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世の中には、良いことがあれば悪い事もある。悪い事があれば、良いこともある。
この単純な法則から、ここで質疑応答をされている方々にお尋ねしたいのですが、きっとこの中には哲学の専門家の方もおられると思うのですが、ここでこうやって知識の共有を行うというのは、ある意味素晴らしい事だとは思いますが、同時にデメリットも、それぞれの人に対するメリットと同じ価値だけ生まれています。例えば、知識を吸収する事で、更なる知識を得ようとする。つまり、「能力主義」が増幅する事や、単純なところでは、人に頼りがちになって、自分の思考ではないから、自分の発言、自分の知識そのものに自信が持てなくなる事、思考力が落ちること、いつの間にか知識の波に押し流されて、勉強と同じく一つの先入観、一つの考えの下に、哲学をする羽目になる事、その他にも色々と問題があるのだと確信していますが、皆さんは「哲学」をされてますから、きっとその辺の事は熟知した上で質疑応答をされているんですよね?
あくまでも僕個人の意見ですが、でも自信を持って言う事が出来ますが、他の学問では仕方ありませんが、哲学をされている人が他の人と知識の共有を図るというのは、「意識的な選択」が伴うものです。…少なくとも、ある程度哲学が分かる人には、絶対にあることです。それを分かった上での行動なのか、それとも結局流れに乗っての行動なのか、それは分かりませんが、…これは質問ではないんですが、それを踏まえた上で、もう一度選択を見直すべきではないのか、と思います。勿論、そんな事を言う僕自身も、こうやって意見を述べて、知識を得ようとしている訳ですが。
ご意見、ご感想等ありましたら、載せてください。

A 回答 (11件中1~10件)

あなたのお礼に関しては嫌味と言い訳がちらほら「私にははっきりと」見えますが、それはさておき、あなたのほかの回答群を読ませていただき、哲学を真剣に考えている様子が伺えたので、弁証法に基づき自分の意見を止揚しに来ました。


