたちが話題となっていることくらいはご存知でしょう。

何度も同じ事を繰り返すことに疲れてきました。
もうそろ終わりにしましょう。

お礼日時:2025/05/18 23:52

>議論で用いる言葉の定義は重要です。


>私の最初の〜
もちろんです。
質問者様とのやりとりを通じて、質問者様がどのような言葉の使い方をしているのかは少しずつ理解してきております。

その上で、「そのような使い分けは意味がない(言葉の使い方の問題でしかない)」と思います。

私は、小学校の授業や学びを通して、最終的に身につけてほしいと思う、小学校での目的があります。
それは、前にも述べた
・生きる上での必要な知識と、中高で学習する分野の基礎の知識を得ること。
・勉強をするということに対する関心や意欲、好奇心を育てること
の2つだと思います。

つまり、これら2つが得られるのであれば、あなたの言う「勉強」でも「学習」でも、すこし緩い言葉を使うと「強いられてやるもの」でも「楽しいと思ってやること」でも構いません。

ただ、生徒が「これから勉強(これは純粋に学ぶとう意味)を初めていく」という入り口に立った時に、強いられてやるものというイメージと、興味関心を持てるものというイメージだと、後者の方がより本質的でより深い学びを得る機会になると思います。

そういった意味合いで、「勉強と学習を区別したところで、結局は教え方の違いしかなく意味がない」と思いますし「先生が生徒に教える時は、その分野を面白い、楽しいと思えるような授業にするべき」と思います。
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この回答へのお礼

ご意見有り難うございます。

最初の質問に書いた以下の部分についてどうお考えでしょうか。

「勉強」は嫌でも辛くてもやらなければならないものです。嫌でもつらくても我慢してしばらく続けていくうちに「勉強」も習慣化されていきます。習慣化されると心理的負担が減り、「勉強」の継続が容易になります。「勉強」を継続するうちに、精神的負担が減り、代わりに精神的な余裕が生まれてきます。そこまで来て始めて「勉強」している内容に興味や関心を持てるようになります。「勉強」が習慣化することで「学習」に成り代わる瞬間です。私は、幼いうちに子どもたちにこんな体験を積ませてやることが「『勉強』する(させる)意味」だと考えています。またそうすることで、いわゆる「ヤル気」が生まれてくるのではないでしょうか。「たのしく『勉強』する」ためにも、「『勉強』に『ヤル気』を出させる」ためにも、辛くてイヤな『勉強』を乗り越えることが必要なのです。「楽しくなければ勉強じゃない」、「勉強は楽しくあるべき」などの考え方は、子どもたちからその様な体験のきっかけを奪ってしまっているのではないでしょうか。

「勉強と学習を区別したところで、結局は教え方の違いしかなく意味がない」
「勉強」と「学習」の違いを意識することは、教えられる側にとっても重要です。受験「勉強」に挑むべき子どもたち、挑まざるを得ない子どもたちにとって、受験「勉強」と受験「学習」は違うと意識しておくことには意味があると思います。ほかにも、嫌がる複数の子どもたちに経験の浅い教員が独りで九九を教えなければならない場合などにも意味があると思います。教えて結果を残すことだけでも大変なのに、その上、一人一人の子どもたち全員を楽しくさせなければ「ならない」、とまで求めてしまうのは、理想論的には認められても、現実的には無理が多いでしょう。「楽しいけれど結果が出ない授業」よりは「楽しくはないけれど結果を出せる授業」をまず目差すべきではないでしょうか。無論、ゴールは「楽しくて結果を出せる授業」でしょうが、それは一回だけの授業で完結するものではなく、多くの授業の積み重ねを通して子どもたちが持つ様々な能力や資質を伸ばした先にあるのではないでしょうか。家庭学習のあり方についても同様だと思います。

お礼日時:2025/05/17 10:19

>これまでの回答の中で明確に区別なさっていましたか。


私が「勉強」と「学習」の意をきちんと区別して意見していたか?というご質問でしょうか。
であれば答えはノーです。

なぜなら言葉の使い方の問題でしかないからです。本質的でありません。
一度どこかで回答しましたが、区別したところで何かが変わるわけではありません。
勉強だろうと学習だろうと、やっていることは「知識を得る」ことに他ならないのでどうでもいいです。

