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先日、思うところがあり霊視に行って来ました。
その際蛇に憑かれていると言われたので、近々祓ってもらおうと思っています。
で、祓うための準備としていくつか申し渡されたことがあるのですが、その中に般若心経を書き写すという作業がありました。
般若心経って、よく法事のときなどに読まされたりするお経ですよね?
軽く調べてみたら般若心経は”悟りをひらくための知恵を説いた教え、その核心”が書いてあるもので、内容としては”何事にもこだわりの無い心、空の境地”を説いたものだとのこと。
ここで疑問。
悟るための方法を説いた文章が何故お祓いや先祖供養に役立つのでしょう?
(私が行ってきた霊視の真偽・是非ではなく)お経とは何か、お経の意義、お経の使い道???みたいなものを簡単にわかりやすく教えてください。

A 回答 (14件中11~14件)

No.10さんの書かれているのは、空海が著述した「般若心経秘鍵」という著書による考え方です。

日本では「空」が解釈の主流になり、あまり重要視されませんでしたが、ボクもこの考え方のほうが近いように思っていますし、個人的に好きです(笑)。
ちなみに、参考URLをクリックした先に書かれているのでしょうが、「般若心経には仏教の全てのエッセンスが含まれている」と空海は説きます。確かに、その解釈に基づけば、「ひとこと宗派別エッセンス集」的に読むことが出来、大変面白いです。不謹慎ですが(笑)

さて、経典の意味的なことは出尽くしているところだろうと思うので、別アングルから(笑)

・読誦(読むこと)の功徳について

もちろん「(経典の編纂者にとって)自分の思想はこれだけ功徳満載なんだ」というPRとして(笑)「この経典を読むとこれだけ良いことがあるんだよ」という文句(「流通(るづう)分」といいます)がかかれてある場合が多く、般若心経においても、日本で一般的な翻訳とは別バージョン(つまり中国で何人かの人間が翻訳しているということです)にはその「流通分」があるものも存在します。
PRの部分は除くとして(笑)、「くりかえし読む」事で今まで理解できなかった本質をひとつずつ理解できるかもしれない、というメリットはありますね。
一度読んだだけでは上っ面しかわからない。それを「くりかえし読む」事で少しずつ理解していく…そういう意味でのメリットは確かに存在します。

・「声に出して読む」必要性

黙読ではなく、「音読」であるほうが、より効果的に脳に吸収される…という実用的な効果はもちろん期待できます。
しかし、それ以上に、「音」は宗教的世界をイメージ的に形成するツールとしての役割を担わされた、という考え方は成立します。
日本ではこの考え方が若干希薄になってしまいました。それでも「声明(しょうみょう)」という学問としてちゃんと仏教の中に「仏教音楽」の科目が成立しています。真言宗や天台宗では特に盛んです。ちゃんと音楽になっています(笑)。シンバルやドラに近い楽器、ハンドベルのような鈴(りん)もあるんですよ。
もちろん、本国インドや中国では重要視されていますし、末期仏教をほぼ忠実に移植したとされるチベットでは、かなりの数の楽器も登場します。

これには二つの側面が存在します。
ひとつは、民衆へのPRのため。
経典そのものを音楽に載せ、更にそのメロディーを「癒し」のベクトルに持っていくことで、信者(あるいは信者になろうとする人)に安心感を与える、あるいは荘厳なイメージを与える…そういう目的は少なからずあったと思います。
もうひとつは、修行者自身の身体的変容をもくろむ「道具」として。
これは最近になって科学的にも実証されています。ある特定の音を聞くことで、あるいは体内から響かせることで、アルファ波を導き出す…的なアレです。
グレゴリオ聖歌にも、日本の読経にも同じように脳波を変化させる要素があるといわれています。

釈迦の仏教がどのようなものであったのかについてはいまでは諸説ありますが、少なくとも釈迦がたどり着いた「境地」が、あるいはそこにたどり着くまでのプロセスが難しすぎることが仏教を縮小させていき、ついにインドでは滅びてしまった間接的な要因であったといわれています。
数ある宗派やその思想が生まれた背景には、「そこにたどり着く」ための実践的かつ「少なくとも釈迦より合理的」な方法が数多く編み出されました。
その中で「音」の要素は欠かせなかったのでしょう。

・なぜ「読むと徳がある」という記述がされるのか?

