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大学でロシア語を習いはじめたのですが、わからないことがあるので教えてください。教科書にЯ рад、что завтра можно будет отдыхать.とあるのですがなぜбудетとなるのですか?主語はЯでбудуとならないのはなぜですか?

A 回答 (2件)

Я рад、что завтра можно будет отдыхать.


明日は休むことができるので私はうれしい。

この文ではЯ рад(I am glad)の部分はЯが主語ですが、что以下ではможно(できる)は無人称述語と言われ、実際に「できる」人を主語に立てません。通常はこのまま不定詞を従えればいいのですが、未来形など他の動詞が必要になるときも現実の人称にはならず、三人称単数の形になります。英語のI canというよりIt is possible toのような感じです。

このような形をとるのは、nuzhno(~する必要がある)、nel'zya(~してはならない)など助動詞のような意味を持つものがあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2006/07/01 23:02

どこまで理解されているかわからないので、最初から詳しく説明します(蛇足でしたらすみません)。



まずこの文ではчтоに注目する必要があります。
このчтоは接続詞です。чтоはЯ радとзавтра можно будет отдыхатьという二つの文をつなぐ役割を果たします。

чтоより前の文章をみてみますと、「うれしい」という意味のрад(形容詞的述語)が使われていますよね。
これは述語としてしか用いられず、主語の性と数によって変化します。この場合Я(状況として男性)が主語になっていますので、радになっています。ちなみに主語が女性だとрадаになります。

что以下は従属節になります。つまり「что以下のことが私はうれしい」ということになります。

что以下ではможноという無人称述語が使われています。無人称文というのは習ったかと思うのですが(Сегодня тепло.など)、そのほかにнужно(~が必要だ), нельзя(~をしてはいけない), можно(~をしてもよい、できる)といった形容詞とは異なる語が用いられます。このような語を「無人称述語」といいます。

これらの「無人称述語」の後には動詞の不定形がきます。ですから「休むことができる」というのはМожно отдыхать.となります。

「無人称述語」は主語が無くても文が成りたちます。ですから、時制を変えるときには、過去形ならば、было(中性形)、未来形ならばбудет(3人称)が、主体の人称に関わらず常に用いられます。

ですから、ここではбудетが用いられています。

ちなみに、どうしても主体を入れたい場合には、与格を用います。例えば、「私は明日休むことができるだろう」という文は、Мне можно будет отдыхать завтра.となります。
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この回答へのお礼

よくわかりました。ありがとうございます。

お礼日時:2006/07/01 23:03

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