あなたのいう「勉強」だろうと「学習」だろうと、それを行う目的はテストの点数を上げるとか、入学や資格取得、実務に必要な知識を得るということですね。
または学ぶことに対する意欲関心、好奇心を育てるという目的もあるでしょう。

それらをより効率的に、かつ有意義に達成できるのは、学ぶことを「強いられるもの」というふうに教える先生よりも「楽しいもの、面白いもの」として教える先生の方が適しているかと。
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この回答へのお礼

ご意見有り難うございます。

「勉強だろうと学習だろうと、やっていることは「知識を得る」ことに他ならないのでどうでもいいです。」

このあたりの考え方がまったく違います。申し訳ありませんが、議論で用いる言葉の定義は重要です。私の最初の質問をよくお読み頂きましたか。異なる定義をなさりたいなら、それについてまず明確にしておくべきではないでしょうか。

私は「勉強」の目的は「知識を得ること」とは考えていません。「知識を得る」と言う行為を通じて忍耐力や持続力、レジリエンス、問題解決能力などを育むことだと考えています。ゆとり教育以前の「受験戦争」時代の頃から、血知育偏重、偏差値偏重が始まり、その中で「勉強」と「学習」の混同が始まったように感じています。「勉強」と「学習」の違いを明確にしておかなければ、子育てや教育の方針を見誤る恐れがあります。近頃、「勉強」嫌い、教育嫌いの保護者が増えているのはそのせいではないでしょうか。
例えば、「読み書き算盤」レベルの習塾が重要な「勉強」に「楽しさ」を第一義的に求めてみたり、主体的自主的に行っている「自主『学習』」に対して役に立つかどうかなど評価をしてみたり、するのも「勉強」と「学習」を混同してしまっているからだと考えます。
けして「言葉の使い方の問題でしかない」程度のことではありません。

お礼日時:2025/05/17 09:37

>これはどうでしょう。

〜と考える先生は少なくないのではないでしょうか。
分かりません。

私の発言も一部そうですが、想像でしかないので。
具体的にどれくらいの先生がどのような教え方をしているのかは分かりません。

>そこまでの議論は欲していません。絶対的な結論をお求めなら〜
質問者様も分かってらっしゃると思いますが、絶対的な結論なんてありませんし欲しません。
ただ、思いつきで根拠のない意見は想像や空想にすぎないということです。
思いつきを客観的な意見に変えるには根拠が必要です。

>ただし、「(先生が生徒に〜」
>机上の空論、理想論でしかないと思います。
>今の小学校教育のほとんどで実現できていないことになりませんか。

はい。実現できていないと思います。私も「そのような教え方をする先生が少ない」と申している通り、実現できていません。

なので実現させる方法を考えるのがよいかと。

>主体性は小学校ではなく、それ以前から〜
小学校以前から主体性を育てようという点は同意します。
では小学校で主体性を育ててはいけないのですか?

「主体性は小学校"ではなく"」というところが気になりました。

>受動的と言い切るのもいかがでしょう。
「受動的」という言葉の意味は、自分の意志からでなく、他に動かされてするという意味です。
「能動的」の意味は自分から他へはたらきかけるという意味です。

つまり「勉強しろ」と言われてするのが受動的で自らの意欲で勉強するのが能動的です。

>忍耐力や最後まで諦めない達成力を養成するのも重要。
思いません。個人的な感想ですが、勉強をするにあたって、そのような根性のようなものでするべきではないと思います。

テストや入学、資格取得などの1つの目標があったとき、忍耐や根性でやるというよりも、それを達成するための勉強の計画を立てる方が重要ですし効率的です。
やる気に左右されにくくもなります。

勉強に限った話ではないですね。
スポーツでも仕事でもなんでも、感情で動くよりも理屈で動く方が確かです。

>「勉強を嫌いだと思っている人を〜
>これまた理想論ですね。小学校に〜
その場合、絵本を使うとか歌で覚えさせるとか、リズムや語呂合わせで教えるとか、抵抗なく覚えられるような方法もあるのでは?