上記のことを全部在家の人間(つまり仏教についてくわしく知らない人間に)に説明しようとするのは、無理です(笑)。
少なくとも膨大な時間を必要とするでしょう。

それでは、仏教を信じる人間はほとんどいなくなってしまいます。
そこで「糸口」として「ほら、このお経にはこんなにメリットがあるんだよ」と書くことにしたんです。
で、「読む」とか「聞く」という習慣が出来れば、次第に意味について興味を持ち始める。そうすることで「理解」するきっかけを作った…そういうことだと思います。

・経典の読誦が「供養に使われる」理由

これは平たく言うと「代読」です。
つまり、「読むことによって功徳がある」のなら、故人に代わって読み、「故人の功徳を増す」という理由付けによります。
お払いも一緒。「憑きもの」があるのだとすれば、それは「成仏できずに迷っている」のであり、少なくとも「成仏できるだけの徳」を持っていないが故に迷っている…という考え方が成立するので、「聞かせてあげる」事で、少なくとも「憑きもの」が成仏できるような環境を作ってあげよう…という事です。

ご要望なので霊視の真偽・是非は問いません(笑)。

ちなみに経典には「読む」「書く」「聞く」の3つの供養の方法があります。基本的には「自分のため」ですが「他人の為」に行うことが可能。これが「布施」です。
普通「法を施す」は僧侶の仕事とされていますが、一般人がやってはいけないという法はない(笑)。
朝夕のおつとめ、というのはこの「在家の人間が故人の徳を増すために行う布施」であると考えることが出来ます。

・お経って、何?

宗教学的には「釈迦の言葉」、歴史学的には「釈迦の弟子たちが編纂した釈迦の語録」ということになります。

が、きっとそういう話ではないでしょう(笑)

釈迦自身は、何も書き残していません。
しかも「対機説法」といって、人により、その教え方をアレンジしていたと言います。
つまり、弟子10人が、ヘタをするとみんな異なる「教え」を聞いていた。
(おそらくその根底にあるものは一緒だったのでしょうが(笑))

残念ながら釈迦は「自分と同じ悟りにいたる方法」はその人に合わせて説いていたのですが、「同じように悟りに至る方法を他人に説明できる人」…つまり次世代のリーダーの育成をすることなくこの世を去っています。
なので、釈迦の死後混乱が起こりました。
釈迦の弟子たちが集まって、釈迦の教えを整理した…これが「第一次結集」とよばれ、このときに原始仏教経典が成立したといわれています。更に後、各自独自の解釈を加え始めたので二度目の経典整理が行われます。これが「第二次結集」です。ここまでを「小乗仏教」と呼びます。
ただし、ここまでの過程では「弟子」は自分たちの修行の指針としてのみ経典を利用し、それが一般に説かれることがなかったと言われています。
そこで、現実的な問題が発生してしまいます。

インドでは(世界的に宗教というものはほぼ同じシステムで成り立っていますが)修行者のその考え方や実践のポリシーに賛同した一般人(信者)が、その修行者が滞りなく修行を行うために必要なもの(食、衣服、場所)を提供し、さらにその教えを聞くことで自分たちの知識としていく、という仕組みがすでに成立していました。
「一般人に仏教の教えが説かれない」ということは賛同者が集められないということであり、修行をするための衣・食・住を確保できないということになってしまいます。
それらは、数少ないその「仏教の修行者を保護するグループ」(「大衆部」といわれます)にのしかかり、そのグループも限界を感じ始め、既存の修行者グループに反発するように、仏教の民衆化運動を始めます。
これが「大乗仏教」の始まり。日本に来ているものの大半はこのムーブメントの中で作り出されていったものです。

