プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

鬱病だと診断されて3年余。
毎日真綿で首を絞められるような苦痛を味わいながら徐々に朽ちていく感じです。
宗教でもなんでもいい。よりどころが欲しいのです。
何かいいものはありませんか。
私は弱すぎて、もう何かの力を借りないと歩けないのです。恥を忍んでお伺いします。

A 回答 (11件中1~10件)

鬱病と診断されたあなた。


三年余り、毎日真綿で首を絞められるような苦痛を味わいながら徐々に朽ちていく感じのあなた。
宗教でもなんでもいい。よりどころを求めているあなた。
何かいいものを求めているあなた。
弱すぎるあなた。もう何かの力を借りないと歩けないあなた。
恥をしのんで質問するあなた。
そんなありのままのあなたが、
たしかにそこにいる。

ハンドルネームがmakeinuwaonのあなた。
困り度大のあなた。
そんなありのままのあなたでいい。

それはいつもそうではなくて、
ほんのすこしどこかがちがう昨日があった。

たぶんいつもそれがつづくわけではなくて、
ほんの少しちがう明日がある。
そんな明日のあなたの、
あるがままのあなたでいい。

昨日のあなたは恥ずかしくて人にたずねる勇気もなかった。
今日のあなたは、少し強くなった。
そんな今日の、
あるがままのあなたでいい。

しんじるられるものは
とおくになくて
ちかくにある

それはあなた自身だと
私は思う。

すこしでも
からだをうごかせるなら
自分の意思で動きはしない他人より
自分自身のほうがすこしは信じられる。

すこしでも心をかえることができるなら
自分の意思で心を変えることのできない他人より
自分自身の心のほうが少しは信じられる。

すこしでも自分の意にかなう物が身近にあるなら
手の届かない物のことをどうこうしようと考えるより
身近なものの存在もあるがままうけいれて
それを信じて、自分とともに生かすように・・・

すこしでも話を聞いてくれる身近な人がいるなら
その人をあるがままに受け入れて、
自分とともに生かすように・・・

・・・

あなたが神にすがろうとおもうなら
あなたの中の信じられる絶対的存在に気がついて欲しい

あなたが宗教にすがろうと思うなら
あなたのなかの信じられる
倫理や道徳に気がついて欲しい

あなたが哲学にすがろうと思うなら
あなたの中の信じられる
正しさに気がついて欲しい

あなたにとって、あなたほど信じられる人はいないと思う。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
自己の確立は難しそうですが、やはりそれしかないのでしょうか。
今は自分が信じられないのです。

お礼日時:2006/10/12 07:09

鬱病は完治する病気である。

 鬱病の専門医師は言います。 まず、下記のURLを参照してみてください。 あなたならきっと、鬱病を克服することができると思います。

***

参考URL:http://www.so-net.ne.jp/vivre/kokoro/
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そう信じて治療していますが、器質的な鬱ではないために認知を変えていくしかないようでそこに苦労しています。

お礼日時:2006/10/12 07:11

今週の「そのとき歴史は動いた」(NHK)で細川がラシャをやってい


ました。
過酷な環境で欝になり、そこからどう乗り越えどう生きたか。
とても参考になりました。
今の世の中ストレスの多く戦国時代に優るとも劣らず過酷な社会だと
思います。
私はクリスチャンですが、若い頃むさぼるように易しい仏教の本
を読みました。
結論は、どう自分を受け入れるかだと思います。
欝でお辛いでしょうけれど、何でも良いから分かりやすいお経の本とか
欝をどう乗り越えたかの本を読むと、少し希望が見えてくるのではない
でしょうか。
最後に到達する心境は「天は自ら助くるもの助く」です。
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この回答へのお礼

鬱の克服記などは何冊か読んでみました。
お経の本ですか。何か探して読んでみようと思います。

お礼日時:2006/10/15 00:10

私は無神論支持者なので、どこの宗教が良いとか言うことはできませんが、


「もう何かの力を借りないと歩けない」と本心からそう思っていて、家族も友達も、
ちょっと顔見知りの人も、インターネット上で出会う人たちもその「何かの力」にはならないと本心からそう思うのであれば、
宗教に頼るのも良いのではないでしょうか?
どこだって良いと思います。例え、詐欺を行う宗教だったとしても、あなたを歩けるようにしてくれるのであれば良いのだと思います。
詐欺はさすがにしたくないと思えば、大きな宗教団体の門を叩いてみればいいじゃないですか。
とにかく、まず動き出すことが必要だと思います。
そして、人間同士のコミュニケーションに慣れていけば良いと思います。
どんどん、行動して、色んなことを考えて、色んなことに感動して、色んなことにムカついて
・・・そんな毎日を送るうちに心の風邪は記憶の片隅に追いやられて行くのだと思いますよ。
そういう場を提供してくれる団体の一つが宗教団体かもしれないとも思うので、
本当に選択肢が見つからなくて苦しいのなら、何もしないよりは経験してみた方が良いと思います。

最初の一歩はとても勇気のいる一歩だとは察しますが、
いつまでも、同じ生活と同じ苦悩では明日の夕焼けの色を想像することも困難でしょうし
・・・とにかく、動きだすこと!まずはそれからです。
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この回答へのお礼

周囲には様々な人が居て、直接的じゃないにしても色々力になってくれます。
自分が鬱だということは両親と一部の友人しか知りませんが、ただ単に人間としての付き合いをしてもらえるだけで大変助かっています。
でもやはり鬱の原因が自分と自分の状況にある限り他人の助けだけではどうにもなりません。
もっと根本的に自分を変えられないと。
とりあえず身近な宗教で悪評の少ないものを探してみようと思います。

