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佐賀県の名護屋城、朝鮮出兵について調べているのですが・・・。
韓国の方と文化交流ということで、来週佐賀の名護屋城に行き、そこについての
説明をしなければなりません。けど、私は歴史が苦手で、全くわからないんです・・・。ネットで色々見てみたのですが、よくわからなくて・・・。
名護屋城が朝鮮出兵の時の本拠地だと言うことはわかりましたが、朝鮮出兵とは
誰が何をしてどうなったことなのですか??それにより、朝鮮との関係が途絶えたと聞きましたが、その後、現在の日韓関係に影響はしているのですか?教えてください。わかりやすいHPがあれば紹介してください。
無知ですみません・・・(苦笑)

A 回答 (3件)

私が名護屋城に行ったのはもう25年も前、まだ小さかったので記憶はわずかしかないのですが・・・



朝鮮出兵をやったのは豊臣秀吉ですね。当時の朝鮮はそれまで平和な時代が続いていたこともあり日本の鉄砲に対抗できる武器がなく、町や村は荒らされ、有名な社寺も多くの建物が焼けてしまいました。しかし民衆の抵抗や李舜臣将軍の反撃もあり、さらには秀吉が没したために朝鮮出兵は幕を閉じました。
そんなわけで韓国では豊臣秀吉は今でも大悪人扱いですし、日本軍を撃ち破った李舜臣将軍は英雄として大きな銅像が建てられています。
その後ですが交流は途絶えたわけではなく、徳川幕府は朝鮮と友好政策をとりました。江戸時代には何度も朝鮮から通信史がやってきています。

文化交流楽しみですね。充実したものとなることを祈ります。

いいページがありましたのでぜひ読んでみてください。(探せば他にもたくさん出てくると思います)
http://kyushu.yomiuri.co.jp/chosen/chapter2/6cho …
http://village.infoweb.ne.jp/~naochan/jo-saga-na …

参考URL:http://kyushu.yomiuri.co.jp/chosen/chapter2/6cho … http://village.infoweb.ne.jp/~naochan/jo-saga-na …
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この回答へのお礼

ずいぶん遅い返信ですみません。回答ありがとうございました。
教えていただいたHPがとても役に立ち、とても充実した文化交流になりました。
実際名護屋城にいった日は雨が降っていて、博物館の方しか見学が出来なかったのですが、調べて行ったおかげで、いつもは退屈する(苦笑)博物館もともて楽しくm見学することができました。
そしてもっと詳しく知りたいと思う気持ちももてました。

お礼日時:2002/03/06 23:35

 知識はこれから勉強すればいいと思いますので、少し気になったことを書かせてください。


 朝鮮出兵は別にしても韓国併合、強制連行、従軍慰安婦問題と、近現代史における日本と韓国(朝鮮)の関係について、韓国(朝鮮)の人々は、日本の一方的加害者としての役割を強く意識しています。
 彼らにとって特に許せないのは、日本人の過去に対する無関心、無知だと、聞いています。
 確かにひどい目に遭った場合、もし当の相手が自分のしたことを全然意識していない、忘れているとしたら、これほど頭にくることはありませんよね。
 戦後生まれの日本人が自分は直接責任がないと感じるのは無理ありません。しかし、少なくとも日本人が過去にやったことに対し、自分の立場を明らかにすることは必要だし、それを彼らも求めていると思います。
 日本の若い世代の大半がそうだと思いますが、これまでよく知らなかったり、意識していなかったのなら、隠しても仕方がありません。大事なのは、なぜそうだったのか、歴史教育や政治の問題にも広げて率直に話し合うことだと思います。
 名護屋城跡のそばには記念館があり、韓国の生徒らも修学旅行で訪れるようです。痕跡だけのお城でも彼らにとっては今も生々しい歴史なのかもしれません。
 直接の回答にもならず、余計なことを口出ししてごめんなさい。かく言う私もまだまだ無知の塊です。文化交流の前に勉強しようとなさる姿勢に敬意を表します。
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この回答へのお礼

返信遅くなってすみません。
事前に名護屋城については調べて行ったのですが実際、韓国の方と交流してみて
もっと×2色々なことを勉強しなきゃいけないと思ったし、また韓国のことを
知りたいと思うことができました。
とてもいい経験でした。
ホントに韓国は近くて遠い国。。。けど少し近づけた気がします。

お礼日時:2002/03/07 00:14

まず、朝鮮出兵は豊臣秀吉の号令の下に行われました。

諸説いろいろありますが、石田三成らが謀ったものとも言われています。
豊臣秀吉によってご存知のように、100余年間つづいた戦国時代が統一されました。もうこれ以上分け与える土地もありません。
また、その財政は万全とは言えませんでした。徳川、伊達、毛利、上杉、島津などの諸大名は広い領地を持ち、大軍を養っていました。一方、豊臣家は京、大坂といった経済の中心地を押さえてはいましたが、領地はそれほど広くありません。
また、統一となると今まで槍一本でのし上がって来た加藤清正・福島正則などの武闘派の武将たちより、石田三成・小西行長といった官吏文治派の武将が重宝されてきます。

そこで、統一に成功した秀吉(考え出したのは小西行長や石田三成らしい)は、朝鮮半島へ出兵して遠く明国にまで攻め込み、金銀財宝を略奪する。これなら、直属の部下の将軍たちの関心を海外へ向けることで国内の不平勢力をなだめることができる。豊臣政権に批判的な大名達を自家の財政で出兵させれば直接攻撃することなく、間接的に彼ら(島津など九州大名の)財政を弱めることも可能です。

その兵站の拠点となったのが、肥前名護屋城です。城というより当時の権力を誇示すべく豪華絢爛な建物だったようです。
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この回答へのお礼

返信遅くなってしまってごめんなさい。回答ありがとうございます。
説明していただいた内容を元に詳しく調べ、とてもいい発表ができました。
もっと歴史を勉強しなきゃなと思いました。
とてもためになりました。

お礼日時:2002/03/06 23:37

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