それに、小学校低学年では文字とか数字とか、数学でいう定義のようなものを暗記させられるだけですが、高学年になってより論理的な単元に入った時に、点と点がつながるような「これってこうだからこうなるんだ!」となるような授業にしたら楽しそうですしね。
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この回答へのお礼

小学校や小学生の家庭の実際の様子にはあまり詳しくないご様子。何かどんどん枝葉末節の方へ話が進んでいくようです。あなたはいつもでも「勉強」と「学習」を混同したままで、逸れるばかりで一向に話が進みません。

多くの子どもたちやその保護者は、「『勉強』する・させる意味や目的」が納得できないまま、「勉強」したりさせたりしています。習ったことはいずれ役に立つ、などと言われても、一人一人がどの様な将来を迎えるかわからない以上、充分な説得力を持ちません。「『勉強』する・させる意味や目的」がはっきりしないことなどを理由に、「勉強」のデメリットばかり強調する傾向・風潮を感じます。「『勉強』は楽しくあるべきだ」との考え方もそれと同じ、またはその風潮に拍車をかけているのではないでしょうか。
なぜ、本来「勉めて強いる」ものであるはずの「勉強」が辛くて嫌なもののままではならないのでしょうか。無論、辛くて嫌な「勉強」から、面白くて楽しい「学習」に変えてやれるに超したことはありませんが、辛くて嫌な「勉強」を頭から否定してしまったのでは様々な矛盾が生じます。「勉強」のデメリットだけを強調し忌避するのもその一環ではないでしょうか。
また、子どもたちに「勉強」させるのは、教師などのプロだけではありません。一般家庭の親御さんたちも、多かれ少なかれ、自分の子どもに「勉強」
させるべきです。しかし、「『勉強』は楽しくあるべきだ」との考えは、そんな親御さんの手枷足枷になってしまっています。ただ単に小学校の履修内容を子どもたちにわかりやすく教えるだけでも大変ですのに、そこに楽しさまで追求するのは無理というものです(そこが塾や習い事教室の狙い目なのでしょうが)。

始めの質問にも書きましたが、「勉強」と「学習」は違うものだと考えます。

「勉強」とは「勉めて強いる」の意味ですから、「(何かの目標や目的のために)例え嫌なことやつらいことでも我慢して最後までやり遂げること」であったはずです。知識や技術の習得が目的ではありません。「勉強」は手段であって目的ではないのです。
「学習」とは「(自分の興味や関心に従って)何らかの知識や技術などを習得すること」であって、あくまでも自発的な行為であるはずです。

「勉強」と「学習」を区別するべきについて、どうお考えですか。
これまでの回答の中で、明確に区別なさっていましたか。

お礼日時:2025/05/16 13:50

>好きにならせようとするから失敗すると考えます。


小学校の先生で、生徒に勉強を好きにならせようとする先生ってどれくらいいるんでしょうね。
体感だとあんまりいないように思います。

そもそも生徒に勉強を好きになって欲しいと思う先生がいないことも理由の1つだと思います。

>客観性がなくても〜
思いつきが正しいのか間違っているのかを判断するのは結局統計やデータといった根拠、証拠になります。

思いつきで語るのは構いませんが、それは結局思いつきの域を出ません。
思いつきでなく、しっかりとした1つの「意見」として成り立たせるには根拠が必要です。

>好きでやれたらいいよねは、好きでなければならない(させなければならない)とは違うのでは?
「(生徒が)勉強を好きでなければならない」は偽だと思います。そんな感情を統制するような意見は持っていません。
ただし、「(先生が生徒に)勉強を好きにさせなければならない」は正しいと思います。特に小学生という、好奇心や学習意欲を育てるべき場面では。

小学校で、「勉強」というものを「苦しくてもやるもの」とか「嫌いなもの(好きでない)」という観念を与えてしまうと、中高と進んだときに自ら勉強をしなくなります。
それよりも、勉強は楽しいものとか、意味のあるもの、好きなものという印象を与えられれば、中高でも忌憚なく、むしろ意欲を持って勉強に励めると思います。
事実自分がそうでした。

>「勉強は知識を得る手段の〜
>この意見には反対です。

>勉強はあくまでそこに至る手段でしょう。
そうですね。
勉強は、入学や就職、資格取得などの際に、身につけなければならない知識を得るための手段の1つとも言えます。
例えば数学検定1級を取るとなったら、大学の線形代数や解析学、統計学の知識が必要になります。
そのために線形代数や解析学等を勉強するわけですね。

