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どの線を越えれば、何時から哲学者となるのですか?

哲学者はどうやって生活するのですか?

A 回答 (7件)

>哲学者はどうやって生活するのですか?


「はったり」で生活するんです。、、、ウソウソ、冗談です。
結構厳しいと思います。ボーズや聖職者はきちっとお金もらってますからね。対して哲学者は個人的思索なので、お金は難しい。
禁欲的な生活で、隠者になれるような人はとくに不便なく暮らせるかも知れないですね。わたしは、以前ある人に、「いっしょにどこか素敵なとこに隠れて住もう。」と提案したんですが、「君の世界には君と僕しかいないん?ちっさ。」
と言われ、「小さくたって天国ならいいじゃん」と反論しましたが、却下されました(笑。かなりがっかり、。
 
 哲学者の住む世界というのは、隠れ家なのではないでしょうか?
 
>どの線を越えれば、何時から哲学者となるのですか?
わたし的には、他者に哲学臭いことを漏らしたときだと思います。(笑
他人にしゃべらなければ、哲学者かどうかは、あまり意味をなさないでしょう。
 
というだけでは冗談で終わるので、もう一つ。
哲学者のカギは、それに気付くか気付かないかは別にして、「私的言語」だとおもいます。申し合わせ事項の言語(数学などにしても)を使っているようで、実はかなり自分勝手な言語を操っているものです。
自然哲学はどうでしょう、科学でいいんじゃないでしょうか?社会は社会学。

 自己に向かう、ある種の瞑想が哲学であり、やはり、真理にたどり着きえる方法でしょう。論理的には、科学の真性や正当性は排除されますし、かといって、哲学では、一歩でも間違うと堕ちてしまう(真理には行き着かない)わけです。おちないためにも、私的言語は必要であった、と、言えるのではないでしょうか。
  
でも、科学であろうが、哲学であろうが、「幸せドコに置いてきたの?」という、みんなの唄(知ってますか?NHKのみんなの唄)に、答えてくれるのか、疑問です。みんなの唄ではこうです。「ずっと幸せ。いつかわかるもの。きっと幸せ。いつかわかるもの」
う~ん。それでいいのかなぁ、。と、わたしは思います。
96歳のおばあちゃんです。
「人生は恐ろしい。いいことは何一つ無かった。」
横を向き、影に入り、顔をしわと、しわでできた手で覆って、切実でした。泪とうめきをちらちらと漏らす、。わたしは、この人はなんて強いんだと思いました。

学問(哲学でも何でも)の思考方法として、分析と論理だけじゃ話にならんじゃん、って、最近は考えています。なにか、ほかの、言葉があればいいのに。
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  哲学(philosophia)とか哲学者(philosophos)というのは「概念」です。従って、この概念が把握されている必要があります。無論、本に、哲学者「無知無学」先生などと書いてあったので、無知無学氏という人は哲学者なのか、という納得の仕方もありますが、誰かが哲学者だという表記・現表は、「誰かが判断して」行うものです。天から、「哲学者」というネームプレートが落ちてきて、哲学者に相応しいと天が認めた人の胸に張り付く訳ではありません。
 
  つまり、誰が哲学者かは、「人間の判断と評価」の問題になります。「哲学者」に関しては、哲学や哲学者の「概念」をまず判断者が持っていなければなりません。「日本根源哲学学会」とかいう組織があって、そこの会員であるので、あの人は哲学者だ、という判断でもよいのです。この場合、哲学者とは何かよく分からないが、「哲学学会」という名の組織のメンバーは、哲学者だ、という判断が行われ、哲学者をそのような概念で把握していることになります。
 
  わたしの概念把握では、「哲学」とは、世界と人間について、人間の持つすべての能力を色々に駆使して、把握し、理解し、思索し、「究極により近い答え」を求める人間の営みと考えます。もう少し具体的に言えば、世界や生命や人間は、「何を根拠」にして存在しているのか、存在とはそもそも何なのか……第一哲学、形而上学の課題を問題にする知的営み。次に、形而上学的には、答えが分からないが、あることは、どういう仕組みでそうであるのか……分科科学的な問いを発し、思索し実践する営み。そして、良いこと、善とは結局どういことなのか、人間にとっては、何をなすのが善で、何をなすのが善に反するのか、こういったこと、倫理的課題を思索し実践する「自覚的営み」……これが哲学の営みで、哲学とは、こういうものだとわたしは考えています。
 
