プロが教えるわが家の防犯対策術!

お金がないと、困る事は何ですか?

A 回答 (16件中11~16件)

no3でご回答させていただいた者です。


お礼文ありがとうございます。
訂正がありまして、レウ゛ィナスの引用文は「正義と全体性」ではなく
「自我と全体性」からでした。たいへん失礼いたしました。

それと貨幣の自由を守る側面についての説明がなかったので追加させていただきたいとおもいます。

中山元さんはジンメルの「貨幣の哲学」からの引用文を交えながらこう述べています。

{・・・・・・貨幣を利用した商業的な発達と、人間の文化と自由の発達は、手をたずさえてすすむと考えた。
かつてヘーゲルは、人間の精神のいとなみはある外的な形式をとる必要があると考えていた。ジンメルは貨幣こそ、この外的な最高のものだというんだ。

「このようなたんなる関係を特殊な形象に投影することは、精神の偉大な業のひとつである。精神はこうした形象においてひとつの物体として示される。しかしそれは、ある物体的なものを精神的な<器>とするため、それによって精神的なものをいっそう完全に、そして活発に働かせるためである。このような形式の能力は、貨幣においてその絶頂に達する」
(ジンメル貨幣の哲学)

価値は、人間の欲望の弁証法において成立するとジンメルは考えていた。そして貨幣は、この価値を示す手段だ。交換の媒体というだけじゃなく、そもそも交換を可能にするものなのだ。}

また電子マネーや複数の通貨の時代が来ても、じぶんが働いて獲得しなにかを購入する単位になる「貨幣のようなもの」が消滅する時代はおとずれることはないだろう、と仰っておられますが、私もそうだろうなというのが実感です。

それと柄谷行人氏が、貨幣社会は権力者を見えなくする、と何かで言っておられましたがなるほどなと思いました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「全体性と無限」は聞いた事有りますが、それ以外は、不勉強で

>価値は、人間の欲望の弁証法において成立するとジンメルは考えていた。そして貨幣は、この価値を示す手段だ。交換の媒体というだけじゃなく、そもそも交換を可能にするものなのだ。

そうですか、沈黙交易は存在したのか、私も自信ありませんが、ポランニーと言う学者は、存在したと仰っていました。沈黙交易は貨幣なしに交換をしたようです。不便と言う事と、出来ないとは違います。

そもそも、なぜ客観的等価は必要ですか
ギリシャの戦士は、金の鎧と、銅の鎧を交換したと聞きますが。

今回は、出来れば、過去の人の言説を無条件で肯定するのではなく
>また電子マネーや複数の通貨の時代が来ても、じぶんが働いて獲得しなにかを購入する単位になる「貨幣のようなもの」が消滅する時代はおとずれることはないだろう、と仰っておられますが

貨幣形式は、消滅しない、私も、別の本で読みました、そこで、なぜと問うのです。
何処まで行けるのか、私も困っています。

お礼日時:2006/08/25 20:48

このご質問を、「お金・貨幣の本質とは何か?」と読み替えてみました。



私が以前読みかじった本で、トマス・アクィナス『神学大全』中に、概略このようなことがありました。
「正義には、2種類ある。一つは『交換の正義』と『配分の正義』である。前者はexchangeとか、give and takeに関係するもので、神からは遠い。後者は、distributeに関係するものであり、あるべきところにあまねく配分されるというものである、これは神に関係する」。
ここから先は、私が考えたことと、本の内容が混乱していますが、たしか、貨幣は、交換の正義に関するものだったと思います。つまり、本質的に別のもの(野菜と、魚は本当は比べられない)を交換する際に、それを仲介するものがないと公正に交換できないので貨幣を用いるというような話でした。
この考え方は、「地域通貨」に通じていると思います。

一方、いわゆる為替とか株とか投機の世界)では、以上のように実体が背景にあるのではなく、記号としての貨幣(マネーと呼ばれたりするが流動しているのかと思いますが、そっちのほうの世界は知らないので、よくわかりません。

