dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

自分は高校生なのですが、学校で人の話を聞いていればよく、例えば「全然大丈夫」「全然いいよ」といった全然+肯定文を言う人がいます。
そして、それに対して「全然の後は否定文だし」と必ず文句をつけてる人もいます。

全然+肯定をOKとする人の言い分は主に「言葉は変化する」
全然+肯定をNOとする人の言い分は主に「正しい日本語を」

僕は今、このような言葉の変化についてどうすればいいのか非常に迷っています。

全然+肯定以外にいい例えが思いつかないのでこればっかりになってしまいますが、この全然+肯定はOKとするべきなのかNOとするべきなのか・・・。

言葉が変化しているというのも事実であり(実際平安時代だったかな?昔は全然+肯定がOKでしたからね)、現在の正しい言葉を使っていかなければならないというのもその通りであると思っています。

本当に難しくて迷っているのですが、皆さんこれについてはどうお考えなのでしょうか?
ご意見を聞かせていただけると幸いです。

A 回答 (21件中1~10件)

自分自身いわゆる「ら抜きコトバ」には生理的なまでの嫌悪を感じてしまうので御質問者が御迷いの心境も分からなくはありません。



なんで個人的に「ら抜き」だけは受け入れ難いかと申しますと、いかにも「だらしがない」感じがするからです。ら抜き=手抜きというイメージなんですね。
どんなに高尚な専門用語を、ふんだんにちりばめていても、ただ一言「ら抜き」が出てくると、それまで
「いや~このヒト、アカデミック~ステキ~痺れるぅ~」
なんてウットリしてても、いっぺんにガッカリ、です。なんかどうしようもなく下品な感じがしてしまうんです。それと音を外した歌を聞かされたような感じ。。。

とまあ、至って感情的な立場で述べてしまいましたが、かくのごとくコトバというものは文法論だけで成り立っているものじゃなく、それは元は音楽と源を一にしている(と私は思っているんですが)出自としては本来感性寄りのものだというのが本質ではないのでしょうか。
だからこそ変化変質が付きまとう。
「生きている」と言われる所以ですね。

ところで文学カテゴリで、ちょっとオモシロい質問が出されていましたが
詩人と小説家は違う、推敲に時間かける人とそうでない人がいる、筆が早い人遅い人。。。なんでか?
その違いの理由は、と考えてみましても自分自身は両方の面を持ってて、比較的気楽に、くだけた文を書くときは知らず知らず図らずも歌を歌っているかのような気分と筆致になっていたり、
逆に思考の道筋そのものを伝えたい等と望むときには必然的に、ああでもないこうでもない、もっと他に言い回しはないものかと時間がかかってしまいがちです。

コトバというものが本来的には感性が母体であるとしたら、そんなもので難解なリクツを述べようとすれば書いた本人も呻吟し、読む人がアタマ抱えるのも当然ですね。

ということでコトバには二面性がある。所詮ヒトが生み出して使ってるんだから、あんまり硬いことばかり言っててもしょうがない。

だからこそコトバが登場するのはお堅い論文だけではない。芸術からダジャレまで、そしてファッションでもあるのです。

御提示の「全然+肯定」形の本来の姿というのは、もうすでに幾人かのかたが御指摘済みですが、いま現在それは流行(はやり)コトバの用法としての使われかたが本当のところではありませんか?
それがこれから、そのまま定着するかどうかは分かりませんけど少なくとも、これまでのところ確かに「全然+肯定」形はオカシイという時代が続きました。

ところがその「オカシイからこそ」の登場なのではないのでしょうか。
要するに「効果」を狙っているということですね。ファッションですよ。ミスマッチ感覚とでも言うんでしょうか。意外性がウケテルってなとこでしょう。

とは言え、もうそろそろ意外性も薄まってきた感があるし、あとは
「いつまで使ってんだよ、だっせ~な!」
と思う人が多くなければ言うところの「正しい」用法として定着していくのでしょう。

意外性による演出、というのは、いろんな面で見かけます。そして皆が慣れてしまって「意外」に感じなくなったら流行遅れとして一蹴されるか違和感なく「市民権」を得るかに分かれるのでしょう。

コトバの多面性故に誤解を避けるべく厳正に、というのも尤もですし、しかしそれは翻って、いかにコトバというものがチャランポランな遊びを許すものかという証拠でもあります。