  これが「哲学の概念」で、従って、こういう営みを為す人は、「哲学者」です。わたしは、従って、このような意味では、「哲学者」です。
 
  哲学者は、個人の判断で決まって来ます。従って、哲学の概念を把握し、哲学者の概念を把握了解した時、自分自身はどうであるのかと考えると、哲学の営みを行っている、と考えた時、他者に告げた時、そういう個人は、「自称哲学者」あるいは「自己認識での哲学者」です。
 
  また、哲学や哲学者の概念把握からして、あの人……フローラ・スターという人は、まさに哲学者と判断し、考え、あるいは他者に知らせた場合、「他称・他者認識の哲学者」です。
 
  しかし、また、単に、哲学の問題を思索する・実践するというだけでは「格」が足りない。世の多くの学者や一般の人が、「哲学者」だと判断するような人こそが、「哲学者と呼ぶに相応しい」……自称・他称の哲学者などは、本物でない、という「概念把握」もあるのです。これは、「社会的認知の哲学者」となるでしょう。
 
  社会的認知の哲学者のヴァリエーションは色々あり、有名な「哲学研究の先生」が多数、哲学者と呼んでいる人が哲学者だという認識もあります。別に哲学の研究者など関係なく、多くの人が哲学者と認識する人は哲学者だという認識もあります。「何々哲学学会」の会員が哲学者だというのも、社会的把握の一つです。
 
  わたしは、基本的に、自称・他称で「哲学者」の資格は十分だと思います。他人に話すと他人が笑うと言うなら、他人には告げなければよいだけでの話です。「わたしは平凡な人間だが、世のなかの役に立ったと思っている」「わたしは、悪いことをたくさんし、世のなかにとって、迷惑な存在だったと思う」こういう自己認識で、前者は「わたしは平凡な善人だ」、そして後者は「わたしは、やはり悪人だ」という自己認識なら、自己認識で、善人、悪人であるのでしょう。
 
  哲学者というのは、こういう感じで、自称・他称で、すでに意味があると思います。しかし、自称・他称する場合、「哲学」や「哲学者」の概念把握が前提になります。概念は分からないが、世のなかで、A氏は哲学者だと呼ばれている、多分そうなのだろう、というのは、社会的な認知の哲学者です。そして、この場合は、社会的にそう認知されている人が、****者である、という意味把握で、これでも良い訳です。
 
  また、Z氏は自称「哲学者」だが、あれはただの世迷いごとを言っている狂信者であって、哲学者など、とんでもない、という場合、他称「非哲学者」です。
 
  わたし自身の基準で、もう少し述べると、先に記した大別三つの課題を、論理的に、価値感情において、直観において、感覚において、整合させようとする努力において、「探求する者」が哲学者だということになります。論理的であらねばならないのですが、直観や感情評価も高い意味を持つのです。
 
  >哲学者はどうやって生活するのですか?
 
  哲学者というのは、職業名ではありません。人の生き方、世界と他者、自己に対する思索や判断の営みの様態です。肉体労働、知的労働などをしつつ、哲学思索する人もいるでしょう。知的労働のなかで、過去の哲学者の成果を学生に大学で教えたり、解説したりしたり、研究することで生計を得ている人もいるでしょう。あるいは、無職で、残飯をあさりながら世界や人間や善について思いをめぐらし、遂に路傍で餓死とか病死する人もいるでしょう。
 
  また、親などの残してくれた財産で、働くことなく、哲学課題の探求に時間を費やす人もいるでしょう。
 
  漫画愛好家・アマチュア作家は、どうやって生活するのですか?という問いの答えもこれと同じになるでしょう。「哲学者」には「プロとアマチュアの区別はない」のです。プロフェッショナルな「哲学研究家」とアマチュアの「哲学研究家」はいますが、「哲学者」は、生き方の問題で、生計の立て方は関係ありません。
 
  なお、以下の質問のなかのわたしの回答も参照してください:
 
  哲学者ってどんな人?
  http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=186765
 
  河合隼雄と村上陽一郎の文章について
  http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=172977
 

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=172977
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●わたしは 社会的に認知された 哲学というものには疑問をもつ人間なので


 個人的な哲学者なるものを 述べたいと思います。参考にしてください。

 数学でいうところの集合をイメージしてください。

 一番大きな集合はアート(芸術)です。
 これは 何でもありの世界です。
 アートの部分集合が哲学です。哲学とは言葉を使うアートとも言えます。
 そして哲学の部分集合としてすべての学問があります。
 仕事はアートの部分集合ですが 哲学(学問)との共通集合を持ちます。