>小学生の勉強の目的も、「辛いものやきついことでも〜」と言ってもよいのではないでしょうか。
私はそうは思いません。

小学校での勉強の目的は、
・生きる上での必要な知識と、中高で学習する分野の基礎の知識を得ること。
・勉強をするということに対する関心や意欲、好奇心を育てること
の2つだと思います。

特に2つめは、文部科学省の小学校学習指導要領で、「主体的な学び」として記載されています。

「辛いものやきついことでも諦めず取り組む」というのは、いわば受動的なもので、生徒自らが学びを得るというよりも、やらされているから仕方なくやっているという状態です。

それでは学習への意欲が得られないかと。

>勉強のモチベーションを阻害していることは考えられませんか
いいえ。むしろ、勉強を嫌いだと思っている人を「勉強って楽しいんだな、面白いな」と思わせられればベストじゃないですか。

>勉強しても大人になったら役に立たないとか、楽しくない、やりたくないならやらなくていいという考えに繋がらないか

「勉強しても大人になったら役に立たない」という考えに対しては、それは教える側(教師や親)の問題です。
今授業でやっていることがどこに役立つのかをしっかり教えればよい話です。
私の先生はそうでした。

「楽しくない、やりたくないならやらなくていいという考えに繋がらないか」という懸念に対しては、別にそれでいいと思います。

勉強は義務教育を超えたらしなければならないものではないですからね。
まあ高校は社会的にびみょいとしても、大学に行くかどうかは完全に個人の自由です。
そこでもし、何らかの分野を勉強したいと思わないのならそれで構わないと思いますよ。
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この回答へのお礼

ご意見有り難うございます。

「そもそも生徒に勉強を好きになって欲しいと思う先生がいない」

これはどうでしょう。小学校の学級便りなどを見る限りではその様には思えません(本心はわかりかねますが)。「楽しい授業」や「楽な授業」をすれば、子どもたちが勉強を好きになってくれて、少なくとも「勉強」嫌いにはならない、と考える先生は少なくないのではないでしょうか。

「思いつきで語るのは構いませんが、それは結局思いつきの域を出ません。
思いつきでなく、しっかりとした1つの「意見」として成り立たせるには根拠が必要です。」

そこまでの議論は欲していません。思いつき程度の「意見」をぶつけ合うことにも意義はあると思います。絶対的な結論(?)をお求めなら、その様な場でどうぞ。

「ただし、『(先生が生徒に)勉強を好きにさせなければならない』は正しいと思います。特に小学生という、好奇心や学習意欲を育てるべき場面では。」

机上の空論、理想論でしかないように思います。「でなければならない」とまで言い切ってしまうと、今の小学校教育のほとんどでは実現できていないことになりませんか。現実的には「できれば、~の方が良い」程度でしかないでしょう。

「小学校学習指導要領」はただのお題目のようなものだと考えます。「ゆとり教育」での失敗もありますし、「主体」性は小学校ではなく、それ以前から育てておくべき非認知能力の1つと考えます。

「『辛いものやきついことでも諦めず取り組む』というのは、いわば受動的なもので、生徒自らが学びを得るというよりも、やらされているから仕方なくやっているという状態です。」

受動的と言い切るのもいかがでしょう。最初の質問にも書いていますように、自主的に取り組んで週間化するうちに主体的に取り組めるようになると考えるからです。忍耐力や最後まで諦めない達成力を養成するのも重要なのではないでしょうか。

「勉強を嫌いだと思っている人を「勉強って楽しいんだな、面白いな」と思わせられればベストじゃないですか。」

これまた理想論ですね。小学校に入学してもひらがなすら読めない子ども、20まで数えられない子どもたちもいます。2年生になって九九を覚えられずに仏項になる子どもたちもいるのです。通常の授業の中で、そんな子どもたちに
「勉強って楽しいんだな、面白いな」と思わせることはほぼ不可能です。