というわけで、わりとつつましく暮らしている(本当は貧乏といったほうが正確かな)私としては、「交換の正義」に関わるレベルでのお金との関係を望んでおり、「マネー」と呼ばれるような世界の影響には巻き込まれたくないと思っているのですが、このような世の中では、それも難しそうです。

それと、私は、以前から考えているのですが、インテリジェンスがあれば貧しくても心豊かに暮らすことは可能でしょうか。橘曙覧は、歌を読む限りでは、貧乏でも幸せそうに暮らしているので、できるような気もするのですが。つまり、「お金がないと、困る事は何ですか?」を「貧乏でも困らないことは可能ですか」と読み替えて、考えたりもしてみました。

なんか、まとまりついていませんが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
「交換の正義」と「分配の正義」ですか、興味深いご指摘、感謝いたします。
交換と贈与に気を取られて、分配は迂闊でしたね、そういえば、今読んでいる社会学系の本でも「分配派」と言う表現がありましたが、いい加減に、スルーしてしまいました、油断は出来ませんね。

贈与・交換・戦争・分配、こうして並べると、所有の問題もありそうですね。

マネーゲームに関しては、利子とか価格変動も関わって、喩えれば、目的外使用、とはいえ、私たちの生命も社会もオルなんとか、代替可能性、目的外使用を批判する根拠が見つかりません。困ったものです。

貧乏は困りますか?と問われたら、貧乏は正直者のお粗末な証拠だと答えます(苦笑。

お礼日時:2006/08/25 19:57

>お金がないと、困る事



いっぱい、あり過ぎですね。。。
御質問の本文を拝見して真っ先に思ったのが
「カネがないのは命がないのと同じや」
という某「よしお」のおかあちゃんのコトバです。

No.3様のソシュールで
「ああ。。。なるほど言語と貨幣ね、そういえば似ている」
とも思いました。

物々交換というのは効率が悪い面もあるでしょうし貨幣は客観的な価値換算に、たいへん便利なものですが、いまや実体にとって代わろうとしているかのごとき凄まじいまでの力強さです。

下世話な話ですが人物が悪辣下品でも、お金持ちだと世間的に信用されますし。
コトバが実体そのものを表しているのではないということと似てますね。

しかも、これからの時代、貨幣自体がデジタルデータ化されつつある。

貨幣がなければ何を以て価値換算ができるだろう?
そして貨幣は正しく実体の価値換算ができているのだろうか?
私の場合、会社からもらう、お給料の額が私の価値換算?そ、そんな(納得いかないわ!?)

そうしてみると「銭ゲバ」というのもオモシロい態様です。

難しいことはサッパリ分かりませんので感想文ですねえ、これでは。御容赦くださいね。

ところで、あまり馴れ馴れしいことを書くのはサイトの方針に反するのかもしれませんが
トラブルなど何もなかったはずなのに、金魚鉢さんを見かけなくなったなあと思っていたら帰って来られたのですね☆お水の取り換えなさってたのでしょうか(笑)

P.S.
ヤップ島の「石貨」にまつわるエピソードもオモシロいですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

御礼が遅くなりました、ご回答有難うございます。
私の様な、年寄りは、昔はお金は汚いものと嫌われていた、風潮を経験していますから、最近のお金の威力は、目を見張るばかり、私自身、この様な変化を生きてきたわけで、ことさら不思議に感じるのでしょうか。

>「カネがないのは命がないのと同じや」
>貨幣がなければ何を以て価値換算ができるだろう?

今回は、難しい事は横に置いて、子供のように「なぜ」と問い続けたいのです

どうして同じなの?
価値換算はどうして必要なの?

単純で簡単な事を、深く深く、何処まで、問い続けることが出来るのでしょうか?
試してみない手はないですね。

そういえば、金魚鉢、下で怒っている金魚鉢は私とは無関係ですよ(笑。

お礼日時:2006/08/25 18:36

こんにちは。



直接の回答では在りませんが、中山元さんの本を読んでいたらレウ゛ィナスのこんな言葉が載っていました。

「人間を救済するはずの正義は、経済の高度な状態、すなわち人間の全体性の高度な状態を否認できない。
そしてここにおいて、貨幣が(たとえ経済的なかたちにおいてであれ)その範疇となるような人間の間の共通の尺度としてあらわれる。
人間の数量化のうちに正義の本質的な条件を見ることは、無礼なことである。しかし量も償いもない正義などというものが考えられるだろうか。」(正義と全体性)