用法に慎重でなければならないときもありましょうが、すべてに同じ調子で対処しようとするのは気楽なお遊びに行くのに礼装で出かけるようなもので滑稽でもあり敬遠されます。
その逆もまたそうでしょう。

ただNo.18のかたの御意見も個人的には頷けることもありますが他者に注意するときには自分の見解にも慎重を期さないと反って大恥をかくことになりかねません。実際このサイトでも、そういう人を見ましたから。

さて御質問への直接のアドバイスとしましては、他の御回答者がたからも挙がっているようですが貴方が本当に迷うべきは
幾つかある用法のなかで、いまはどれを使うべきなのか
その判断力を養われることのほうが実社会においては貴方の助けになると申し上げます。
そしてそれには相対する人間を見抜く眼も問われてきます。
もちろん貴方のアタマのなかでの用法に関しては御自分で御決めになってよろしいでしょう。
私も「ら抜き」はやめんか!などと、親しくもない人でしたら、いちいち指摘しません。

風変わりなものごとは大概、若い人が始めるものでしょうが貴方は、いまどきに、生真面目な気性のかたなんでしょうね。でも所詮ファッションなんだと思えば流せませんか?
実社会に出ても自分流儀のファッションを押し通すのは難しいこともあるのですし何事につけてもそうですよ。

いまはコトバでも何でも思いっきり転がし遊べる特権を享受してくださいな。いまのうちですよ。
でも、そうじゃない見かたもあるんだ、ということを、ちゃんと知っていて大らかに遊べる人のほうがカッコイイと思いませんか?
もちろん知らないのに開き直って踏ん反り返ってるのはカッコ悪いですけどね。(これを目上が見ると「可愛げがない」と言う)
    • good
    • 0

すごく「正誤」に拘泥しているようですが、事象はそんなことよりも必要なものを選択していく。


「全然+肯定」が昔用いられていた、今では間違いだということはどうあれ、つまり、「正誤」という以前に、市民権を得れば表現として残っていく。
これは、俺の大好きな言葉で「淘汰」です。
だから、「正誤」にすごく拘泥するのは、特に言語を考えるなら、賢明だとは思えない。
すごく楽観的な意見を取れば、言語というものにはルールがありますからね、どれほど誤った使い方をしてもそのルールから逸脱しきれないという部分があります。
言語における誤用は、甚だしくは意図したことを伝えられないということになりますから、規格外=欠陥品ですので、それこそ選択の中で自然に「淘汰」されていくのです。
「全然+肯定」も「ら抜き」も、社会の要請として生まれた。必要性があったから広まったというのがあるんですよ。
誤りが広まるには、それなりの理由がある。
ですから、言語レベルですごく厳密性を求めるのは言語と向き合う上ではそれこそ、非生産的な態度に見えますが、いかがですか?
言葉がひとつの意味しか持っていなかったとしたら、我々の生活は不便でしかたないですよ。
そういうことと同じように、元々言語というのはすごくあやふや、フレキシブルなものなんです。
だから、「正誤」に拘泥して、言語の「正しさ」を求めていくと、あなたのようになると思います。
それよりも悲観するべきは、俺は現今の学校教育、並びに教育意識で、幼児期から英語を学ばせたりしようという動きが活発ですが、俺は反対です。
日本語(母語)もまだ習熟していない段階で英語(第二言語)を学ばせるということは、正しい日本語の意識を薄めさせる、さらには母語愛を育みにくくすると考えられるからです。
日本人はまず日本語を習得し、日本語でものを考えて、日本人としてのアイデンティティを形成していきます。日本人としてのアイデンティティがあるからこそ、日本国を愛せるわけであって、日本人としての自分をも愛せるわけです。
それを現今の状態を遂行していくと、日本人は日本語で考えなくなる、つまりそれは日本人としての発想をしなくなる、過言だとすれば、少なくとも日本人的な発想だけではなく、欧米的な発想で物事を考えるようになる(もちろん、悪いことだけではありませんが、手放しでいいこととも言えない)。
第二言語は大人になっても身につきます。早くやれば効果は確かに大きいですが、その代償というものをあまり考えていないように思います。
帰国子女が外国であまりにも長い間生活をして帰国すると、日本語が話せず、日本人のアイデンティティが形成されていないので、日本で生活困難になるという教示的逸話もよく聞かれるものです。
日本人はまず、日本語を習熟させるという教育をしていかなければ、質問者さんが懸念している言葉に対する意識の薄れ・愛着の薄れは、もっと大きくなることでしょう。
この問題は、「全然+肯定」や「ら抜き」以上に重要な問題だと俺は思います。むしろ、この問題より前に「全然+肯定」の是非を問うことは、瑣末なことのように思えるのですが、いかがでしょうか?
    • good
    • 0