私の発言は訂正しましょう。
まず、逆手に取っているという発言は全面的に撤回します。これはあなたのほかの解答群等を見て、私の疑いの断片が消失したからです。真剣に「存在と非存在」の質問に対し回答を成そうとしていたことに多くは依拠します。
発言に内容がないという点に関しては半分撤回いたしましょう。しかしあなたはそういわれる、あるいは感じられるような誤解を受ける発言をしています。
長々と全件に当たっている暇は無いので、例えばNo.1さんに対するあなたの発言から。
引用したほうが見やすいかとも思ったのですが、まあまだ記憶に新しいでしょうし、いちいち前の話を引き合いに出されるのもお嫌でしょう。引用がない部分に関してはそういった配慮があるとお考えください。
・・・ちょっと今のは嫌味です。
こういった切り替えしをされれば、相手が頭に来るのは目に見えています。確かに相手は哲学的に熟考した意見を述べたわけではありませんが、彼の言い分はあながち間違いだとは思えません。人間きちんと内省すればこのサイトに来る理由はたくさんあるでしょうが、表面的には皆さん来たいから来ているのは確かなのですから。安直という言葉が正しくても、思いやりのあった、「回答を受ける側としての」発言としてはいささか思慮に欠けます。嫌なら、「回答アリガトウございました」と言って返したほうがお互い後腐れもなく、あなたも嫌な再回答を受けずに済むのですから。
そのように、「あなたは発言が少しでも思慮に欠けると、正当な意見ではアレ真っ向から否定する」傾向にあります。これは人間関係上あまりいい行動とはいえません。特にこの質問に気持ちよく、多数の意見を受け入れて最良の回答を得ようとするならば、他人の意識だけではなく無意識への配慮はあっても罰は当たらないと思います。
次です。私の回答へのお礼の書き方。
まずあなたは私の回答に対して同じ質問を繰り返しています。つまり有限な決定を行なってもそこにはやっぱり良悪両方が存在しているので意味は無い、あるいは決定的な結論ではない。
しかしこの質問に関しては、それでも人間が現実という基盤の上に成り立つ存在である以上、決定をなさなければいけない、といった旨を回答の中で述べています。
この再質問は回帰的です。つまり決定は良悪両方である。しかし決定は行なわなければいけない。しかし決定は良悪両方である。しかし決定は・・・というサイクルを繰り返すことになります。
この発言に私は激しい疑問を覚えました。こんな回帰的な再質問を行なって彼は一体何がしたいのだろう?こんな質問までわざわざ立てて。
ここまででかなりの不安に襲われました。
次に解決に至らなくても緩和は可能だということを述べているにもかかわらず繰り返し、お礼の中で緩和は可能でも解決には至らないと述べています。これも回帰的です。私に一体何の返答を要求しているのかますますわかりませんでした。
その次です。身近なところからと述べています。これ自体は私も大変賛成します。われわれは文字を読む前に現実、それもわれわれの近くにある実践できる現実に参加していくべきだと私も考えているからです。体系だてたプロフィールは哲学的思索をこのサイトの回答の際に役立てようとして練ったアイデアです。「あなたには」そう見えないかもしれないが、実際これを生かして文章を書き、感謝されたケースも多々あります。そしてこれに関しても現実に還元しようという話を述べたのは私の回答を見ればわかっていただけると思っていました。
実際に考える時間を設ける、プロフィールに書き込む、などです。それにもかかわらずあなたは現実に即して書いたほうがいいと思うんですけどね。あなたはしないんですね。という旨を書いた。はっきり言ってこの辺から右のこめかみがぴくぴく言い出しました。思いやりも適切な人間に施さなければこちらが食いつぶされるだけだと感じていましたよ。
そして最後に「ま、」です。ま、別にどうでもいいですけど。どうでもいいですよね?なんちゃって。
そんなことがあったわけです。ご理解いただけましたか。
つまり私が言いたいのは、少なくとも私の見解をあなたは汲み取っていないということ。次に私の文章をきちんと読もうとしていない「可能性がある」ということです。
以上をもって発言に内容がないというのは訂正し、他人への理解が多少也ともかけていると変更させていただきます。そして、問答というのは人間が行なうものなのですから、理解が欠けているというのは問答を行なう際の前提を損ねているようなものです。いくら哲学が理性を第一とし、情緒による迷いをはさまずに真実を探求する戦士の営みだとしても、戦士も礼儀ぐらいはします。書き方が下手で、はいつまでも赦されることではありませんよ。
最後の煮え湯ですが、これは撤回しません。なぜなら、煮え湯は飲ませるほうはのませていることを理解していないものですから。
まぁこれだけだとただの嫌味ですから、あなたの発言に不快を覚えた方は結構な数いるということを理解すべきだ、と訴えておきます。
それと発言に関しては大丈夫だと思いますよ。現にNo.8さんはきちんと回答をなさっていますし。わたしはこういった理由でこの人は失礼だ、と証拠を出しましたから、その証拠を吟味して、見る人が見れば「これだけでは断言はできない」と考えるでしょう。わたしは自分がものを主張する時はこういった理由で、こういった証拠で、と述べますから、きちんとした方ならその行動に対して諌めをいただけると信頼しています。
後こんなこと一回で「訴えません」と訴訟を持ち出しているようでは、逆に疑われても仕方がありませんよ。私はこのサイトで「あなたの発言には一貫性が一切ない」と述べられ、こういう意味で言ったと述べた後も小さい部分でねちねちと嫌味を言われ、どうしても一貫性が無いことにしようとした人間にあったことがありますしね。その時は、通常の回答、反駁に対する理解と誤解の解消、やんわりと発言していただきたいという旨、無礼に対する非難と四段階は踏みました。相手を信じようと思っていましたからね。結局最後は内容に触れないで関係の無いところの揚げ足取りをされ、「結局一貫性が無いのは非難したほうでした」という落ちでしたが。いやはや。面白かったですよ。
ここまでで、あなたの落ち度と私の落ち度があいまって論争が起きたことはご理解いただけたでしょう。哲学を取り扱うのですからいちいちどちらのほうが多かったなどということを発言して本質的な議論に割く時間を無駄にするのは懸命ではないことは、あなたならわかると信じています。
さて。本題のほうへ。
と思ったのですが、哲学者として大事なスタンス、「自分の見解を立てるのが真の哲学者」という意見を述べられてしまいましたから、正直言うことがあまり。
まぁあえて言うなら、皆一人ひとり自分の地盤を持って意見を述べているのです。ですからただ定立に対し否定すれば止揚されるものではなく、まず定立の肯定をすることが大切だということを、あなたの反定立的な発言方法(つまり相手のデメリットのみ述べ、メリットに一切触れない)に対抗して述べておきたいということです。
ここからは、もしお気に召されないなら読まなくて結構ですが、あなたの哲学としての対話方法に、若干アドバイスがありますので、もしよければでいいですのでお聞き願えますか。
まず、相手の発言に一つでも正しい部分があったらそれをまず肯定していただきたい。これをされるだけで、相手は対話を成そうとしていると確信してくれます。嫌味も減ると思います。
次に、自分が未熟だと感じるなら、先に「駆け出しです。よろしく。」など、短い文章で結構ですので、「必ず」いれていただきたい。常に回答する人間は初対面の人間だからです。あなたをまだ知らない人だからです。
そして、相手に意図が伝わってないなと思ったら、もっと自分の考えを掘り下げて補足することに心がけていただきたい。あなたの考えを、相手は一度わかったつもりで回答します。ですからそれであなたが納得できないなら、それはあなたの考えが伝わっていないということです。どちらも理解不足なのですが、あなたのほうからも歩み寄ってみるということを。やっているのかもしれません。もう少しがんばってみてください。
最後ですが、考えるということは果たして本当に感情を排して行なうことなのでしょうか。私は違うと思います。良くも知らない面接官と冷静に話し合いをしている時よりも、気の知れた友人と多少怒りながらも本音で話したほうが有益な結論が出ることもあります。それは人間の思考は人間の原始的な目的達成のためにも存在しえることが関係しているのではないでしょうか。最近は情動系と言って、感情を入れないと記憶というのはしにくいという考えも現れています。だとすれば、「回答ありがとう」や「ごめんなさい」のひとことをいれこむことの重要性にもお気づきになられるのではないでしょうか。
以上です。悪かったね。じゃまた。
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>でも、これを第一とする「考え方」が生まれ(例えば「社会」ですよね。

