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【筑紫国造磐井の乱について】

1、継体天皇は戦争前に物部荒鹿火に
『長門より東をば朕制らむ、筑紫より西をば汝制れ』と言っています。
訳すると「戦争に勝ったら、本州は天皇家のものだが、九州は物部荒鹿火大連が治めよ。」と言っています。
これは記紀的表現を取ればもちろん、物部荒鹿火を九州の国造に任命すると言う形ですが、
逆に言えば、九州は天皇の直接支配権の及ばない地域として認めるということではないでしょうか?


2、百済本記で『531年に日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨せぬ』という記載があります。
百済では日本の天皇である磐井一族が滅ぼされたと認識したのではないか?


3、『筑紫の君葛子は、父磐井の罪に連座して誅せられることを恐れ、粕谷の屯倉を献上して、死罪 を免れることを請うた。』

戦利品は『粕谷の屯倉を献上』しただけですか?
あれほどの大規模な戦争にもかかわらず、勝ち取った領地が『粕谷の屯倉』だけならば、少なすぎではないでしょうか?
まるで引き分けたように思います。
日露戦争でギリギリ勝利した日本が樺太の南半分を得たことに似ています。

A 回答 (4件)

テーマが大きいので、とても書ききれません。

そこで参考までに下記の本をご紹介します。↓ (『謎の大王 継体天皇』 水谷千秋著 文春新書 平成13年)
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30881709

ちなみに、ここで筆者は
1.について 小島憲之氏の先行研究『上代日本文学と中国文学』をふまえ、質問氏のご指摘の部分については「『漢書』の記述をもとに述作されたもので、『日本書紀』の磐井の乱に関する記述は全体に潤色が甚だしく、ここから多くの史実を見出すことは難しいといわざるをえない」と指摘しています。
3.については、「糟屋の屯倉」のほかに、磐井の乱後、「穂波の屯倉」「鎌の屯倉」など記録にあるもので八ヶ所の屯倉、および「那津官家」(後の大宰府に相当)が設置され、大和政権による九州支配が強化された、と指摘しています。
2.については、磐井の乱に関するページにでは時折みかける指摘ですが、小生としては浅学にしてよくわかりません。

ともあれ、磐井の乱いついては甲論乙駁、実相がなかなか見えません。冒頭にご紹介した本は、混乱期の継体王朝について、また継体朝からみた磐井の乱が考察されたもので、結構面白く読みました。ご参考になればと思います。
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この回答へのお礼

『日本書紀』の磐井の乱に関する記述は全体に潤色が甚だしいと言うのは、その通りだと思います。
磐井の乱後、八ヶ所の屯倉、および「那津官家」(後の大宰府に相当)が設置され、大和政権による九州支配が強化されたのですか!!
参考になりました。
『謎の大王 継体天皇』を読んでみたいと思います。
 

お礼日時:2005/10/27 02:59

#2さんの書いておられる九州王朝説は一定の説得力を持っていると思います。

実際質問者さんと同じ観点から議論を展開している本があります。(下記URL参照)

偽書問題、というのは東日流外三郡誌に関する論争ですが、個人的恨み辛みもあってはっきりいって関係者以外は手を出しかねる状況です。
しかし、九州王朝説自体はこの論争と直接は関係のないものですから、ここはやはり冷静に評価した方がいいと思われます。少なくとも私は九州王朝説にはかなりの説得力があると思うのですが。
なお、御説と同様の観点が最初に書かれたのは「失われた九州王朝」です。より詳しくは「古代は輝いていたII 日本列島の大王たち」(いずれも朝日文庫で現在も発行中)。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handl …武彦%2C%20古田/249-7932277-6597123
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古田武彦氏の九州王朝説があります。


古田氏自体は偽書問題から歴史学界から消えてしまいましたが、
王朝説は未だ一部では生きています。
一度読んでみられると面白いですよ。
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この回答へのお礼

九州王朝説なんてものが存在するのですか!!
初めて知りました。
面白そうな説ですね。
ありごとうございます。

お礼日時:2005/10/27 02:56

順番に行きましょう。


1、天皇というのは、この大和政権初期では、豪族の代表といって形で存在していたと考えられています。つまり、天皇家にして物部氏にしても大伴氏にしても、要するに豪族と考えたほうが近いのです。そのため、物部氏の氏上、物部の荒鹿火にもプライドがあります。朝廷もそのことをよく承知していますから、九州を治めろ、という大きな恩賞を与えることによって磐井を征伐してもらおうと考えたのです。さらに、このころは本州と九州というのはまったく違った場所という風に当時の人は見ていたので違和感はあまりなかったのでしょう。ちなみにこの場合の九州というのは今の熊本あたりまでがぎりぎりです。(鹿児島に隼人がいますからね。)
2、これはなかなか難しいです。ただ、磐井は朝鮮半島に巨大な力を持っていたので百済が、日本の天皇が滅んだと認識する可能性は少なくありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

大和政権初期は、天皇家は豪族連合の代表だったのですね。
古代史は謎が多いですね。

お礼日時:2005/10/27 02:55

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