歴史的な変遷を踏まえた上でのご質問ということで、それならば、それほどまでに迷われるような大問題とは思いません。



> 全然+肯定をOKとする人の言い分は主に「言葉は変化する」
> 全然+肯定をNOとする人の言い分は主に「正しい日本語を」

時代と地域によって「正しい日本語が変化する(日本語の正しさが変わる)」という捕らえ方では不自由でしょうか。変化する中では、「半数の人が納得し、半数の人が納得しない言葉」が立ち現れるのも当然だと思います。ごく日常的な現象とも言えます。

「カスタマのアグリーメントを重視して……」といった表現も、使える環境なら使えるし、多くの人が「はぁ?」と思うような環境では使えないのではないでしょうか。

もしご質問の意図が、もともと全然+肯定が、誤用から始まっているのかも、というご懸念(明らかに間違いが定着していた時期があったのではないか)だとしたら、それは違うようです。否定も肯定も強める副詞です。否定を強める役割に比重が偏ってしまったため、逆の使用法が使いづらくなってしまいました。

ただ、現代の「全然OK」は、過去に使用されていた全然+肯定の復活というより、別の経路で発生したものではないかと思われます。筋が悪い(?)というか、たまたま昔、同じ用法があったのだが、それは知らずに使い始められたという、出自としてはある意味で誤用と同じ類のものではないかとすら感じます。小型哺乳類が翼を持ったけれど(コウモリ)、それは鳥類ではない、というような比喩を思い浮かべましたが……。

脱線ついでですが、言葉の進化は生物の進化とよく似てると思うのです。コウモリは鳥じゃないから間違いだなんていう人はいませんよね。非常に大雑把に言ってしまえば、正誤ではなくて、現在生き残っている(使われている)かどうかなんだと思います。
    • good
    • 0

私の見解はNoです。


言葉が変化している(或いは時代の流れ等)を
口にする人は、自分が正しい言葉を知らないことを
ごまかすために理由にならない理由を強弁しているようにしか聞こえないからです。
    • good
    • 0

公的な立場や、フォーマルな立場で発言する場合、全然+肯定は避けるべきだと思います。


私的な発言や遊びの中での会話では問題ない場合が多いと思います。

私の感覚ではいずれ全然+肯定は広く認知される表現になるような気がします。勘ですけどね。
    • good
    • 0

まあ、言葉というのはコミュニケーションツールですから、「全然OKだよ」と言った方が相手が解釈しやすくなるのならそれで問題ないと思ってます。


無理に「あの使い方は間違っている」とかいって制限した結果、言いたいことをうまく伝えられない、なんてことが起きたら本末転倒ですからね。
    • good
    • 0

陳述の副詞の乱れについての意見ですね。

そもそも、言葉は新しいものが生まれると選択の競争が起きます。そして、勝ったほうが標準となるのです。それは言語の通時態にぞくするものであり、共時態を生きている我々にはどうすることもできません。さて、本題に戻りますが、新しい用法は言語の伝達性を妨げるために嫌われているのでしょうから、とりあえずのところは呼応関係を守った方がよろしいのではないでしょうか。それならば、普遍的に受け入れられているわけですから。、
    • good
    • 0

ご承知の通り、言葉は時代と共に変化して行くものです。


今では一般的に使われている言葉も、当時は
「最近の若いモンは変な言葉を使う」と、年配者に嘆かれ続けつつ
ゆっくりと多くの人に浸透してきたのです。

現代のように情報が即座に末端まで広がるような時代では
一つの新語が一気に広がりますから、それを拒絶する人からの
軋轢もひとしおでしょう。

ですから「どうしたら正しいのか」と悩むのは、あまり必要ないように思います。

ですが…queserさんが話す相手が、新語を好まない人で
queserさん自身がその人に敬意を持つのなら、その人に対しては
新語を使うのは控えるべきでしょう。
逆に新語を好む相手に「それ、本来の使い方と違うよ」等と
言ってはいけません。PTOで使い分けるべきです。
結局は貴方が何か話す時に相手にどう思われたいか、を考えて話せばいいのです。
話す相手に敬意の念があるのなら、どう話せばよいのかが見えて来るはずです。

