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いきなりこんな根拠も無い質問ですいません
(端的、私的)で結構です。

Q.信玄も謙信も信長、家康を討てる範囲にしながらいずれも急死してます、この時代の記録の(死)も不可解で?
記録に残されたものは意外とくだらない死に方をして記録されたものも多数あります。
上記、信玄、謙信はいずれも信長を目前にして急死してますが。
私個人の解釈ですが(忍者の暗殺)では無いかと??
思うのです。本当の歴史に隠された事がこれ以外にも多数あります?

A 回答 (7件)

こんにちは。


この二人に限るなら、急死とは言っても、その予兆の記録もあるし、医学的にも全く不思議じゃない死因ですね。

武田信玄は労咳(ろうがい:肺結核)を煩っており、主治医の記録もあるし、主治医の命令で湯治にも行ってます。
また、影法師という影武者を使ったのもこの治療を隠すためだったらしいです。

上杉謙信は大酒豪ですよね。
おまけに塩を肴に飲むのが大好きだった?なんて、脳卒中にしてくださいみたいな飲み方だったようです。

ちなみに、その当時の忍者が簡単に領主の殺害が出来たならば、殆どの領主は暗殺されていたのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

当時の寿命としては不思議でもないのですが、まあ~忍者で暗殺出来るなら他でもそんな例があってもいいくらいですよね?

ありがとうございました

お礼日時:2005/12/29 18:23

私は信長が好きです。

ですから完全な私的の意見です。

信玄が死ななかったら四方八方から攻撃を受けていた信長は、完全に潰されていたと思います。信玄が生きていたらどうなったのかとても興味が湧く話しです。歴史に「もし」はないのですが・・・人は運がすべてだと思います。小泉にしろ、信長にしろ「運が強い」それだけだと思います。神が信長を必要としていたから信玄を殺したと思っています。

バカな回答で申し訳ございません。
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この回答へのお礼

確かに時期も前後していたら大きく歴史も変わっていたかも知れませんよね?私は信長がやはり勝っていたと思うのです。
個人的に思うのですが、あのまま信玄と信長が衝突しても信玄が勝てたかどうか?同時に毛利などでハサミ撃ちでもしない限り、信長内の優秀な武将を考えたら色んな策を使って勝っていたとも思うのですが?
これも勝手な想像ですが。
ありがとうございました

お礼日時:2005/12/29 18:31

下の人も言っているように、暗殺という説は非常に薄いかと思います。


一応どちらも歴戦の武士ですので、腕に覚えあり、とくに謙信の一騎掛けは有名ですね。生半可な腕で勝てる相手ではありません。
それに、忍者といってもお抱えの軒猿(上杉家)のような忍者はいましたので、それらと一般兵が守っている中で暗殺というのは、非常に困難であったと思われます。

また、合戦となれば討ち死には世の常、特に鉄砲の登場は合戦が腕だけで生き抜くことが難しい時代になったことを意味していました。

矢は、その弓の絞り具合にもよりますが、ほろ(布)を使ってしのいだり(矢の場合は丈が長いため、どこかにベクトルをかければある程度ははじくことが可能。)、また水平射撃の場合は射程が長ければ長いほど相手の技量に左右されるところが大きく、基本的に奥に陣取っている大将などには矢を当てるのは困難であったと思われます。
現在の弓道だと28Mが弓道場の一般的な広さらしいので、それからもわかるようにいわゆる雑兵が弓で相手を狙ったとしても、まともに狙い打てる距離はたかが知れていますし(さらに動いている的を狙うわけですから、実際の有効射程はかなり短いと思われます)、腕力に飛距離が左右されますので、弓矢という飛び道具では、討ち死にはなかなかしないのが日本の合戦でした(外国の場合は弩弓があったのでまた変わります)。

