プロが教えるわが家の防犯対策術!

題名の通りです。
今までとは全然違うやり方、新しい発想をしたと思います。
具体的に、33年間、龍馬がやったもの、龍馬ならではのやり方や行い(例えば、教えをうけたり、説得したりすること)をまとめようと思っているのですが自分だけでやると間違ったものをまとめてしまいそうなので、どなたか具体的に教えて下さい。
どうか宜しくお願い致します。

A 回答 (4件)

龍馬の背景で独特なものとしては、



1.土佐藩の郷士であった。
 当時の土佐藩は上士(山内氏とともに入国した者の子孫)、郷士・足軽(土着の長曽我部系の武士や士籍を買った者の子孫)の対立がその成り立ちから先鋭的なものとなっていました。また、郷士が表だって藩政に参加することはまず不可能でした。
 龍馬は後に脱藩し、勝海舟の「日本主義」に素直に共鳴していますが、藩への帰属意識が希薄だったことが大きいでしょう。

2.同族に才谷屋と言う土佐藩でも三指に数えられる豪商がいた。
 坂本家も1.の郷士株を購入して武士になった家で、才谷屋は藩の財政の面倒や上士にお金を貸していました。
 当然、藩や上士のだらしない内情(無能・怠惰)を知っていましたので、上士や藩への盲目的な忠誠心や畏怖は育まれていません。武市が藩や藩主へ盲目的な忠誠心を持っていたのとは対照的です。

3.土佐藩出身のジョン万次郎との接触
 直接の接触があったかどうかは不明ですが、当時アメリカで高等教育を受けて帰国したジョン万次郎は高知の出身でした。高知滞在中に幕府と藩の要望でアメリカ事情の聞き取りを行っていますが、この聞き取り役の絵師と龍馬は懇意でした(後の海援隊にこの絵師の弟子達が加わっています)。
 若いときにアメリカの実情をほぼ直接的に知り得た事は龍馬の最大の財産となります。

4.北辰一刀流の塾頭を務めた
 当時の江戸の剣術流派では、斎藤道場・伊庭道場・桃井道場・千葉道場(北辰一刀流)が、4大道場といわれていました。
 龍馬は千葉周作の実弟の定吉が運営する道場の塾頭を務めています。定吉は兄の華やかさに隠れてはいますが、千葉門への他流試合は全てこの人が最終的にこなし無敗を誇っていたほどで、技は兄を凌ぐと言われたほどの名人でした。
 その道場の塾頭は4大道場に準じるものとして剣客の間では重んじられています。このキャリアが龍馬の活動のスタート時点での、最大の名刺がわりとなっていました。


 当時の日本人(日本の武士)と比較して、「龍馬」と言う人材が育まれた独特の背景にあるものは上記のようなものだと思います。
 こうしたものから龍馬を論じていけば実相に近い人物像が得られるのではないでしょうか?
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 坂本龍馬の持つ優れた言語能力は彼の大きな武器だったのではないでしょうか。

江戸時代は「共通語」がなく、参勤交代で江戸にやってきた各地の武士は、書物や漢詩に書かれている書き言葉を話しコミュニケーションをとっていました。そんな時代に龍馬が薩摩弁や長州弁を理解し、彼らが使い慣れている方言で話せる相手だったというのが、数々の交渉をまとめた力になっていると思います。特に薩長の会談では通訳としての役割も大きかったでしょう。

 江戸時代の言語と龍馬の活躍は、多国間のコミュニケーション論に繋がるテーマだと思います。
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坂本竜馬の先進性は「カンパニー(株式会社)」の発想で、「亀山社中」という会社を作り、福井藩と薩摩藩に株式を持って貰っています。


これは従来にはない発想で、資金や組織が無くても、アイディアや話術でスポンサーを集め、儲けがでれば配当で還元するという、近代資本主義の先駆です。
この会社自体も所有するワイルウェフ号が五島列島近辺で沈没し、経営は順調とは行きませんでしたが、社中の技術者を他藩の洋式艦船に派遣すると云った方法で乗り切ります。
発想としても、それまでの日本人は「日本人」という実感が無く、「薩摩の人間」「土佐の人間」と自分を捉えてましたが、彼自身は「日本人」という感覚だったと思います。
因みに亀山社中は慶応3年に「海援隊」と改称してますが、初仕事として、伊予大洲藩からイロハ丸借り受け、長崎を出航しますが、紀州藩の船とぶつかり、沈没します。
これがわが国初の海難事故審判事件になり、竜馬は紀州藩から賠償金をせしめています。
かれが明治時代まで生きていたら、日本はもう少し自由闊達な商業主義の国になった可能性はあります。
多分彼自身は政治家にはならず、実業家として世界を股にかけていたのではないかな。
竜馬は女好きですから、生きていれば、川上貞奴(オッペケペ節の音二郎の未亡人)のパトロンにして実業家の、福沢桃介のような人間になったのではないかと予想します。
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薩長連合の橋渡しです。

 当時の薩摩藩長州藩は我が我がでいきり立ていましたから、竜馬の仲介が無ければ成立しなかったでしょう。 
起業家の走りです。 組織の中で生きようとする当時では自由に生きた人です。 海援隊で貿易などもしていたようです。 てこのような岩崎弥太郎が三菱を作りました。 竜馬が生きていたら何を作っていたのでしょうか。 残念です。 竜馬と信長が生きていたら、日本は代わっていたかも知れません。 新婚旅行もしました。
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