 ↑のなかで社会的に価値を認められたものが そう呼称されます。
 しかし あなたが こころのなかで 意思をもって言葉をつなげたら
 それはもう アートか哲学か いずれかなのです。
 同じ言葉をアートか哲学かを 区別するのは
 幸せへの距離感だと思います。哲学は直接幸せに向かうのにくらべて
 アートはそれもありですが 漠然と幸せに向かうことのほうが多いようです。
 哲学はかくもとらわれのない分野ですから 膜宇宙論とオナニーを
 同列で語ることもできるわけです。それを実際にやってしまうと
 アートになってしまいますけど・・・。
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「いつから哲学者とよばれるのか?」



ラグビー選手は、いつからラグビー選手になるのでしょうか。
おそらくそれはゲームを楽しんだときからでしょう。
誰かが「ラガー認定書」をくれるわけでもなく、また
だれもが認める有名選手だけをラグビー選手とはいわないように、
哲学も、哲学をする人を哲学者といいます。
アスリートは戦うことで、アスリートでありつづけるわけで
やめればもうアスリートではありません。同じように
哲学者とは哲学をしつづけることで哲学者でありつづけるわけで、
資格をとったら一生、哲学者であることなどないのです。
つまりこの線から先は哲学者というものはなく、つねに線は
より高いところや深いところや早いところへと挑み続けなくては
なりません。アスリートは競技をしつづけることで哲学者は
哲学をしつづけることで、つねに変化していく自分とともに
その呼び名がついてまわるのです。

では哲学をするとはなんでしょうか。それは様々な問題にたいして
考察できる概念を発明することにあります。たとえばニーチェが
<司牧者の権力>という概念を発明しました。これによって
宗教で支配されるとは何かという問題について我々は考えることが
できるようになったのです。こうして哲学者は概念を発明しつづける
ことによって哲学者になることができるのです。

「哲学者はどうやって生活しているのか?」

ラグビー憲章にもあるように、ラグビー選手は、ラグビーをすることでは
生活できません。会社員をしながら有名選手もアスリートを続けています。
哲学者も哲学することだけでは生活できません。カントまでの哲学者は
旅をすることで、面白いものや奇妙なものをみつけて多くのパトロン達を
引き寄せ生活してきました。
カントの時代から哲学者は大学の先生になりました。
本を書いたり、授業をして生活をするのです。しかし哲学の授業をしている
教師がすべて哲学者であるかというと、そうではありません。
なぜなら概念を発明していないからです。なにも新しいものを加えることの
できない概念の使い手は、哲学者ではなく概念の番人でしかありません。

このことは逆にいうとラグビーがどんな体型でも参加できて
競技をする人はすべてアスリートになれるように、
新しいものを概念に加えることの出来る人はすべて
哲学者になれるといえます。哲学者は職業ではありません。
全ての人が問題を概念によって考察するときに、
その状態をさす総称です。生活する人すべてが哲学者になる可能性があります。
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 みなさんの素晴らしい発言の後に、香辛料的に加わらせていただきます。


 野球が好き。これには理由がありません。そして、長島やイチローの物真似を繰り返し実行します。マンガが好きで手塚治虫タッチで落書きするのと同じです。
 そのうち、似てはいますが、だんだん自分の癖にあったプレー、癖にあったタッチの絵が描きたくなり、そのためには、ああしよう、こうしよう、と方法論を自分で構築します。
 私は、これが、「学」への入り口だと思っています。この「方法論」を確立するためには、イチローばかりではなく、大魔神やボンズやベーブルース、歴史的な人間についても学ばねばなりません。マンガも、映像論や絵画論、様々なものにふれていかねばなりません。
 そうこうしているうちに、そうしたことで、「生活して行ければシアワセだなぁ」と思います。これは、職業として「学」を選択したい、という行為で、ここで比類なく資料を集め、それぞれについて、しっかりした論説を加えられれば、現在の社会では、これも、職業を満たす用件として、認知されます。単純に言えば「学会」ということで、同じことを目的に、「これから同じ研究に携わる人に、適切な道を示せる者」という評価を得ている、ということになるでしょう。
 これが一般的に言われるところの「学者」であり、「学」を生活の根拠としている者達の「=学会」です。
 この認知の最高は、東大哲学科大学院卒業であったり、哲学に関わる高名な賞の受賞者であったり、ベストセラー生産の作家であったりします。
 現在の多くの哲学者は、こうした「社会的(と言っても良い)なサークルから一応マトモに勉学に励んできた奴」という認知を経て、その上で、自分は「哲学」を実践している、と判断しています。
 私は、職業とする以上は、そうした高いハードルを越えることは、必要だと思いますので、カントの原文をしっかり読み込む努力をするなどは当然行うべきであろうと、判断をします。これは逆から言えば、満員電車に揺られながら、「毎日つまらないことばかりして生活しているなぁ」というサラリーマンの生活苦と同じ苦労を重ねている、ということでもあります。だから、哲学者といえども、現実の方々と同じく現実的な発言を出来るのです。
 ですから、結論としては、哲学者として生活をする、ということは、毎日8時間から15時間くらい、ぶつぶつと原文を解釈し続けたり、ああいえばこう解釈できるとか、淡々と繰り返す努力に耐えられる者に与えられた勲章である、と私は思っています。
 そして、事実としてそうなっていった人たちは、「最初は好きで、そのうち知らないうちに職業者になってしまったなぁ」と思っています。
 野球選手もマンガ家も歌手も、大体、似たり寄ったりのところでしょう。これが、資本主義下における「職業者としての哲学者」です。
 しかし、そのうち誰もが、「私の考えていた最高のプレーとは、とか、最高のマンガとは、とか、最高の歌とは」というのは、わからなくなります。イヤ、わから無くさせるのです。そうでないと、完結してしまうからです。
 ガンが転移するように、彼らはイタズラに「最高」とか「真実」を求め、刻苦勉励、輾転反側、日夜、ノイローゼをものともせずに考えあぐねます。
 何のために?
 そして、とある日、「やったぁ!」と、金メダルでもとったような気になって、2,3日すると、また、「イヤ錯覚だった」と、苦悩の中に戻っていきます。
 私は、そうした毎日の繰り返しが「学」の実践である、と判断しています。
 