方や鉄砲の場合は、豆粒みたいな鉛球が、弓よりもはるかに高速で飛びますので、ほろのようなものでベクトルを加えるのは困難、さらには飛距離はまともに使えば誰でも一定ですし、扱いも弓よりも熟練が早く、形のおかげで狙撃も容易です。
そういった飛び道具の登場は、やはり合戦の様相が変わる要因となったのです。
長篠の戦のような大規模鉄砲隊でなくても、鉄砲隊は脅威でした。

武田信玄の死亡説に鉄砲を食らったというのがありますが、こういった合戦の様相が変わったことを考えれば、あながち信憑性を帯びてくるかと思います。
病死の可能性、つまり結核なども考えられますね。行軍などで環境が劇的に変わって発作をおこしてぽっくりと・・・などとも考えられますし・・・

また、当時はやはり突然死というのが多かったのは現代とあまり変わりません。
現代では後付で「脳梗塞」だとかわかりますが、当時はそこまで詳しくはわかりませんし、心臓麻痺などでも、起こせば高確率で死にいたります。
また、当時(実際は今もそうですが)から寒い地域では、塩分を多くとる、酒を多く飲むといった食事習慣が多かったため(そうしたほうが体が温まるというのが理由)、東北など寒い地域でそういった脳梗塞などの死因が多かったことが明治~昭和にかけての統計で実際に証明されています。

越後は海が近いため塩も豊富なので、おそらく塩辛いものを多く摂取していたのではないかと予想されます。こう考えると、謙信の突然死も起きて不思議ではないと考えられます。

当時の記録で死因があるていど特定できるものもあれば、まったく不明、または資料によって食い違っているのも多いのが実際です。特に軍艦などの資料では、どうしても伝記としての色も濃くなりますし・・・
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この回答へのお礼

そうですね、忍者といえどウワサ流したり情報収集が中心のようでしたしね~。
ありがとうございました

お礼日時:2005/12/29 18:45

謙信は領土的野心は全くありませんので、京に攻め上ろうなんて考えていません。

正義のヒーローみたいに平和を乱すものを懲らしめていた(身分は、上京して義輝からもらった関東管領という副将軍の地位で十分満足してました。後年は地位が不要なくらいに回りから頼られていました)だけです。謙信存命中は、信長も家康も、謙信をしたう領民を苦しめていませんから、打ち滅ぼす理由は全くありません。
謙信は出陣前に急死となっていますが、それは御館の乱で、謙信指名の跡継ぎを攻め滅ぼした景勝のつごうで、本当は死期を前にして(宮沢賢治だって、死期がわかるくらいなので、謙信は当然自分の死ぬ日をわかっていました)、跡継ぎを指名し、死後直後の乱を防ぐために家臣団を集めたんです。
信玄は寿命と実力だと思います。信玄は家臣団が家康に吸収された(権力者の側に立った)関係で、実力が過大評価されています。大久保彦左衛門が天下のご意見番だったというのと、同じノリです。
暗殺なら、タイのてんぷらが当たって死んだとされる家康の方がずっと怪しいです。子である将軍よりも偉かった人なのに、死因が変すぎます。
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この回答へのお礼

確かに幾多の危機を乗り越えた家康が天ぷらで死ぬとは、情けないと言うか?適当に付け加えたようなことに思えますよね。
ありがとうございました

お礼日時:2005/12/29 21:09

素人意見なんですが。


そもそも、本当の忍者って現代の忍者映画のようなことはやってなかったんじゃないでしょうか?確か、本物の忍者の主な任務は諜報活動や情報収集と聞いています。さすがに、敵の陣地や城に忍び込んでの暗殺なんて出来たんでしょうか?
 戦国時代には暗殺は多かったようですが、大半は敵をおびきよせてのだまし討ちや、身内や部下の裏切りによる暗殺だと聞いています。
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この回答へのお礼

(忍者の主な任務は諜報活動や情報収集)
そのようみたいですね。でも現在人より遥かに力もあり超人的なのも想像出来ますが、両者、信長討伐令を受けての後だからこのように思っただけですが。やはり馬鹿げた想像のようみたいですね。
ありがとうございました