)、それ以外のものを劣等だと考えるようになると、そこに人間の「善悪」「罪」なんかが生まれてきます。…えー、こんな説明ですが、良いですか?
なぜ劣等だと考えるんですか。私の意見を拡張するなら「第一」「劣等」「善悪」「罪」は生まれるものではなく人間が勝手に作りだしたとなると思うんですが。

この回答への補足

単純な話です。
あなたは、人間ですか?
それとも、人間ではありませんか?

補足日時:2006/04/13 19:29
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とおりすがりのものですが、



「世の中には、良いことがあれば悪い事もある。悪い事があれば、良いこともある。」(※)というのは「世の中のあらゆることは良い側面と悪い側面をもっている」という法則ではないと思います。※は、世の中の事柄は見方ひとつで異なる受け取り方ができるよということだと思いますが、いかがでしょうか?「世の中には、良いことがあれば悪い事もある。悪い事があれば、良いこともある。ひょっとすると、良いとも悪いともいえないこともあるし、さらには、ある人にとって悪いことでも、その人の意識が変われば、とっても良いことになるかもしれないし、・・・などなど・・・」少なくとも物事を普通に考えるということは、言葉に振り回されたり、こういった簡単な二分法にはまって物事を考えないことからはじまるのではないでしょうか?(たとえば、質問者さんがなんの前提もなく悪い面にあげられている「能力主義」ということばは、マスコミがネガティブな文脈の中で使い続けることによって、「能力主義」=悪い、というアカのついた言葉になっているように思います。こういったアカ=思考停止をそぎ落とすのが、考える、考え続けるということだと思います。)

普通に物事を考えるならば、良い側面と悪い側面をもった物事があったときには、良い側面を伸ばし、悪い側面減らす工夫を考えるはずです(ここでの断定は哲学的な意味ではなく、人として世の中を良くするよう生きるべきだという倫理的な意味です)。悪い側面の影響が甚大で回避不能な場合はその元を排除する必要があると思いますが、そうでなければ、他の方法で回避することを考えてもよいのではないかと思います。問題が「自信が持てなくなる事、思考力が落ちること、いつの間にか知識の波に押し流されて、勉強と同じく一つの先入観、一つの考えの下に、哲学をする羽目になる事」であるとすれば、回答の受け取られ方を工夫すればよいわけですから、そのようなメッセージを回答に盛り込めばよいはずです。

そもそも哲学する人の態度が問題だというのでしょうが、おそらく、以下の2点でみなさ対応されているのではないでしょうか?

