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こんにちは。
道元の「正法眼蔵」を読んでいます。
第54巻「洗浄」に排便後のお尻の拭き方や手の洗い方が詳しく清浄を保つ観点から書いてあります。
ふと疑問に思ったのは、肝心の排泄物の処理はどうしたのかなということです。何度か読み返してみましたが厠を作る方角などについては書いてありますが厠の構造やたまった排泄物の処理については書いてありません。

で当時、13世紀の日本では一般的にどんな風にして処理していたのか知りたくなりました。社会階層で違ったかもしれませんが、各階層でどんなやり方をしていたんでしょうか?
特にお寺などではどうしていたか、教えていただきたいと思いました。

どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (5件)

#4です。

文章を読み返したら、「#2さんの意見は間違いだ」と記述したみたいになってしまっているのでフォローです。
私の記述はうろ覚えで、出典も明らかにできませんし、その書物自体学術的な物ではなかったと記憶しています。(中学生の受験資料程度)
・・・すみません。
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#2さん、本当ですか?


鎌倉時代中期までは田畑とくに田は神聖な物とされ、糞尿をまくということはしていなかったとの文献を読んだ記憶があります。

厠は川の上に架し、そのまま流した、鎌倉時代後期になると、武士階級の生産性向上(富国強兵)のために見境もなく糞尿を田畑にまくという行為を始めたと記憶しています。
13世紀頃は刈敷きを肥料にしていたのでは無いでしょうか。

この回答への補足

ありがとうございます。
13世紀にし尿を肥料にしていなかったとして、ではどのように処理していたんでしょうか?
埋めたんでしょうか?
「正法眼蔵」を読んでも、し尿がたまる穴はあったようです。またがってしゃがむという言葉が出てきますから。

その後たまったものをどうしたかを知りたいんです。

補足日時:2005/11/09 14:24
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#2を補足します。


江戸時代の例を書きましたが、これは江戸時代だけではなくそれ以前も、またこの30~40年前までは排泄物を肥料として田畑にまくというのは普通に行われていました。(堆肥にすることもですが)
13世紀頃は特にほかによい肥料はないので肥料にするのは当然でした。
曹洞宗では自給自足という傾向もありますから、野菜くらい自分で栽培していた寺も多いので高僧でも自分で肥まきをやっていたかもわかりません。

この回答への補足

無知なくせに生意気言うようですが「農学」が発達するのは江戸時代以降じゃないでしょうか?
「肥料」という考え方が中世の農法にあったんでしょうか?
曹洞宗は自給自足なんですか?
キリスト教では自給自足で修道院が農園をやっている様子を小説や絵などで見ることが出来ますが、仏教、特に曹洞宗は托鉢が主なんじゃないですか?自給自足という考えがあるんでしょうか?
「正法眼蔵」にはお寺で古米から酢を作る僧の話が出てきます。ですから生活資料を得ることを否定する考えはなかったと思います。

補足日時:2005/11/09 10:01
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堆肥にする方法もありますが、直接畑にまくこともありました。


江戸時代に江戸の町では、近郊から農民が長屋のトイレの汲み取りに来てお礼を家主(家守)に渡していたり、お金を払って汲み取りしていたりしており、それが結構な収入になったそうです。
また、武家屋敷の排泄物は栄養価が高いというので競争が激しかったようです。
そのため、甲州街道などは朝は近郊農民が肥桶に野菜を入れて江戸の町へ売りに行き、帰りは排泄物を汲み取って帰るのがみられたそうです。

この回答への補足

ありがとうございます。
中世からその方法は行われていたんですか?
何か資料はありますか?

補足日時:2005/11/09 14:21
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肥溜めにためて腐敗させて


畑の”こやし”にするんです。
灌漑農法をする以上、連作で不足する栄養分を
土壌に補う必要があるので、
ちょうど農閑期にあたるこの時期か、春先に
たい肥をまいて
攪拌して、次の田植えに備えるわけ。

この回答への補足

ありがとうございます。
灌漑そのものはかなり古い遺跡からも発掘されているようですね。
肥溜めにためて腐敗させてというのはどのくらい昔から行われていたんですか?

補足日時:2005/11/09 14:17
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