痔になりやすい生活習慣とは?

日本の仏教の特色として「山川草木悉皆成仏」という思想があるとよく聞くのですが、「山川草木悉皆成仏」は仏典のどこに載っているのでしょうか?仏典に載っていないとしたら、一体誰が初めて言い出しのでしょうか?色々と調べてみましたが判りません。
 どなたかご存知の方がいらっしゃったら教えてください。

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A 回答 (3件)

こんにちは。



 概説書を読んだ程度ですが・・・(しかも結局わからないのですが。)

 仏典には出てこないと思います。

 大乗涅槃経に「一切衆生悉有仏性」と説かれていますが、インドでは植物や無生物は「衆生」の中に入らないので、この場合の「衆生」に「山川草木」は含まれないと考えられます。
 中国では、植物が成仏するかどうかが意見が分かれたようです。

 すでにお調べのようですので、重複すると思いますが・・・
 大乗涅槃経などの考え方(←如来蔵思想)と日本的なアニミズム的精神風土は、極めて容易に結びついていくであろうことは想像できます。(事実そうなったわけです。)
 それを密教の世界観が補強し、本覚思想の強烈な現世肯定思想に後押しされたこともあり、日本では広く受け入れられたのだ、というのが流れになると思います。


 9世紀の天台宗の高僧安然が「草木国土悉皆成仏」と記しているのが、同種の表現で早いもののようです。
 ただ、それより古い弘法大師空海の書物に「草木また成ず、いかにいわんや有情をや」という一節があり、「そういう考え方」という点では、かなり古く、同種の表現は他にもあるかもしれません。

 「草木国土」と「山川草木」は意味内容としては同じといってよいでしょうけど・・・誰が「山川草木」として言い出したのかは、わからないです。すみません。では。
 
 

 
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この回答へのお礼

特に仏典に記されているわけではないということですか。天台宗から出た言葉のようですね。参考になりました。ありがとうございます。

お礼日時:2006/05/08 19:51

以前似た様な質問が・・・



参考URL:http://oshiete.eibi.co.jp/kotaeru.php3?q=2041831
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この回答へのお礼

ありがとうございました。参考になりました

お礼日時:2006/05/08 19:49

釈迦が菩提樹のもとで瞑想して21日目、


開悟の折に言った悟りの言葉と伝えられるそうです。

この言葉を日本の仏教の思想として取り入れたのは
天台宗を日本に伝えた最澄で、彼の確立した
「天台本覚思想」の根本を為す思想となっています。

また、最澄は比叡山延暦寺を開きこの教えを広めましたが、
日本の仏教教育の中心であった延暦寺からは後に
浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗などの
新しい宗旨を唱える人たちが輩出され、
この「山川草木悉皆成仏」の思想も受け継がれていったと考えられます。
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この回答へのお礼

天台本覚思想の一部になるわけですか。ありがとうございます

お礼日時:2006/05/08 19:47

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Q山川草木悉皆成仏とは

仏教では山川草木悉皆成仏と説いていますが
これが難解で分かりません。

感情のあるものを有情、そうでないものを非情と
捉えて、人は有情ではあるが髪とか爪など感情の
ないところの非情と一体になっている。
人に仏性があるのは、有情非情ともに仏性がある
ことである。だから非情の山川草木にも仏性が
ある。こういうことを教わりましたが、その時は
なるほどそうなんだと思いましたが、いま思うと
有情非情が一体だからではないのかな。非情のみ
の山川草木になぜ仏性があるのだろう。

考えていますが答えが出ません。
ご解説ご回答をお願いいたします

Aベストアンサー

草木成仏という思想は、日本ではポピュラーですが、伝統的な仏教思想のうえからは少し逸脱して主観的な感覚にかたむいた部分があります。そこのあたりに少し落ち着きの悪さというか、論理の飛躍を感じられるのではないか、と思います。

遠回りのようですが、最初に日本での草木成仏の見解を整理しておきます。
まず、親鸞は『唯信鈔文意』のなかで、「仏性すなはち如来なり。この如来微塵世界にみちみちてまします。すなはち、一切群生海のこころにみちたまえるなり。草木国土ことごとくみな成仏すととけり」と書いています。仏性が満ちているこの世界では、草木も成仏するはずだ、ということです。