お礼日時:2025/05/15 20:30

本来は明確に区別されます。

勉強は手段で学習は結果であるということは同意です。がこの文を読む限りあなたは勉強を辛いものだと固定観念を据えていませんか?勉強を辛いものと思わせるかそうでないかは教育者の技量如何です。楽しくないことを続けると拒否したくなるのは人間の性ですから。それで勉強嫌いが出てきてるのが現実なんです。
はっきり言って最近の親ときたらそういう サポートすらまともにできていません。塾に行かせても結局家庭できちんとさせないと意味はないのです。塾はその橋渡しをしているに過ぎませんが楽しくでなくわかりやすい授業ではなければならないとは考えます。アマチュアではなくプロなのだからそれくらいはやってほしい。子供に「机に向かいたい」と思わせることが大事と考えます
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この回答へのお礼

ご意見有り難うございます。

「勉強を辛いものだと固定観念を据えていませんか?」

当たっているとも、当たっていないとも言えます。
私は「辛い勉強」と「楽しい(面白い)学習」を分けて考えた方が小学生たちにとって理解しやすいと考えます。

「楽しくないことを続けると拒否したくなるのは人間の性ですから。それで勉強嫌いが出てきてるのが現実なんです。」

この意見には賛成しかねます。スポーツなどの基礎練習には楽しくないものや辛いものもあると思います。それが嫌でやめる子どもたちもいますが、そうでない子どもたちもいます。勉強も同じだと考えます。ある意味で、嫌でやめてしまう子どもたちが居ても良いのではないでしょうか。そんな子どもたちには別のアプローチ、現状の詰め込み「勉強」、カリキュラムありきの「学習」以外の教育を準備する方がより良い効果を期待できるのではありませんか。やめていく子どもたちをメインにするのは危険だと思います。

「最近の親ときたらそういう サポートすらまともにできていません。塾に行かせても結局家庭できちんとさせないと意味はない」

仰る通りです。全てではありませんが、家庭教育を疎かにしたまま、塾や習い事に通わせ、無駄な金をかけてまで大切な家庭教育(を削ってしまう親御さんが多いのは事実だと思います。

「子供に『机に向かいたい』と思わせることが大事」

「机に向かう」は「学習」の比喩的表現だと受け取らせて頂きます。私は座学だけが「勉強」や「学習」であるとは考えません。極端な言い方をすれば、スポーツの基礎練習も「勉強」と考えることができるでしょうし、日常生活の体験の中の気づきや探求も「学習」であると考えているからです。

子どもたちの向学心や向上心には非認知能力が深く関わっていると考えます。そして、それら非認知能力は小学校に上がる前に充分に伸ばしておくべきだと考えています。

そんな幼い子どもたちに、「勉強は楽しくあるべき」と教えるより、「辛くて嫌な『勉強』も続けていくうちに、楽しい『学習』になるんだよ」と言ってやった方がわかりやすく嘘がないと考えます。

余談ですが、登校渋りの原因の1つは「学校は楽しいところ」と嘘を教えることだと考えます。様々な理由で「学校が楽しいところ」と思えない子どもたちがいます。そんな子どもたちは、大人や学校に不信感を覚えることもあるのです。

お礼日時:2025/05/15 15:01

>原因の1つが、「勉強は楽しくあるべきだ」の〜


可能性としてはあるでしょうね。悪魔の証明でないとは言えません。
どれくらいありえるのかは分かりません。

今私がぱっと思いついた考えられる理由は、「生徒に勉強を好きになってほしいという考えを持つ先生が少ない」か、「どうすれば勉強を好きになってくれるか分からない、又はそれを実践できない先生が多いから」の2つが考えられますね。

>根拠や統計がなければ議論もできないと言うことでしょうか。
ええ。当たり前では。

根拠のない主張はただの思い込みです。
主張や意見は、根拠をもって初めて客観性を持ちます。

根拠のない主張が世に正しいと広まると、病気になったら血を抜こうとか、精神病にかかったら脳を切除しようとか、そういう頭おかしい考えが広まってしまいます。

私は1学位を持っている者として、議論をする時や自分の意見を伝える時は、科学的ないし客観的な裏付けが何よりも重要だと思っています。

>現状の小学校のことをどの程度ご存知でしょうか。
専門的なことは分かりません。私の専攻は数学、そのうち統計でしたからね。
なのでいろいろなことをご教授願えたら幸いです。

