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たとえば石田光成は文武両道の人物だったにも関わらず徳川時代に悪しく言われ続けたせいで無能の人と思われがちだったり、仮名手本忠臣蔵のせいで元禄赤穂事件の浅野内匠頭が名君だと思う人が多かったりしますが、他にも実際の人柄や能力と後世の評価が著しく違う人物がいたら教えてください

A 回答 (14件中1~10件)

 えーと。

一休さん?
 アニメのせいで以下略(^_^;
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 私はあんまり詳しくないのですが。

 

 明智光秀なぞはその典型ではないでしょうか。

 彼は、自らの野望の為、主君を裏切った卑怯な奴としてとらえられています。
 が、実際には部下を思いやる優しい人柄を持ち合わせた文化人だったそうです。(戦で怪我をした家臣をいたわる手紙が残っているらしいです)
 本能寺の変の時も配下から一人の脱落者も出なかったとか。民からの評判もよかったようです。

 あと、忠臣蔵つながりで言えば、吉良上野介も物語で描かれているほどの悪者ではなかったそうです。

 歴史は勝者が作るもの―負けた人はいつも悪い伝わり方しかしませんね。

この回答への補足

明智光秀はどちらかというと織田信長の暴挙を止めた仁君として語られる方が多いような気がします。。
あと現在ヤンマガで連載中のセンゴクでは明智光秀の知られざる怖さも描かれてますね。

補足日時:2006/07/04 16:52
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坂本龍馬:


司馬遼太郎が「竜馬がゆく」で英雄として描写したので日本史上屈指の有名人&人気者になったが、史実よりかなり膨らんでいるらしい。
龍馬の生家は郷士と言うより商人であり、金があるので剣術と学問をとりあえず学び、江戸に出ていろいろ活動したようだ。

斎藤道三:
同じく司馬遼太郎の小説で有名になった。肖像画も残らず、実際にどんな人物だったのかはほとんど記録がない。「蝮の道三」といった、狡猾な人柄を示す形容も出典不明。
なお、京都の禅寺の小僧、油商人から美濃に移り、美濃の守護代に出世したのは、「道三の父」であることは、六角家の当主の手紙で判明している。

この回答への補足

坂本竜馬は祖父の八平直海が郷士株を買って侍になった家系ですね。。
竜馬は子供のころ泣き虫だったという話もありますが、それは姉が知人に送った手紙に竜馬は子供のころ泣き虫で~と書かれた一文のみだったりと、人気があるゆえにいろいろな逸話が増えていったみたいですね。

補足日時:2006/07/04 16:57
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三国志の曹操なども典型例ではないでしょうか。

最近某漫画等で別の視点での評価がされていますが、演義の方で一方的に冷酷非情な男に書かれていますので。
帝政ローマの五代皇帝ネロも暴君と言われていますが、治世前半は名君と言われていますし、結構外交手腕もあったと思います。キリスト教徒を迫害したのが後の評価の悪さの原因だと言われていますね。
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豊臣秀吉の家臣蜂須賀小六正勝。


大河ドラマ等でも知力よりも武力方の武将として描かれることが多いですが、交渉ごと(本能寺の変時の毛利との和睦)に当たって力を発揮した立派な知将です。
ちなみに御子孫が、明治天皇から晩餐会で先祖の稼業を盗賊の親玉としてからかわれたというエピソードもあります。
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武田勝頼も、実際の能力より過小評価されている一人ではないでしょうか?



実際、武田勝頼は信玄の正式な後継者信勝の後見人という微妙な立場でしたが、ほぼ年長者揃いの家臣団を10年に渡ってまとめました。

尚且つ、信玄の落とせなかった高天神城をも落としています。

しかし、いかんせんビジョンが並の大名とは違った信長の勢力伸長の方がはるかに早く、時代の流れに逆行せざるを得なかった悲運の大名だと思います。

織田家有利の情況が決定的になった後の長篠の戦いでも、1万5千対3万8千という圧倒的に不利な情況ながら、対立していたと言われる家臣団が最後まで忠節を尽くし、死者数ではほぼ互角の戦いをするなど、らしさを見せています。
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「武田勝頼は信玄の正式な後継者ではなく、孫の信勝が成人するまでの陣代」という話は、甲陽軍艦に書いてあるようですが、史実とはみなされておりません。

当たり前ですが、確実な史料は全て「武田信玄の跡を勝頼が継いだ」ことを示しています。

信玄は、長男の義信を廃嫡した後、唯一の後継者候補である勝頼を後継者とするため、様々な手を打っています。

例えば、死去の前年くらいに足利将軍の側近に手紙を送り、「将軍様の偏緯と官位官職を勝頼に斡旋下さい」と依頼しています。この依頼は実現せず、勝頼は死ぬまで無位無官の「武田四郎勝頼」でした。

ただ、信玄の予想より速く彼の寿命が尽きたため、勝頼が後継者の要件を十分備える前に家督相続することになったのは事実です。
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大久保長安、井伊直弼がそれにあたるとおもいます。



大久保長安は守銭奴、陰謀家のイメージを徳川幕府の本多正信直純親子に作りあげられましたが、実態は有能なテクノクラートで財政に辣腕をふるい、金山開発にアマルガム法を導入し産金量を飛躍的に高めた功労者でした。
産金の取り分を家康と四分六分にわけ六分を収入としたのですがこれも産金の費用は自分持ちであった為で決して貪ったのではありません。
金銀の備蓄が多かったのが咎められたのですがこれも本多親子の讒言によるものです。  権力闘争の被害者といえましょう。

井伊直弼は強権政治家と恐れられたのですが、実態開明的な名君と慕う人が多い人です。
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福田赳夫元首相、言うまでもなく福田康夫氏の父親ですけど、この方ほど顔と経歴で損をした人はいないと思います。


東京帝大から大蔵省というエリートコースを歩んだことと、偉そうな風貌から、ライバルの田中角栄が成り上がりの「今太閤」と人気を博し、庶民の代表と言われたことと対比して、権力側の代表で庶民を小ばかにした人柄と誤解され、どちらかというと嫌われ者でしたが、実際は気前がよく、気さくな人柄で、若き日の小泉首相の面倒もよくみて、周囲の人間には好かれたようです。
私の記憶では、大蔵大臣の時に付き合いで買った宝くじが1等に当選したときも、全額寄付してしまい、身奇麗な政治家だったと思います。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0% …
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9代将軍徳川家重。


しょんべん公方とあだ名され、馬鹿将軍の典型のように言われていますけど、篠田達明医師の研究では「アテト-ゼ型脳性まひ」で、尿意がコントロールできなかったり言語を明瞭に話せないなどの不随運動が起こるだけで、知能は高い方だったと言われています。
現在でいえば、ホーキンス博士のような方だったのかも知れません。
「将棋考格」という著書もあり、将軍にならずに別の道を歩けば、なかなか有意義な人生だったかも知れず、残念なことです。
恐らく周囲の人間が自分のことをどう思っているか判っており、頭では理路整然とした言葉が浮かんでもそれを口に出せないもどかしさなどで、ものすごいプレッシャーがかかり、酒色に溺れ寿命を縮めたのでしょう。
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