また、空海はわが国で最初に草木成仏説を唱えた人物ですが、『吽字義』のなかで、「草木也成。何況有情」として、はっきりと草木でも成仏する、と名言しました。草木ですら成仏するのだから、心のある生きものが成仏しないわけはない、というわけです。

ほかにも、最澄は「木石仏性」といい、非情にも仏性があることを強調しましたし、道元は草木や瓦礫を含めたこの世界一切をまるごと仏性の表れと表現しています。

ただ、ここで仏教の伝統的な教学を確認しておいたほうがいいのではないか、と思います。というのは、一応正統とみなされる教学では、「仏性があること」と「成仏すること」は峻別して考えられていて、草木成仏は、いわばこのセオリーを無視ないし超越して、仏性をイコール成仏としてみなす見解にたっているからです。

少し説明します。
初めて「仏性」という言葉を使ったのは大乗の涅槃経で、「一切衆生 悉有仏性」という言葉はよく知られています。ここにおいて仏教の歴史上はじめて、すべての衆生には仏性がある、とうたわれたわけです。

しかし、この言葉にも制約があるのです。ひとつは、「衆生」というものの中身が、もっぱら「(心があると当時思われた)動物や昆虫のたぐい」だけであって、植物はもちろん、無機物は想定されていないことです。これは考えてみればあたり前のことで、仏性というもの自体が、人々を仏道修行へと誘引する目的で説かれたのですから、涅槃経では「修行しないと仏性は見えない」だとか、「悟りを求める気持ちがないと仏性が見えない」という立場をとっているのです。当然、仏性は心を持っている動物について限定的に語られることになるわけです。

意外と知られていませんが、涅槃経の終わり近くでは、「一切衆生即仏性」とも説かれます。「縁起を見る者は法を見る。法を見る者は仏を見る。この仏とは仏性である。なぜなら、仏たちは仏性を本性としているからだ」(獅子吼菩薩品)とあって、仏性とは実は法のことで、法というのはすなわち縁起の理法のことである。とすれば、縁起の表れに他ならない存在である衆生は、実はそのまま仏性なのだ、と論が進められるわけです。

ただ、「衆生がそのまま仏性である」といっても、先に書いたように涅槃経の目的は衆生を仏道にいざなうことですから、その仏性はやはり八正道や六波羅蜜といった行をおこなわないと実感されない、という立場が強調されていました。つまり、仏性はあくまでも修行の結果として確認されることにすぎないし、仏性と成仏もあくまでも切り離して考えられていたわけです。

しかし、観念的な純粋化というのは思考のひとつの常であって、仏性は衆生だけについて説かれるのでなく、やがて、縁起そのものの表れである現象世界の一切が、縁起ゆえに仏性である、と観念されるようになっていきます。草木も山も川も石ころも、すべて仏性であるというわけです。
最澄(草木の仏性は力説したものの、その成仏は語っていない)や道元(世界はそのまま仏性だとしながらも草木の成仏までは書いていない)は、あくまで修行者のひとりとして、このような世界観を表現したと言えるでしょう。

詳説はしませんが、やがてさらに、仏性とは修行や菩提心と関係なしにそのまま成仏である、と無条件に肯定されるようになり、この世界の存在はすべてそのままで円満具足した仏である、世界は本来過不足なく悟りのなかにある、という感覚を生みます。これが草木成仏思想の背景です。

こうやって眺めてみると、草木も成仏するという見解は、突き放して言えば認知上の観念的逸脱である、という言い方もできるかもしれません。「本来さとっている」という思想では、修行の価値を位置づけることがむずかしくなりますから、いきおい抽象的な言説に終始しがちで、そのあたりの主観性がわかりにくさと裏腹になっているのでしょう。
(逆に、現代のわが国で「草木成仏」がそれほど反発をまねかずに一定程度受け入れられるのは、曖昧な言説のままホンワカとした自然観に包まれてしまっているから、なのですが)

ただもちろん、主観的であることは必ずしも否定されるべきことではありません。宗教は結局、個々人がどのように目の前の世界を認識するか、という問題に帰着するのだから、です。