(1)受け取る側も普通に物事を考えることを前提にして、質問や回答をしている。(論争上等!っていうことだと思います)

(2)そもそも問題があるのであれば、哲学する人が発信をやめるのではなく、その問題となることを回避するように振舞えばよい。

(1)については、小学校のときから、情報化社会に生きている私たちは、新聞記事ですら、無批判な受け取り方をしてはいけない
と習っていることですし、まあ、質問コーナーといっても哲学のカテゴリーはどちらかというと、議論コーナーなので、これを前提とする態度はおかしくないと思います。

(2)については、(1)の論争上等!っていう場合でない場面=一般の人に語りかける場面では、哲学する多くの人がその考えの背景(多くは歴史的経緯)を説明し、いろいろな複数の考え方を並列に述べた上で、問題点を提示し、自分の考えを述べるというような形で、質問者さんの考えているような弊害を排除しようとしたりしているのであはありませんか?卑近な場面では、この質問コーナーにおいても、できるだけひとつの考え方であることを強調しつつ皆さん回答したり、知識を前提としない平易な言い回しや例を使って回答しようとしているのではないでしょうか?

というわけで、私自身は哲学自体よくわからないのですが、身近な日常的な観点から以上のようにアドバイスさせていただきました。
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こんにちは。


私は哲学者ではありません。

ここは問いと答えのコミュニティーであり、
哲学っぽい方面の話題に関して、
自由に問いを発し、見解を提示しあう場なのだと思います。
問う、答える、さらに問う、答える、
そのプロセスのなかで、ある問題に関して、
より明瞭に、より深く、より体系的に物事が見えるようになったりします。
そこで得られたのは、「理解」であり、それは「知識」とは異なるものです。
「理解」は単なる情報のインプットではなく、
脳の中で、以前からあった情報の配列・構成が変わったということです。

ある図形に補助線を引くのです。
そうすると、急にその問題の構成が分かり、ぱっと晴れるのです。
現実の問題はもう少し複雑ですから、
いろいろな補助線の引き方があります。
こう引いたらどうかな?
いやいやここまで伸ばしてごらんよ、
などと言い合っているのがこの場だと思うのです。
何しろ、一つの正解のない問題について話し合っているのです。
正しい整理の仕方があって整理したらそれで終わりというものではありません。
問いは生涯つづき、答えは姿を変えつつ発展します。
豊かになり、あるいはシンプルになり、変遷していきますが、
問いは残り、答えを促し続けます。
そこで知識とは何でしょう。
私はこの場で知識の共有など求めていません。
でも、時々、驚くような新しい知識にも出会いますが。
それは目的ではありません。

最後に、文章を書くときは、難しい単語を使わずに、
あなた自身が意味の良く分かっているふつうの単語を使ってください。
あまりにも意味不明の使い方の単語が多く、悪文の見本のようになっています。

それは「質疑応答の本質的意味」以前の問題
「質疑応答の基本中の基本」です。
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 まずあなたのご発言に関して・・・


 
 「きっとこの中には哲学の専門家の知識を吸収する事で、更なる知識を得ようとすること」=「能力主義」が増幅する事

 これはイコールで結んでしまうのは、軽率な印象を受けます。「つまり」は、言い換えですので。能力主義という言葉は、一般的な使い方がありますので、ちょっと不正確です。

 単純なところでは、人に頼りがちになって、自分の思考ではないから、自分の発言、自分の知識そのものに自信が持てなくなる事、思考力が落ちること、いつの間にか知識の波に押し流されて、勉強と同じく一つの先入観、一つの考えの下に、哲学をする羽目になる事、

