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武家の奉公人の小者は中間と衣装どうちがうのでしたっけ?中間はトレードマークの法被、小者はどうなってるのでしたか?

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A 回答 (1件)

 いずれも、江戸幕府の武家奉公人について(「」内は引用)



1 出典 稲垣史生著「時代考証事典」(株)新人物往来社発行

(1) 中間の服装

 ア 199ページ下段
 「紺看板(紺木綿の法被)に梵天帯、下は股引に草履ばきで、木刀をさした中間」

 イ 同書200ページ下段 廻り方のお供中間
 「ふつう中間は空っ脛だが、廻り方の中間だけは千草(萌黄)の股引をはき、黒の脚絆をつけていた。」

 (2) 小者の服装(江戸幕府直轄の小者は御小人といった)。

 ア 201ページ上段
 「着流しに草履ばき、外出には尻をからげた冴えないスタイル」

 イ 175ページ上段
 「中間・小者・黒鍬之者・掃除之者・駕籠之者をひっくるめて『五役の者』という。」

 ウ 157ページ下段
 「中間頭、黒鍬之者頭、掃除之者頭」の三者については、「上下役」とされ(161ページ「幕府御家人表」)、「上下を着て勤務する者」である。
 「『白衣役』は、現代の医者並みに白衣を着るのではなく、羽織も袴もつけないという意。小袖や半纏で勤めた中間・小者のことである。」


2 出典 笠間良彦著「江戸幕府役職集成」(増補版)雄山閣出版株式会社発行
 361ページ上段 絵図「同心、足軽および下級者の勤務姿」右側の絵図
 「法被姿 御駕籠の者、槍持、挟箱持は黒絹の羽織に脇差一本」


 
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この回答へのお礼

詳細な資料ありがとうございます、参考にさせていただきます。

お礼日時:2005/07/24 21:58

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Q時代劇でひざ下につけている三角布は何?

NHKの大河ドラマ 峠の群像(1982年作品 忠臣蔵を題材としたもの) を見ました。
侍の中で、はかまのすそを端折ってひざを出している者が登場する場面(参勤交代の道中や切腹の介錯人など)で、ひざ下に三角の布を巻いているものがいます。
あれは何でしょうか?
最初に見たときはひざを折って地に付けたときに膝小僧に土がつかないようにする当て布かな? と思いましたが、よく見ると膝小僧をカバーするものではありません。では脛に土がつかないための布かな?とも思いましたが、三角の布は小さく、ぜんぜん脛のカバーにはなっていません。
あれは何でしょうか?

よごれ防止ではなく、なにか宗教的意味合いとか、儀式的意味合いのものでしょうか?

Aベストアンサー

三里の灸の跡を隠すための三里当てという布です。

当時は自分の足が交通機関ですから、三里のツボにお灸を据えていました。奥の細道の最初に芭蕉が三里に灸をあてているのも同様です。で、この灸の跡が見苦しい(ケロイドになったりしますから)ので隠すために付けていました。
時代劇では滅多にここまで再現しないことも多いようですが

ということを私も教えていただきました
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6311466.html

Q中間 (武家奉公人)について

はじめまして
中間 (武家奉公人)って平民なのに何で脇差しがさせるのですか?
町を歩くときに役人(町方など)に指摘されないのですか?
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

>>木刀だったんですか時代劇とかみていると木刀には見えませんでした。

はい。言い忘れました。TVなどでは、れっきとして刀にみえますね。
まあ、一つにはTV視聴率を上げるための所業でもありますが、まんざら、そうとも言い切れない・・・。

これは、多少、時代によっても違います。
(1)江戸時代初期の頃は、木刀・・・たぶん、あなたのイメージしているように、剣術道場で使うような「木刀」を腰にしていました。(ただの「木」を削ったもの)。
(2)やがて、時代が過ぎて、天下泰平になると、戦もなくなったので、家計が苦しい武士が刀の中身を売って、いわゆる「竹みつ」にしたことはご存知だと思いますが、逆に、中間などの「木刀」も刀に似せて、柄を飾ったり、鍔(つば)を付けたり、鞘(さや)を付けたり・・・と、本当の刀のように「見せ掛け」ました。これには、当然、主人も許し、むしろ、主人の権力の象徴のようになってきました。しかし、鞘の中身は、厳しく「木刀」と決められていました。

Q桜田門外の変での三里あてについて

映画の話なので、史実とは違う脚色と言われてしまえばそれまでなのですが

映画「桜田門外の変」で、井伊直弼が井伊邸から桜田門に向かった際の行列の供回りは、全員、素足で三里あて(膝下の三角巾)を付けていたように思います。三里あては中間や奴の装束だと思っていましたが、ある程度格上の武士もこの様なお供役では下半身は奴のような格好をしていたのでしょうか、見た範囲、袴をはいていた武士は居なかったようです。

また、後半、関鉄之介が処刑されるときの水戸藩?の首切り役人も三里あてをしていました。御徒役とは思えない首切り役人で、三里の灸はしないと思うのですが、三里あてをしていたのには何か理由があるのでしょうか(流行だったなど)

また、これも映画ですが、「十三人の刺客」での明石藩の一行には、こういった奴中間が全く見あたらなかったと思うのですが、これは参勤交代の帰路の行列の仕立てとしてあり得るのでしょうか、江戸近傍での装束とある程度離れてからでは違うのですか

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>全員、素足で三里あて(膝下の三角巾)を付けていたように思います。

まずは、「三里あて」は「三里紙」(さんりがみ)とも呼ばれました。

さて、回答の方ですが、
当時、井伊直弼は「安政の大獄」を実行したため、水戸藩や薩摩藩から狙われている・・・と言う情報が耳に入っており、将軍から、警護の人数(お供の人数)を増やしたらどうか・・・と言われていました。
しかし、井伊は護衛の強化は失政の誹(そし)りに動揺したとの批判を招くと断ったため、常時のお供の皆さんは、いつでも戦闘体制が取れるよう、袴をたくし上げて、脛には、古来からの三里にうつお灸の後を隠すための「三里あて」をしての登城でした。

>>また、後半、関鉄之介が処刑されるときの水戸藩?の首切り役人も三里あてをしていました。

これは、罪人として取り扱われたためです。
町奉行所などでも罪人を処断する時は、首切り役人は袴をたくし上げて「三里あて」をして処刑にのぞみました。
切腹などの場合は、介錯人は袴姿で介錯にのぞみました。

>>また、これも映画ですが、「十三人の刺客」での明石藩の一行には、こういった奴中間が全く見あたらなかったと思うのですが、

奴は、駕籠を担いだりしますので、大概の場合「三里あて」をして参勤交代にのぞみました。
まあ、特に規則があるわけではありませんでしたので、財政の窮屈な藩などでは、省略しました。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>全員、素足で三里あて(膝下の三角巾)を付けていたように思います。

まずは、「三里あて」は「三里紙」(さんりがみ)とも呼ばれました。

さて、回答の方ですが、
当時、井伊直弼は「安政の大獄」を実行したため、水戸藩や薩摩藩から狙われている・・・と言う情報が耳に入っており、将軍から、警護の人数(お供の人数)を増やしたらどうか・・・と言われていました。
しかし、井伊は護衛の強化は失政の誹(そし)りに動揺したとの批判を招くと断ったため、常時の...続きを読む


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