答えになっていませんけれども、涅槃経について書いたように、瑣末に気をとられすぎるとその本意を見失ってしまいがちです。「草木が成仏する(している)」という世界認識が、仏教という大枠のなかでどのようなポジションにあるのか、という点を考慮しながら、それがどのような体験を織り込んで成り立っているものか、自分の体でもって追体験しようとする努力をする、ということが大事なのではないかな、という気がします。涅槃経が修行を重視していることの重要性は、強調してもしすぎることはない、と思うからです。以上、僭越ながら・・・。

草木成仏という思想は、日本ではポピュラーですが、伝統的な仏教思想のうえからは少し逸脱して主観的な感覚にかたむいた部分があります。そこのあたりに少し落ち着きの悪さというか、論理の飛躍を感じられるのではないか、と思います。

遠回りのようですが、最初に日本での草木成仏の見解を整理しておきます。
まず、親鸞は『唯信鈔文意』のなかで、「仏性すなはち如来なり。この如来微塵世界にみちみちてまします。すなはち、一切群生海のこころにみちたまえるなり。草木国土ことごとくみな成仏すととけり」...続きを読む

Q何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに

西行の短歌、
・何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる
に詠まれる「かたじけなさ」ついて、教えてください。

この歌は西行が伊勢神宮にお参りした時の歌であり、神宮の神々しい佇まいに対して、胸打たれた気持ちを詠んだと言われています。状況を推測すると、西行が真言宗の僧侶であり、神道のことは知らないという意味で「しらねども」だが、神道の神も十分に感じ取って涙した、ということでしょう。

しかしお坊さんが神道に「しらねども」と言いつつ感動するとは、奇妙なことです。肯定的に見れば、宗教という壁を越えて、聖性が普遍的であると柔軟に捉えたと言えるでしょう。一方、否定的に見れば、節操がないとも言えます。さて、この短歌は何を言わんとしているのでしょうか。
この問題は「かたじけなさ」という語の解釈にかかっていると見えます。この語は現代では使われなくなりつつありますが、この語の持つ思想を理解すれば、西行の態度をもう少しはっきりと推測することができないでしょうか。つまり彼がどの点で神道を受け止め、どの点で仏教と一線を画したかがわからないでしょうか。

文学からでも言語からでも考察できる問いですが、短歌を好例とする日本人の「かたじけない」という思想に特に興味があるので、哲学カテとしました。

西行の短歌、
・何事のおはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる
に詠まれる「かたじけなさ」ついて、教えてください。

この歌は西行が伊勢神宮にお参りした時の歌であり、神宮の神々しい佇まいに対して、胸打たれた気持ちを詠んだと言われています。状況を推測すると、西行が真言宗の僧侶であり、神道のことは知らないという意味で「しらねども」だが、神道の神も十分に感じ取って涙した、ということでしょう。

しかしお坊さんが神道に「しらねども」と言いつつ感動するとは、奇妙なことです。肯定...続きを読む

Aベストアンサー

私自身も教えてもらう身なのですが、参考になればと思い回答致します。

ご存知かもしれませんが、「本地垂迹説」なるものがあります。
日本古来の神道は、仏教という宇宙の真理が日本に現れた一つの表現なのではないか?(今は逆の感がありますが)、という話しです。

http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/saigyo0/ss051.htm

>   高野山の山を住みうかれて後、伊勢国二見浦の
>   山寺に侍りけるに、太神宮の御山をば神路山と
>   もうす。大日如来の御垂迹と思ひてよみ侍りける
>
>     深く入りて神路の奥を尋ぬれば
>        又うへもなき峰の松風
>
>
>   高野の山に住んでいたが、そこに住むのも嫌に
>   なって、さすらいの心がおこり、伊勢の国の
>   二見の山寺にいた。大神宮の御山を神路山と
>   いう。伊勢の皇大神宮の天照大神は大日如来
>   の御垂迹だということを思って詠んだ歌
>
>    大日如来の本地垂迹のあとを思いつつ、
>    神路山の奥深く入ると、この上もなく尊い、
>    又微妙な神韻を伝える峰の松風が吹くよ
>
>
>   この歌から推察できるように、西行は僧であり
>  ながら神宮参詣をしている。またこの時代の思想的
>  特色であった天照大神を密教の本尊大日如来の垂迹
>  とする「本地垂迹」思想がみられる。