そして中山元さんはこう続けてておられます。

正義の女神の像は手に秤を持っている。ギリシアの昔から、正義は数量的な尺度にもとづいた再分配として考えられてきた。
レウ゛ィナスはその数量的な尺度になるものは、貨幣しかないと考える。
・・・・・貨幣が自由と正義を守る側面から目をそむけるべきではないだろう。

う~ん、なるほど、と私なりに深く感心いたしました。

また言語学者のソシュールは言語の二面性を貨幣のそれに喩えていたようですね。
人為的なものでありながら自然なもののように振舞うという。
(詳しくは知らないので調べてみようと思いますが。)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

う~ん、なるほど、と私も深く感心いたしました。
と申しますか、レヴィナスには触れませんでしたが、この点は、私は過去に、回答として強調した事があります。
今回の質問の関連では、貨幣で自由を賄えたのか?と言う問いに、最近少し不安です、と。

>人間の数量化のうちに正義の本質的な条件を見ることは、無礼なことである。しかし量も償いもない正義などというものが考えられるだろうか。

レヴィナスの解釈は専門家に任せて、素人としては、「無礼な正義」「量」「償い」と言った言葉が気になります。

一寸長くなりますが、「償い」に関してだけ
古典的に「殺人賠償金」と言う制度を連想します。
「殺人賠償金」と言う制度は、確かに有効な制度ですが、「償う」事が出来たのでしょうか。殺人によって被害を受けた人は既に死んでいます。償いが可能なら、死んだ人を、生き返らせる必要があるのでは、結局、償いは不可能です。不可能な事は何時まで経っても不可能です、そのため、制度は貨幣を使って償いが可能であったと仮定しています。同時に人びとも、償いが可能であったと了解し、その後、客観的量の問題が出てくるのでしょう。

さて、本当にお金で、償いが出来るのでしょうか。
出来ないのなら、お金はなくても困らない事になります。
勉強になりました、また何か気が付きましたら、教えてください。
有難うございました。

お礼日時:2006/08/24 18:38

社会の発達は貨幣経済とともにあり、複雑な分業や役割分担が不可能になります。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

要点を押さえた、簡潔かつバランスの取れた、お見事なご回答、有難うございます。

ところで、ご回答に対して、あれこれ指摘するのは、対話の哲学としてのみ許容されると考えますが
ご回答を拝見して思った事を二点書いてみます。

1)歴史的な発展の事実は、それ以外の方法による発展の可能性を、否定できるのか?
2)ある事物の発展に必要だった道具が、発展の程度によって、もはや必要なくなる可能性はないのか?

2)番目は、質問文からは「卑怯者」と言われてしまうかもしれませんが、如何でしょう。

う~む、想定以上に早くも核心に迫ってしまい、質問者も慌てています。

一度お礼を投稿したのですが、#3様のご回答に気が付いたとき、お礼が反映されていなかったため、再度書き込んでいます、何かのミスでしょう、お礼が遅くなり済みません。

お礼日時:2006/08/23 19:29

「社会的順応欲求」と「生物的存在欲求」という2つの必然的(私の場合)感情のバランスが崩れて、アイデンティティの崩壊につながりかねないこと。




お帰りなさい。
回答できることは少ないと思いますが、いつも勉強させていただいておりました。
また、楽しみが増えました。

今回は復帰祝いに、使い慣れない似非哲学的言語を駆使して無駄な花火をうちあげさせてもらいました。
ご笑納ください。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速のご回答有難うございます。
挨拶代りのご回答、確かに拝見いたしました。

質問とは別ですが、
いまさら、なぜいま、昔の名前が必要なのか、迷ったのですが
理由は色々在りますね、その中で、一番都合の良い理由が見つかったんです。

昔の事をご存知の皆さんに「貨幣の哲学」までたどり着いた事を報告。

初めての皆さんには、種も仕掛けもありませんよ(笑。

お礼日時:2006/08/23 05:05

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!