>それらの向上は、楽しいだけの授業で実現可能でしょうか。
「楽しいだけの授業」では難しいでしょうね。
「楽しく分かりやすい授業」では実現可能でしょう。

>〜を踏まえた上でのご意見でしょうか。
そうです。
勉強は辛くても嫌でもやるべきです。
それを好きでやれたらいいよねということですね。

>そこまで来て初めて勉強している内容に興味や関心を持てる
それは別にどっちでもいいんじゃないですかね。
勉強は知識を得る手段の1つなので、最終的に知識を得ていることがゴールです。
小学生という括りでいうと、それにプラスして勉強をすることへの意欲関心を育むこと(中高などで抵抗なく勉強を進んでやれること)もゴールになると思います。

「興味関心がある→勉強する→知識を得る」でも
「勉強する→知識を得る→興味関心を持つ」であっても、最終的にその2つが得られるなら十分かと。

>勉強を好きにさせるのは、小学校以前に〜
同意します。
「勉強が好き」ということと「非認知能力の多寡」が相関しているという根拠もありませんが、感覚的には正しいと思います。

好奇心旺盛で、いろいろなことを知りたいと思える人は、自然と勉強も好きになりやすいと思います。

>具体的には述べていません。
ん...どういうことでしょうか。

質問者様は、「〇〇が問題だ」という提起をして、その上でその解決法を提示しているのではないのでしょうか?

>「保護者は口先では〜
全く根拠に欠けるなと思います。
自らの手で子どもに勉強させることは減っていったとか、その事実を示すものはあるのでしょうか。
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この回答へのお礼

ご意見有り難うございます。お礼が遅くなってしまって申し訳ありません。

(「いい教え方」をしている先生が少ない理由として)
「『生徒に勉強を好きになってほしいという考えを持つ先生が少ない』か、『どうすれば勉強を好きになってくれるか分からない、又はそれを実践できない先生が多いから』の2」

好きにならせようとするから失敗すると考えます。「勉強」が好きにならなければならないのでしょうか。子どもたちの「勉強」は「義務」の様なもの、としての一面を持つと思います。好き嫌いに関わらず、しなければならない一面を持つと思います。大人になってから、「消費税が嫌いだから払わない」とか、「NHKは面白くないから受信料を払わない」などと言っても通用しません。勉強は村義務を果たす練習でもあると考えます。

「根拠のない主張はただの思い込みです。主張や意見は、根拠をもって初めて客観性を持ちます。」

客観性がなくても、それぞれの「思いつき」を議論することは可能です。結論を望んでいるわけではありませんから、もっと気楽に議論してもいいのではありませんか。他の方からの意見も聞き出しにくくなってしまうように思います。

「勉強は辛くても嫌でもやるべきです。それを好きでやれたらいいよねということですね。」

「好きでやれたらいいよね」(私は好きになってしまったら、もはや「勉強」ではない、と考えていますが、百歩譲って)は「好きでなければならない」、「好きにさせなければならない」とはちがうのではありませんか。

「勉強は知識を得る手段の1つなので、最終的に知識を得ていることがゴールです。」

この意見には反対です。入学や就職、資格取得などが最終的な目的であって、「勉強」はあくまでそこに至る手段でしょう。小学生の「勉強」の目的も「辛いものやきついことでも諦めず取り組み続ける習慣屋姿勢を育てること」と言ってよいのではないでしょうか。「最終的に知識を得ていることがゴール」とか、「『勉強』は楽しくあるべき」などの考え方が、かえって、特に「勉強」が嫌いだったり苦手だったりする子どもたちの、「勉強」のモチベーションを阻害していることは考えられませんか。「勉強」しても大人になったら役に立たない、とか、楽しくない・やりたくないからやらなくていい、などの考えにつながりませんか。

字数制限のため、続きは割愛させてください。

お礼日時:2025/05/15 14:32

>どの文章でしょうか?