また、
>   さかきばに心をかけむゆふしでて
>       おもへば神もほとけなりけり
との句より、神様も仏様も一緒なんだなあ、と言っています。

以下は私の推測です。
私が想像するに、この当時は元々の宗教である神道と外来の仏教の混交が起きており、それに対してどちらも正しい事を言っているから、どう整合性をあわせようかと模索している途中であったように思えます。
その思考実験の結果、本地垂迹である西行の一句が出来上がったのでしょう。
神道も仏教も、「向こうの宗教が悪い、俺の方に従え! 」なんて明確に言わなかったんでしょうね。「まあ、あちらさんはあちらさんだから」のように解釈の幅を持たせたのでしょう。「はっきりしないが衝突を避ける」という良くも悪くも日本人らしい選択です。

さて、この中の「かたじけなさ」は神様のような存在から受ける超越的な慈悲を指しているように思われます。
人間は極限状態において、理性や論理的理解よりも信仰や直感的感覚を優先します。
よって、既存の宗教の枠組みにとらわれる事なく、「神様とか真理のような存在」という共通認識を規定した後に、そこから発せられる慈悲を言語化したのが西行の「かたじけなさ」であったのではないでしょうか。

もう少し言いますと、「鳩の迷信行動」に代表されるように、人間は世界の中での事象に偶然に遭遇しても、それが発生したのはロジカルな理解ではなく、自分の行いや、あるいは神様などの超越的存在がお怒りになった事が原因で必然的に起こったのだという主観的観測から逃れる事はできません。

鳩の迷信行動
http://www.oak.dti.ne.jp/~xkana/psycho/intro/intro_47/index.html

例えば、皆既日食が発生した場合、「天体がこのような動きになっているから」とは考えずに「神がお怒りになられているから」といった、ロジカルに説明し得ない事象に対しては信仰を優先するクセがあると思われます。
現代でも、今回の東北地方太平洋沖地震で「神が起こした」と言う発言が海外であったように、個人の心情の中でプレートテクニクスの理解よりも信仰を優先した結果このような発言に結びついたのだと思われます。

これを踏まえて、西行のこのうたの私の解釈としては、「何だかよくわからない(ロジカルに説明できない)けれども、直感的に何か超越的なものがあるのが分かる。直感的に超越的な存在がいるのが分かる。更に言えば、こちらからは何にもしていないのに、そこから無条件に慈悲が出てくるのが分かる。世の中いろいろひどい事があるけれども、慈悲が与えられるのに対して、こちらが何にもしていないのは申し訳なく、しかし誠にありがたい。」と言っているのだと思っています。
件の「かたじけない」の心情は「やっぱりこちらからは何にも出せそうにないけれども、礼を欠いてしまうので御礼だけは言っておきます、申し訳ない、ありがとう」という心情を踏まえた礼の挨拶と捉えています。

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余談ですが、現在の日本の神道は、天皇家にキリスト教が入り込んでいる状態となっております。現状がどうなっているのか、これも日本人らしく吸収してしまうのかという事は非常に興味深い事ですが、推移は見守って行きたいと思っています。

※上記の「理性や論理的理解よりも信仰や直感的感覚を優先する」件についてはポーランドのテレビ作品「デカローグ」の第一話が理解を深めるのに役立ちます。信仰と理性、どちらを優先すべきなのか・・・。機会があれば見てみて下さい(図書館に言えば取り寄せてくれるかもしれません。昔WOWOWで放送していましたのでWOWOW再放送orCSで放送していれば見る事をお薦めします)。
http://www.amazon.co.jp/dp/B0009OA5IE

私自身も教えてもらう身なのですが、参考になればと思い回答致します。

ご存知かもしれませんが、「本地垂迹説」なるものがあります。
日本古来の神道は、仏教という宇宙の真理が日本に現れた一つの表現なのではないか?(今は逆の感がありますが)、という話しです。

http://www.d4.dion.ne.jp/~happyjr/saigyo0/ss051.htm

>   高野山の山を住みうかれて後、伊勢国二見浦の
>   山寺に侍りけるに、太神宮の御山をば神路山と
>   もうす。大日如来の御垂迹と思ひてよみ侍りける
>
>     深く入りて...続きを読む


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