お礼日時:2005/12/29 21:20

疑いだしたらきりが無く、例えば足利義満は朝廷の闇の手によって暗殺されたとか、紀州藩の徳川綱教・頼職兄弟と尾張藩の徳川吉通・五郎太親子は吉宗に暗殺されたのではとか、徳川家基は田沼意次に一服盛られたとか、栄光の座に後一歩と迫りながら亡くなった方には暗殺が噂されます。


武田信玄もあのまま生きていたとしても果たして尾張を通過できたか疑問ですし、上杉謙信もアル中で与太っていたとの噂もありますから、偶然と考えてもよいのではないでしょうか。
「天下人は天下が作る」とある歴史小説家が書いてますが、信長は強運な星があり、桶狭間の戦いを始め、敦賀遠征での失敗、狙撃と命を落としてもおかしくない場面を切り抜けてます。
信玄の場合は寿命を悟っての出陣ですし、謙信も越後の武士たちも彼の理想主義に辟易してた時期ですから、信長が手を下さなくても運命だったと思いますし、死ななくても彼らが天下を取ることは無理と思います。
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この回答へのお礼

確かにおっしゃるとおり
信玄、謙信はその意思も含め天下は無理かと思います
信玄は宗教的に敵対と見方がハッキリしていた事と
謙信はもとから天下を取る道理も無かったと思いますし
どちらも生きていても隣国の協力なくして天下は取れないのは納得です。
(いろんな意見ありがとうございました)

お礼日時:2005/12/31 03:38

私見です。


忍者の役割の大半は流言や諜報だったと考えるのが自然でしょう。しかしながら、夜の闇が現代と比較にならないほど深かった当時、暗殺者の活躍の場も大いに広かったと考えられます。夭折、突然死した英雄(候補)のうち、忍者の暗殺があったかも?と想像するほうが、実際に見たわけでもないので面白いんじゃないでしょうか。

さて話は変わりますが、私は他の方々のように信玄・謙信が信長と戦って必ずしも負けるとは思えません。
理由としては、(1)兵の強弱(2)将の資質(3)銃器の充実に疑問があるからです。
(1)兵の強弱については、東(東海~東北)の強兵・西(尾張~近畿)の弱兵は周知です。
(2)将についても、柴田勝家が上杉に敵し得ず、武田の真田に徳川は苦しめ抜かれています。つまり歴史に名が大きく残っていないだけで、遜色を決められません。
(3)銃器については、信長が長篠で鉄砲の三段揃え(1000挺×3列)で勝敗を決した天正3年であればまだしも、信玄没年の元亀4年では不足してました。射程距離200mに満たない当時の鉄砲、しかも1発撃てば弾込めにより20秒も要する鉄砲が、1列ではそこまで脅威ではないでしょう。(馬は20秒あれば当時でも300mは突破してきます)
そもそも信玄が敵の長大な馬防柵を見て、無謀に突撃したかどうか?
たらればは無いですが、彼等の寿命がもう少し長ければどうなっていたのか?全く違う英雄とその武将が歴史に名を残していたかも?興味は尽きませんね。
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この回答へのお礼

納得です
私もこの疑問を抱いた時点で、(信玄、謙信)が生きていたら?と思ったのですこの時代(鉄砲が無い)にしろ信長の配下(秀吉、勝家)連合がどんな奇策でくるか不明ですが?
(謙信の信長討伐軍に6万)近い軍隊の署名を集めている事もかんがえれば謙信もの信長を撃てたと思うのです。
信玄も鉄砲が無い信長には勝てたと思うのです。

実はこん偶像的な予想をしたのも
私の生まれは(高野山ふもと)で高野山には殆どの戦国武将が来てます
過去に残され記録に反してのウワサ話しや足跡も多数残っているので
このような飛んだ予測をしたのです。
徳川の某将軍の墓も小さな石1っで埋もれたところにある奇妙な物もここにはあるのです。

(お答えありがおうございました)

お礼日時:2005/12/31 03:51

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