準・究極の選択

昭和初期の山形は石原完爾や大川周明など非常に個性的な人物を輩出してますが、どんな要因があってそうなったのでしょうか?

A 回答 (2件)

 一つ言えることは、庄内は明治維新時に薩摩の私怨から逆賊になりました。

江戸藩邸を焼き討ちにしたのが庄内藩です。自分達を正当化するには人材を作ることでした。その結果、明治時代に教育に力を注ぎ石原莞爾ほかの人材が輩出されたのではないでしょうか。同様のことが長岡藩でも起きています。長岡藩は中立が認められず逆賊とされました。城下町は焼失し、石高も削られました。その時に生まれた逸話が米百俵です。食えない時だからこそ未来にかけるとして教育に全力を注いだのです。結果的に東大の教授、そして山本五十六が育ちます。(南雲忠一も生まれは米沢ですが、長岡藩士の子供です)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます
逆賊と教育への投資は大きい要因みたいですね

お礼日時:2006/03/30 11:06

かなり興味深い質問ですね。


概ね#1の方がおっしゃられている事で大丈夫だと思いますが、私も少し興味があったので、自分なりに調べて、勝手に仮説をたてました。ただ山形県出身の人間でもないので、あまり断定的な事は言えませんが、所詮「一つの考え方」という事でどうぞご容赦ください。

山形県民の気質土壌というのは、調べてみると「武士道的な忠義、礼儀、国家観、体制を重んじ、辛くても歯を食いしばって耐える反骨精神を持っている」といったイメージがあります。
では簡単に、そういう一面を、江戸時代からピックアップしていきたいと思います。

山形県には当時色々な藩があったようですが(有名なのは米沢藩と庄内藩)、米沢藩を中心に見ていきます。
米沢藩は初代藩主が上杉景勝です。彼は関ヶ原の戦いで西軍として戦い(実際には東北で戦う)、敗れた武将です。その時に外様大名として米沢に転封されてきます。これはある意味、「秀吉や三成への義理を重んじたために敗れ、あとは耐える」のような構図ですので、この時既に気質土壌が形成されていた可能性はあります。

そして米沢藩は江戸中期、吉良家(後の赤穂浪士の敵役)と縁組を結びます。吉良家は代々礼儀作法を重んじる家柄ですので、この縁組が、どんな時でも襟を正しているような(ある意味個性的な)山形県人気質に、多少影響を与えたかもしれません。
あと「耐える」という面では、のちの上杉鷹山の倹約にも、その一端が見られると思います。

そして幕末になると、米沢藩は庄内藩と同じく旧幕府方として戦い、敗れます。この点で#1の方がおっしゃられている庄内藩と同じように、新政府から疎まれる存在となります。

そしてその後、三島通庸という人物が初代山形県令になります。彼は薩摩出身で、後に福島県令として自由民権運動を弾圧した事で有名です。彼はのちに警視総監も務め、その時にも後期自由民権運動を徹底的に取り締まります。
と、ここまで書くと、三島が極悪人にも聞こえますが、意外に彼は山形県では評価が高いようです。つまり、彼のそういった姿勢(=薩摩隼人特有の個性+思想統制)が、山形県人と意外に相性が良くて、結果的に、彼の県政が山形県人に、その後の昭和陸軍的国家思想を植えつけていったのではないでしょうか?(ちょっと直接的にはかけ離れていますけどね)

また、軍部について述べると、山県有朋が長州出身以外の人間を毛嫌いした節が、少なからずあります(詳しくは http://ja.wikipedia.org/wiki/山県有朋 を参照)。これは、元々長州出身の大村益次郎が軍の基礎を作ったために、そのまま、長州が軍権を握り続けたことが原因ですが、それにあぶれた山形県人の反骨精神が、のちに爆発した、との見方もできると思います。

で、まとめると、私なりには、「三島通庸」と「山県有朋」の影響が濃いのではないかと・・・。その中で、今までに述べてきた様々な要因が絡み合っているのではないかと・・・。
一つの要因にはとても搾りきれないと思います。

しかし、所詮一つの仮説、推論でしかありません・・。
長くなりましたが、以上です。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/山県有朋
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この回答へのお礼

丁寧な回答ありがとうございます
三島と山縣ですか。面白い推論ですね。

この疑問わたしもいろいろ調べてみたんですが、あと一つの要因として日蓮宗の影響もありそうです。

お礼日時:2006/03/30 11:09

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