 これを問題だととらえてらっしゃるようですが、本当に問題でしょうか?知の営みは、自由に対話すること、討論することから育まれてきましたし、これからもそうです。 人に頼りがちというのは両面あります。1つは自分が頼るに値するべき議論だと認めること。もう1つは、あなたの意味することだと思いますが、押し流されてしまうことですね。
 基本的に押し流される人は、ロジックの扱いをそもそもわかっていない人のことです。波に押し流される人、1つの先入観にとらわれる人もすべてそうです。
 そういう人々は、哲学にかぎらず、紙面の情報にすぐにとらわれるのと同様、基本的に物事を考えることができません。哲学のせいでそうなるのではなく、その人の「態度」にかかっています。

 何か1つの意見や思想に依存すること自体は、間違いではなく、むしろ当たり前の事実です。わたしたちが高みに立って、神のごとく語ることも無理ですし、完全なる「客観性」などありえません。それはおそらく分かっていらっしゃるはずです。

 ではどうするのか。それは、知識人としてあるべき態度をとることです。つまり、あらかじめ自らの立場を明示するのです。そして、自らの立場に欠如した視点を理解しており、またそれを自ら言ってのける人は賞賛に値します。

 論述のプロセスにおいては、きちんと1つの論点に対して、包括的にとらえられていない人は、馬鹿とみなされるのが現代社会です。ある論点に対する意見が、AとBとCがあるとしましょう。
 ここで論述能力の低い人は、いきなりAが正しい、すばらしい、これが大事だ!と言って見せます。BやCの見解にはほとんど触れないのが、このタイプの人です。

 われわれのとるべき態度は、自分がいかなる見解の持ち主であっても、ABCという見解が存在するかぎり、それを提示し、いったんそれぞれの言い分を考察することです。その上で、なおもいずれかの見解に立つのです。
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No1です。



ん~。哲学と質問との関係がわからない。
「哲学やっててもやってなくても変わんないですよね」で?なにを伝えたい?

背景を別にして、質問はなにか?を端的に説明できますか?

難しそうなことを言うのが好きな人なんだと思ったから、難しそうな言い回しをすることは、質疑応答という場ではレベルが低いと言うことをちょっと伝えたかったんだな。「ご意見、ご感想」がほしかったっぽいので(笑)

ん~ちょっと残念。
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この回答へのお礼

何となく、気付いてましたが敢えて書かせていただきました。(見栄張ってるわけじゃないですよ。)
では、改めて。
ご意見、ご感想等、お寄せ下さいまして、有難うございました。
これで、どうでしょう。
ご回答有難うございました。

お礼日時:2006/03/11 01:31

No.2の者です。



>哲学者は、ある意味「自らの絶対化」を行って、社会一般の事実を「見下ろしている」という風にも捉えられるのですね。

別な言い方をしますと、「社会一般の事実」から一歩さがって誰にでも言える陳腐なことを<おしゃべり>しているのがデリダを代表する哲学者です。

>(略)そのうち自分にも当てはめてみたくなるでしょうし、「質疑応答の本質的意味」なんてのは、言うまでもなく哲学でしょうから、そういう意味では、結局哲学者も自分には甘いんですね。

もちろんコレージュ・ド・フランス哲学主任教授のジャック・ブーブレスのように<客観化の客観化>をさらに客観化する哲学者はいます。

しかし<主体の客観化>と<客観化の客観化>を始めて提唱したのは、哲学者ではなく、社会学者ピエール・ブルデューであったことは記憶に留めておいていいでしょう。

私としては、どんなに権威主義的と言われても、最高度の哲学を切り開いていく哲学者に惹かれます。
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この回答へのお礼

提唱されたというのが、何となくですが納得できません…。
今まで生きてきて、色んな知識や知恵を教えられてきましたが、それらの本質を考えるようになったのは、人に言われたからでもなく、哲学的な本を読んだからでもなく、悩みに対する答えの資料というか、その為に、自発的に僕が行ってきた行為です。
それを、何だか否定されたような気がして、納得できませんでした。
でも、多分、そういう風に「名付けた」だけなのが、そのピエールさんなんですよね。