ただ、話す相手の望む用法がどちらであるかは
話してみないとハッキリとは判りません。
しかし相手への念と、自分の確たる自信を持ってさえいれば
「用法が違う」と相手に怒られた時にも、関係修復は容易かと思います。
    • good
    • 0

No.5 へのお礼:


> 「言葉は変化していくものだから今は間違っている言葉遣い
> でも時代が進むにつれ正しくなりうるから使ってもいいんじゃ
> ないか」といった考えをする人もいれば「正しい言葉遣いを
> しなければいろいろと認知の誤差が起こるからみんな今の正
> しい言葉を使っていかなければならない」と考える人もいる
> ので、どちらがより正しいと言えるのかな・・・と思って質
> 問しました。

 はあ。

 では、どちらが多いという結論が出たとして、あなたがその結論を適用しようとしているシーンを具体的に教えてください。それによって回答が変わります。

 会社の上司や取引先の経営陣と会話するシーンなのか、10年来の親友と酒を飲みながら会話するシーンなのかで、変わることは、理解できますよね。
    • good
    • 0


いますね、そう言う方。やはり若い方に多いでしょうか。
私などは明らかな違和感を感じます。
「全然大丈夫です」なんて言われると、「大丈夫じゃないことは確実です」と言われたのと同じような気持ちになります。
「全然いいよ」は、つい「無理してお世辞言わなくてもいいのに」などと感じてしまいます。

「最近の若者の(あまり若くない人も使うようになってきているようですが)言葉遣いはなっとらん」などと感じることはあっても、面倒なので「捨て置く」姿勢を保っているのですが、
「>このような言葉の変化についてどうすればいいのか非常に迷っています。」とおっしゃるからには、それなりの理由がおありのことと思います。
生徒会活動か言葉を重視する必要のあるクラブ活動などをされているようなことはないでしょうか。
ともかく、このように日本語に対して問題意識を持つことは大事なことだと思います。


ただ、この「全然+肯定」に関しては、すでに市民権を得かけているような感覚を私は持っています。
このように「一般的な支持を得る可能性のあるもの」には、それなりの理由があるはずです。
詳しいことは私にはわかりませんが、昔一時流行った言葉を借用すれば、何らかの『不確実性』によって変化していくもののように思います。
その「不確実性」を検証してみようと考えることは全く無駄な作業とは思いませんが、その流れを意図的に変えようとすることは無意味でしょうし、非常に疲れることだろうと思います。
何百年も前の日本人が使っていた言葉と、現在使っている言葉の違いはどれほどのものがあるでしょう。(相当違うだろう・・・、ぐらいしか私にはわかりませんが)
しかし、そのことに起因する重大な問題が特に発生しているとも思われません。
予想される【弊害が無ければ】放っておくのが一番です。


以前、別のカテでしたが若い女の子が今はやりの「小文字多用文」で質問したことがありました。
あっと言う間に十数件の回答が集中しましたが、質問内容に対する回答ではなく殆んどが「小文字多用」に対する非難でした。
初めの2,3人には丁寧にお礼を書いていたらしいですが、あまりのすさまじい攻撃にすぐ締め切ってしまいました。
そのカテではまだ市民権を得ていなかったということだろうと思います。

しかし、一部の女学生の間ではまだ流行っているのではないでしょうか。
いつの世か「これほど趣のある言語の使い方も、当時の人々には受け入れられず、隠れて使わざるを得ない状態だった。」などというコラムが書かれる日が来ないとは言い切れません。


白か黒か結論を出す必要のないものは、放置しておく方が賢明です。
また、あなたの為にお願いしておきますが、その曖昧さを受け止めるだけの度量を養うほうが大事です。
なぜなら、「不必要なことに力を尽くす人は、本当に必要なことには手を抜く」というのが歴然たる事実だからです。
あなたのその見事な論理性と集中力は、もっと違う方面で有意義に発揮されるべきと感じ、愚見を書き連ねてみました。
少しでも参考にしていただける部分があれば、それにまさる喜びはありません。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す