「釈迦の形式を取るのではなく、釈迦の精神を取る」という動きだった…といわれています。
であるが故に、「釈迦の精神」は、受け止め手によって数々の解釈を生み出します。それが更に地域的に広がり、おのおのの地域で独自の発展をしていった…そういう経緯があります。

したがって、現在の仏教が釈迦本人によるものだということは考えにくく、かつその思想的にも、釈迦本人のものとは枝葉で異なる…宗派対立の根拠になったりします(笑)

話を元に戻しますが、お経を「釈迦本人の云々」という意味合いではなく、釈迦の価値観に誘発されて作り出された哲学であったり、実践であったり…そのように考えると、お経には絶大な意義が存在します。
恐らく釈迦の思想のエッセンスはどの経典にもちゃんと残っていて、そこに実践的な肉付けが(個々の発想の元に)されているのだから、(もちろん選択方法によりますが)その内容を理解し、実践することにはちゃんと価値があるでしょう。
人生のプラスになる、何かが。
それが「生きている人間」に価値を提供するだけではない…という拡大解釈が、「霊視」の処方としての般若心経読誦だったりする…と考えるとわかりやすいかもしれません。

長くなってごめんなさいm(__)m
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実は私も知り合いの霊能者の方に「般若心経」をあげるように言われました。

私の場合こうです。
まず、冒頭の「仏説」をはずして、「摩訶」からはじめてくださいということと、「○○家のご先祖様、どうかご無礼をお許しください。この場を借りて般若心経をあげさせていただきます。」と言ってから読経して下さい。一回でいいですと言われました。私はそれと同時に神棚を家に設置し、先に神棚にお供えと合掌してから(これも手順があります)、上記のような手順で読経していました。何ヶ月か経ってその霊能者の方に「もう成仏されてますよ。」と言われました。それ以降は「あなたが読経したいなと思ったときにしてください。」と言われました。その方曰く、「お経は霊界の方にとって食事です。」とのこと。また、別の霊能者の方に食事というのは?と尋ねたところ、「贈られたもの(この場合お経)はやっぱりありがたくいただいちゃいますよ。そういうことじゃないですかねー。」とおっしゃってました。ぴんとくるようなこないようなという感じですが、ある文献には、地上で最初に生まれた言葉はサンスクリット語らしいと。般若心経はサンスクリット語(梵語)で表現されています。漢字は当て字らしいです。つまり霊界と地上の人間との共通語が実はサンスクリット語であるといことらしいです。生きているときに知らなかった生命とはなんぞやみたいなことを、成仏できていない霊に般若心経で話しかけると共通語だから理解が早く「あーなるほど!」と気づき、こんなとこ(地上)で幽霊やってる場合じゃないよと目覚めさせてしまう効力があるということでしょうか?
ちなみにサンスクリット語で自動書記(霊界からのメッセージをその人の意志に関係なく手が自動的に動いて書き綴っていくこと)をしている海外の方もいらっしゃるそうです。お役に立てば幸いです。
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弘法大師の「般若心経秘鍵」について書かれた本を読んでください。


お経はその内容を理解することも大事ですが、読誦(読み唱えること)が大事です。
なお般若心経は仏教の精髄を説いたお経であると言われています。
以上、参考までに。
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人は祈ることによって対象の神仏に同化し、仏に成るからです。


仏は自分の心の奥に元々存在するものであり、
般若心経の書写読誦によってそれが表面に引き出されるわけです。

また、外部に存在する魔というのは憑依される人間の邪念によって引き寄せられるのです。
先祖の迷いも、また人間の迷いも、この邪念によるものです。

お経の書写読誦によって自分の心の中の仏が顔を出し、邪念が追い払われて清められるわけです。
この清められた心を神も仏も先祖もお喜びになります。

しかし、邪念というのは、一度追い払っても繰り返し私たちに纏わりついてきます。
従って私たちは、心の清めというものをその都度繰り返し行わなければいけないということです。

そうしているうちにその人の心境というのが少しずつ高まってくるのです。
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