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カテ違いならごめんなさい。
タイトルとおりですが、
江戸時代の町人の家の屋根は、瓦葺ですか?
一般庶民の家の屋根が、何で葺いていたのかの歴史を知りたくての質問です。
時代をさかのぼり教えていただけると嬉しいです。
宜しくお願いします

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A 回答 (5件)

初期は板葺きでその上に桟木を渡し重しに石を置いていました。



江戸は風が強く、火災が多かったので経済力のある豪商、武家屋敷などが次第に瓦葺きに移行しました。
財貨などを守るため土蔵という塗り籠めの建物はもちろん瓦葺きでした。

中期たしか5代将軍の時代に瓦葺きを奨励する政令が出ています。
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江戸中期は皆様の下記の回答のとおり板葺き屋根でした。


この板葺き屋根が原因で火災が発生したら周りを焼き尽くす大火事に幾度無く悩まされました。

この火事に悩まされた八代目将軍吉宗より大岡忠相(大岡越前守)へ相談を持ちかけられました。
大岡越前守は「町火消48組(いろは組)」を作り、防火に優れた蔵造り、塗り屋、瓦屋根、蛎殻屋根を奨励しました。

余談ですが、当時の火消しは水をかけるのではなく、燃えてる家そのものを破壊し、類焼を防ぎました。

参考URL:http://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/newsection …
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瓦は高価なものですから、ある日一斉にということではありませんでした。


大火を経験するごとに、瓦葺きの家が増えていったと言うことだと思います。
豪商の家や、武家の家は瓦葺きだったと思います。

町家と言っても、中小の店舗併用住宅もあれば、弥次さん喜多さんの借家もありました。
金や財産がある家から順に瓦化していったということでしょう。
戦後でもトタン葺き→金属板葺き→着色スレート葺きというように、低価格住宅は未だに瓦葺きではありません。

参考URL:http://www.ishino.jp/SIRYOUKAN/jidai/edo.html
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板葺きです。


火災が増えてきたので、延焼防止という意味で瓦葺きが増えてきます。

ちなみに歴史的な大都市の周辺は、現在はほとんど砂漠化しています。トルコもパキスタンも中国もエジプトも。
金属製の道具をつくるためだけでなく、レンガや瓦など建材をつくるための熱源として森を使いつぶしたからと言われています。

それくらい昔は焼いて建材を作るというのは高級な仕事でした。


ちなみに、神社や数寄屋建築などで今でも檜の皮や、檜の板で葺いている建物はあります。風情があっていいですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やはり板葺きでしたか?それで
>延焼防止という意味で瓦葺きが増えてき
たのはいつごろからなのでしょう?豪商の家は瓦葺と考えていいのでしょうか?

お礼日時:2006/05/20 13:18

>町人の家の屋根は、瓦葺ですか?



どっちも(+地域差が大きい)
http://www.wsedo.co.jp/edo_tatemono.htm
http://kyoiku.city.urayasu.chiba.jp/hakubutukan/ …
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の住宅
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日本木造住宅産業協会のHPの「木心エッセイ」の中の「すまいの発明王」に記事があります。
http://www.mokujukyo.or.jp/index_user.html

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http://www7.ocn.ne.jp/~kita3079/nanao-no-rekishitekimachinami.htm

朝日選書の小泉和子著『道具が語る生活史』に少し載っています。

日本の木造住宅に板ガラスを初めて用いた記録は、元禄時代、伊達綱宗が江戸品川の居宅の障子に高価な輸入品の板ガラスをはめ込んだのが最初といわれています。

日本木造住宅産業協会のHPの「木心エッセイ」の中の「すまいの発明王」に記事があります。
http://www.mokujukyo.or.jp/index_user.html

幕末に欧米人が住んだ洋館には、ガラス窓が入っていますが、日本家屋であっても、豪勢な商人の居宅にも輸入品のガラスを使った建具が使用されていたと思います。

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Aベストアンサー

>本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

士農工商のうち、農工商については通行手形なしで旅をした人もいるくらいで、回避方法はいくらでもあったようです。
例えば、厳しくて有名な箱根の関所の場合、関所近くの間道にも小さな番所が設けられていたり、森の中に鳴子(ヒモに触れると音が出る)を張ったりしていました。
が、箱根自体を通らず、北の方から迂回するルートはあり、そこの関所をこっそり抜ける道を案内する仕組みはあったそうです。
もっとも、こんな仕組みができるようになった頃には、関所自体、あまり取締が厳しくなくなっていた現実もあるようです。

でも、士分はそうはいかない。
入り鉄砲・出女は武士を対象にした規制ですが、例えば(こんな例はないと思いますが)、大名の妻が江戸から国へ帰った場合、関所を通ったという記録が残っていないと後が大変です。
幕府と戦をするつもりがあると見られてもしょうがない。

身分に関係なく、江戸を出る時は許可を得る必要がありますし、
大名の場合は大目付によって妻子が江戸藩邸にいるかどうかチェックされていましたので、入り鉄砲・出女は関所だけがチェック機関だったわけではないのです。

ただし、幕末になると妻子を国に返してもかまわない、ということになり、出女については意味がなくなっています。
討幕運動が一気に盛り上がれた要因の1つかもしれません。

>本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

士農工商のうち、農工商については通行手形なしで旅をした人もいるくらいで、回避方法はいくらでもあったようです。
例えば、厳しくて有名な箱根の関所の場合、関所近くの間道にも小さな番所が設けられていたり、森の中に鳴子(ヒモに触れると音が出る)を張ったりしていました。
が、箱根自体を通らず、北の方から迂回するルートはあり、そこの関所をこっそり抜ける道を案内する仕組みはあったそうです。
もっとも、こんな仕組みができるよう...続きを読む

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 多分、建具金物が高かったからではないでしょうか。
 引き戸は、引き手以外金物は使っていないみたいです。
 開き戸は、細工の難しい蝶番と引き手を使っていますから、高かったのではないでしょうか。


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