お礼日時:2006/03/11 00:43

確かにそういった欠点というのは存在すると思います。

しかし、それは他の行動においてもいえることなのではないでしょうか。
そしてわれわれは、そういったデメリットをメリットとともに抱えながらも、何とか正解となる窓口を探し続ける者ではないでしょうか。
冒険なくして、有用な知識(あるいは事柄)も得られえないと思います。
この問題を解決までには至らなくとも、緩和する方法としては、デメリットにではどう対応するかということが考えられます。
例えば、質問者様がおっしゃったデメリットに対抗するなら、
能力主義となりがちなこのサイトのあり方を肝に銘じて、知識より大事な物に関しても大事にしていくように、自分のプロフィールに宣誓する。「能力がない人間に対してもやさしく説明する」などと。
人に頼りがちなら、そこに「一日一問」と書いておけば、気をつけるのではないでしょうか。思考力低下がきになるなら、「聞いた質問の回答は自分で確認の証拠を取る」ようにすれば、自分でも考えるようになります。自分の知識に自信がないなら、「自分が何を知りえるのか」考える時間を取ってみてはいかがでしょうか。パソコンに自分の意見を打つようにしてもいいと思います。先入観がきになるなら、「自分の考えの基盤と理念」を明確に打ち出しておけば、どこで自分が先入観を持ち出しているかわかるはずです。他人の意見も借りれば客観的な知識が得られるでしょう。
トリアエズこんなところでしょうか。「意識的な選択」というのが具体的にどういうことを述べているか、私の読解力では理解しかねますが、前半部分に関してはある程度有益な提案が出せたのではないかと思っています。

この回答への補足

あー、いえ、まあそういうことでもあるのですが…。
一つの考え方の下に行われる事実というのは、無数にあります。つまり、可能性は無限です。無限にある「動作」「事実」に対して、それに対抗する手段として、その行動を規制するというのは、それだけには意味があっても、結局はまたほかのデメリットも生むでしょうし、規制という有限な発想では、「解決」というのはそもそも不可能ですよね。
僕個人の意見としては、存在とか愛とか無限とか、そんなモノの話よりも、こういった身近なことから、自分の考えで分析していく事の方が、この世で生きるに当たっては有効なのではないかと思います。
ま、先程の理論で「メリットの価値=デメリットの価値」ですから、「有益」なんてものは、ないですがね。

補足日時:2006/03/10 23:31
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世の中には本当に、良いこと・悪いことがあるのでしょうか。

それは人類・個人などの主観的な見方であって事象そのものには善悪の属性は存在しないと思うのですが。

この回答への補足

勿論です。要は、「事実」「事象」を解釈する人間自身の「精神」における話、と捉えるべきなんでしょうね。
あなたの意見は、何かの考え方の下にあるようには聞こえませんが、でも仮にその意見を拡張してみましょう。例えば、「学問が発達すればするほど、物質的に便利な社会になる」。あなたの意見ではこの必然的な「事実」「事象」に「良いも悪いもない」んですよね。確かに、それは僕も同感です。でも、これを第一とする「考え方」が生まれ(例えば「社会」ですよね。)、それ以外のものを劣等だと考えるようになると、そこに人間の「善悪」「罪」なんかが生まれてきます。…えー、こんな説明ですが、良いですか?

補足日時:2006/03/10 23:38
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哲学者は哲学については熟知していますが、哲学者が社会で何をしているかについては無知です。

つまり客観化する主体(哲学者)の客観化と、客観化(哲学)の客観化を哲学者はなし得ていません。

質問者様の問題提起は、このことに対応しているのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

なるほど。
哲学者は、ある意味「自らの絶対化」を行って、社会一般の事実を「見下ろしている」という風にも捉えられるのですね。
でも「人を分析し、比較し、区別する」事だけに専念しても、そのうち自分にも当てはめてみたくなるでしょうし、「質疑応答の本質的意味」なんてのは、言うまでもなく哲学でしょうから、そういう意味では、結局哲学者も自分には甘いんですね。
何だか、言い方がきたなくなってしまいました。すみません。

お礼日時:2006/03/10 23:29

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