>なぜ、「いい教え方」をしている先生は少ないのでしょうか?その大きな原因は〜
すでに回答していますよ。
「原因は私には分からん」と。

>公立の小学校では〜
それは何の根拠にもなりませんよ。
傾向を推し量るのであれば、統計を示す以外の方法はありません。

質問者様は全文を通して、根拠に乏しい決めつけをしているように散見されます。

「それからおよそ半世紀が過ぎた現在、ほとんどの保護者は、家庭で「勉強」させることを諦めてしまいました。」とか、
「家庭で学校の宿題をさせるだけでも虐待のように感じてしまう保護者すら少なからず存在します。」
とかですね。

>私が申しておりますのは〜
私のいう「学び」と質問者様のいう「効果」は同じと捉えてください。
テストの成績とかちゃんと得た知識の量とかですね。
そのような意味で私も使っています。

>勉強と学習を明確に区別するべきでは。
区別したところで何か変わるのでしょうか。

質問者様は、「勉強は手段であって目的ではない」とおっしゃいますが、まさしくその通りだと思います。

なんらかの知識、ここだと学校で教わるような知識とかですね、それらを身につけるために勉強するわけですからね。

>それが、現状の子育てや教育の問題の解決の糸口にならないか。
質問者様の思う問題というのはどれですか?
「価値観や主観は多様ですから〜」で続く1段落でしょうか。

勉強をする側(生徒側)からすると、勉強はたとえ嫌いであったとしてもするべきだと思います。
理由はシンプルに使うからですね。
理系なら数学はほぼほぼ使いますし、文系でも学科によってはめちゃ使います。
英語はほとんどの学問で使いますし、国語は文章を読むためには必要です。
実務上でも同じです。

勉強をさせる側(先生や親)からすると、勉強を好きにさせるのが重要だと思います。

理由は、生徒側からすると勉強はしなければならないものですが、それを好きでやるのと嫌いでやるのだと、好きでやる方が学習としての効果が高いと思われるからです。根拠ないけど。

少なくとも、自分から勉強をしたいと思えるのは、そうでない人たちからすると強いアドバンテージになると思います。
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この回答へのお礼

「いい教え方」をしている先生は少ないのでしょうか?
私の「『言い(いい)教え方』をしている先生は少ないのでしょうか。そのむしできないほど大きな原因の1つが『勉強は楽しくあるべきだ』との矛盾、呪いがあるからではありませんか。」についてはどうお考えですか。

「傾向を推し量るのであれば、統計を示す以外の方法はありません。」
根拠や統計がなければ、議論もできないと言うことでしょうか。論理的矛盾や誇張、論理の飛躍などについて指摘することは無意味でしょうか。また、回答者様は、現状の小学校のことをどの程度ご存知でしょうか。

「テストの成績とかちゃんと得た知識の量とかですね。」
それらの向上は「楽しいだけの授業」で実現可能でしょうか。

「勉強をさせる側(先生や親)からすると、勉強を好きにさせるのが重要だと思います。」
私の最初の質問の「『勉強』は嫌でも辛くてもやらなければならないものです。嫌でもつらくても我慢してしばらく続けていくうちに『勉強』も習慣化されていきます。習慣化されると心理的負担が減り、『勉強』の継続が容易になります。『勉強』を継続するうちに、精神的負担が減り、代わりに精神的な余裕が生まれてきます。そこまで来て始めて『勉強』している内容に興味や関心を持てるようになります。『勉強』が習慣化することで『学習』に成り代わる瞬間です。私は、幼いうちに子どもたちにこんな体験を積ませてやることが『『勉強』する(させる)意味』だと考えています。」
を踏まえた上でのご意見でしょうか。

「勉強」を好きにさせるのは、小学校以前に前もって、勉強に必要な非認知能力をどれだけ育てておけるか、によところが大きいと私は思います。いかがですか。

「質問者様の思う問題というのはどれですか?」
「区別したところで何か変わるのでしょうか。」
暗示的、婉曲に述べているだけで、具体的には述べていません。
回答者様は問題がないとお考えですか。
「保護者は口先では「勉強は楽しい」、「学校は楽しい」などと言いながら、自らの手で子どもたちに「勉強」させることは減ってしまいました。その言葉を信じて育った子どもたちの中にも、勉強は嫌だ、学校は楽しくない、と感じる子どもたちも出てきます。親たちの言葉と自分の気持ちとの矛盾に苛まれ、自己否定してしまう子どもたちも出てくるでしょう。」
についてはどうお考えですか。

お礼日時:2025/05/12 17:50

>先ほどお礼を述べた私の意見に関してどう思われますか


どの文章でしょうか?