 こうした、絶え間ない錯覚の中で、苦悩を友とする人は「幸福」です。オリンピックのように、ほんの一瞬、「客観的?な評価付け」でもあれば、もっと楽に努力のしがいがあるのですが、この努力は、延々と続く自己評価と自己排斥の連続です。
 こうした無駄な努力の中で脳内エンドルフィンがわき出してきたら、多分、いっぱしの哲学者なのでしょう。この世の中に「最高」とか「真実」なんかない、とわかっているのに、それでもやはり登ろうとするのです。山ではないかもしれないのですが。
 
 ただし、「哲学」とは何か、という疑問になると、これは意味合いが違ってきます。「哲学」は「職業」としての一面を否定しているからです。「哲学」は哲<学>によって、「職業的地位」を肯定されていますが、これを認めない努力も「哲学」には課されているのです。
 それは、「哲学とは何か?」という疑問になります。
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大学で同じことを質問しました。


哲「学者」として生きるなら大学の講師です。日本では少ないし、そもそも哲学の学問としての価値が低いので、普段見かけないだけでしょう。欧州では大学で哲学は必修です。学問の祖であるからでしょうね。

学者であるなら専門研究を行うプロであるべきですから、やはり研究できる機関に所属して研究するのが当然でしょうね。

哲学は「する」ものではないといいますが、日本語では便利動詞「する」以外には名詞「学者」をつける他なかったのでしょう。そうやって表面上「する」を使わないことが一般的になってしまったようですが、哲学する人と哲学者は明確に違うと思います。学問としての哲学と個人一般の哲学は違いますから。
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補足をしておきたいと思います。



よく学問としての哲学と、個人一般の哲学はちがうという意見が
ありますが、その区別はあまり役にたちません。そればかりか
「哲学者」とはなにかと考えるときの、まちがった偏見になります。

もし哲学に学者の哲学というものがあるのなら、哲学という知の
本質を大きく取り違えているということになるでしょう。
なぜなら哲学の問題とはつねに、一般的な問題であり、具体性を
伴うものでなくてはなりません。たとえばフッサールのような厳密な
概念規定をする人でさえ、学というものが「生活世界」で適応できる
ようなものでなくては、哲学の力を失うのだということを述べているほど
です。

ただし「私の経営哲学」とか「社長の人生哲学」などというように
流布されているような使用法における哲学とは峻別すべきです。
なぜならそこには概念がなく、思いこみやイメージだけがあふれて
問題に対する紋切り型の意見が繰り返されている危険もあるからです。
哲学者とは、良識によってうまれる一般的な意見をいうことではないから
です。ときにはそれが非常識であり、ときにはそれが通念を破壊しかね
ないものです。スピノザは共通感覚=良識というものの脆さを
概念によって証明しました。

すべての人が哲学者になる可能性があるというのは、すべての人が
概念で問題を解決できる可能性があるのだということです。
西周が哲くという言葉を、その訳語にこめたのは、広く一般に
おいてこの学が光を与えるのだということを意味しています。物事が
解決できないような暗闇にとざされときに、ささやかな
光をあたえるものが、我々のあたえられた「哲学」であるからです。
以上、補足をのべさせていただきました。
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