>経験の浅い先生方が〜
そのような傾向があるのでしょうか?なにか根拠等はありますでしょうか。

個人的なイメージだと、経験の浅い先生はただ教えるだけでつまらない授業をする印象が強いです。
根拠はなにもありませんが。

>小学校レベルのお話ですから〜
小学校の話なのですか?
小学校〜高校を含めたものだと思ったのですが。元の質問文に小学校の話だと限定する言葉も無かったので。

>小学校の算数などでおける「わかる」は〜
それはあなたの意見(言葉の使い方)ですか?それともなにか学習指導要領などで定められている言葉の使い方でしょうか?

>多くの場合、それを鵜呑みにしてしまうのは危険だと思います。
そうですね。私も本質的なものをちゃんと理解するべきだと思います。

>先ほどのお礼にも、「ところが〜
「教師や講師、保護者が増えました」とおっしゃいますが、なにかそれを示す統計などはおありでしょうか。

>もちろんですが、話題がずれています。
いいえ。次に示します。
>どこがどう意見に反するのでしょうか。
授業に関し、楽しさと学びの有無を比較すると
「楽しく学びのある授業」
「楽しいが学びのない授業」
「楽しくないが学びのある授業」
「楽しくなく学びがない授業」
の4つに分類できると思います。

私の意見としてまず、「学びのない授業は楽しかろうと楽しくなかろうと、それは授業としてよくない」というのがあります。

ですので「楽しいが学びのない授業」と「楽しくなく学びのない授業」はどちらも授業としてよくないものです。

そして、「楽しく学びのある授業」と「楽しくないが学びのある授業」は前者の方がよいと思います。

つまり
「楽しく学びがある」<「楽しくないが学びがある」<<<<<「楽しいが学びがない」=「楽しくなく学びがない」

という優劣が付きます。
「意見に反する」というのは、学びがないのは楽しくても楽しくなくてもよくないということは私も質問者様も同意なされると思うので、議論する上で比較するべきは「学びのある中で、楽しくあるべきか楽しくなくてもいいのか」ということになると思います。
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この回答へのお礼

「どの文章でしょうか?」
なぜ、「言い教え方」をしている先生は少ないのでしょうか。そのむしできないほど大きな原因の1つが「勉強は楽しくあるべきだ」との矛盾、呪いがあるからではありませんか。

「そのような傾向があるのでしょうか?なにか根拠等はありますでしょうか。」
「『教師や講師、保護者が増えました』とおっしゃいますが、なにかそれを示す統計などはおありでしょうか。」
公立の小学校であれば、平日の授業参観も可能です。近頃、小学校の授業風景などご覧になったことはおありですか。よろしければ、公立小学校に足を運んでみてください。現状を目の当たりにされた方が早いと思います。

「小学校の話なのですか?」
カテゴリはご覧になっていますか。

「『教師や講師、保護者が増えました』とおっしゃいますが、なにかそれを示す統計などはおありでしょうか。」

「授業に関し、楽しさと学びの有無を比較すると」
「楽しさと学びの有無」の関係はいつから始まったのでしょうか。
私が申しておりますのは、「『楽しくても効果が上がらない授業』と『楽しくないけれど効果のある授業』」です。「学び」についてのお話しは不要です。ここで言う「効果」とは「学習効果」のことであり、そのクラス全体の、もしくはクラスの平均的な、学力や成績が上がることほぼ同じと考えて頂いて構いません。

私は「学び」と「効果」は別物だと考えます。「学び」は土白神と言えば自己で評価するもの、主観か大きく関わります。同じ内容の授業を受けて同じような「効果」であったとしても、「学び」があった音感じるかどうかは、その子どもそれぞれであるからです。私は「学び」には何らかの資質や能力、いわゆる非認知能力など、が不可欠だと考えています。極端な例ですが、例えば聴力や視力に問題がある子どもは、「いい教え方」をする前に、聴力や視力の矯正や改善を先にするべきであって、それを無視した「いい教え方」などあるわけがない、と考えています。仮にあったとしても、それは教えられる側の子どもたちの数と同じだけあるはずだと考えます。


できましたら、再度、以下をよくお読みください。

長らく読んで頂いて有り難うございます。ここからが本題です。

「勉強」と「学習」を明確に区別するべきではないでしょうか。
それが、現状の子育てや教育の問題の解決の糸口にはならないでしょうか。

お礼日時:2025/05/12 17:02

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