お礼日時:2006/10/15 00:22

私は哲学は信じられると思います。


といっても私も哲学の難しいことを分かっているわけではないです。
けどなぜか哲学は心の支えになっています。

あとは無難なところではキリスト教ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

哲学はどんなものがいいでしょうか。
まったく無知なためわかりません。

キリスト教は一度親に連れて行かれました。
その時は鬱の全盛期で逆に辛かったのですが、今なら受け入れられるかもしれませんね。

お礼日時:2006/10/15 00:25

makeinuwaon様、このネームを入力しながら哀しい気分になりました。


あなた様は決して負け犬などではありません!
現に、病気と3年も闘っていらっしゃる。
そしてこの様にgooで堂々と御自分の状態を告白し、何とか乗り越えたいと勇気を出して助けを求めておられる。

御自分の苦痛がどこから何のために来るのかが分からず、苦しんでおられるのだと思います。

人はどんなに苦しくても、その苦痛の原因と解決法が分かっていれば、なんとか乗り越えられると思います。

病気の原因が器質的ではないとのことですので、後は御自分の内面の問題になってしまい、人生の捉え方そのものと関係してくると思います。

生き方を真摯に考え、どの時代にも、特に現代に通用し、どの宗教とも本質的な部分で対立しないものとして、私はシルバーバーチの霊訓を読まれることを薦めます。

1巻から順に読んでみてください。
きっと、目と心に光りが差し込むことと思います。

シルバーバーチの霊訓 1巻 潮文社刊

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4806313 …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
自分は社会的に言えば負け犬だという気分を払拭できず、苦しんでいます。
病気に勝った時、一つ成長して人生に希望も見出せるのかもしれませんが、鬱病に敗北することはイコール死です。
そうならないように出来る限りのことはしてみようと思います。
そう思えるまでには回復しました。
本、是非読んでみたいと思います。

お礼日時:2006/10/15 00:14

 私に言えるのは、心の病の時は、「何故」「どうして」と考えないことです。


 思考は刃です。何故は次のなぜを呼び、更に心が重くなったり、自分を傷つける思考に発展します。
 まず、問題は死ぬまで起きるんですね。だから、死ぬ時まで心が平安ということはありえないんです
ね。変えられるのは、問題と自分との関係です。問題を消すのではなく、問題と上手に付き合えるコツを学ぶと良いと思います。
 質問者様の気持ちは良く分かります。心というのは、常に理解されることを求めています。心がありのままの形で理解されると、理屈関係なしに、心がふくらむんですね。安心するんです。
 ですから、私は強いうつなら、何かを信じても難しいのかなと思います。
 こうこうこういう信じるものがある。だから、従って、あなたは生きなさいということがすごくうつの人には堪えると思うんですね。
 私は、「迷う心の整理学」や増井武士さんの本を読んで実践することを私はおし勧めします。

 まず、

1.リラックス(深呼吸をします)

2.今の自分が抱えている問題や気がかりなことを指折りながら一つひとつ点検します。そして理屈や
関連付け、この問題とあの問題との因果関係はなどという分析は一切しないことです。思考してはいけ
ません。評価してもいけません、また、自分の性格がどうだからというような、何かのせいにすること
もしてはいけません。気になっていること、気がかりなことは、どんな小さいことであれ、そういう自
分がいるのですから、それを大事にするのです。こんなことも気がかりだ、あんなことも気になってい
ると虚心に自分の心の悩みを点検していきます。それを持っているもの、それが自分だからです。そう
いう自分を大切にするのです。

3.深呼吸を度々いれます。そうすると、心の圧力が低下します。

4.出尽くしたら自分に、まだ気がかりなことはないかな~と問いかけます。そうすると、またあぶく
のように気がかりなことが出てきます。そうすると、心の圧力が低下します。

5.これが終わったら、そういう問題を抱え込んでいる自分をそこに置いたつもりで、自分が適当と思
うところに、身体を実際に動かして、いろいろな問題を抱えている自分をそっと1、2分眺めます。そ
うすると、感想が生じてきますが、それはそっとそのままにしておきます。

6.これをまた、最初から繰り返します。三回くらい繰り返します。
大体20分くらいで終わります。

 これを朝晩やるのですが、実はまだ先があります。まずこれだけでも問題と自分との付き合い方が変
わっていきます。問題に振り回されにくくなるのです。ちょっと時間を置いて、次の方法を書き込みま
すね。
 それから、うつは急にはよくならないんですね。前より少しましという感触を得たら、それが大前進
なのです。いきなり、さあ全快という風にはならないんですよ。良くなりつつ、また悪くなったり、でもその悪くなる期間が少しでも短縮されたら、それが良くなっているということなんですよ。
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 続きです。


 心の病で大切なのは、「理解されること」によって心が安らぐことが少しでも実感し、心がふくらむことを経験し、そうすることによって、こころが本来持つ人間の持つ自然に良くなろうとする自然治癒力を促しやすくなる状況を生じさせることがカウンセリングなんですね。言葉ではなく、言葉の底にある「心」の理解とそれを聴くということが大切なんだそうです。

 うつというのは、本来自分が自分でありたいということを願う心のありようなんですね。ですから、そういうことを理解するだけで、少しでも改善される場合があるそうです。

 それでは、ステップ2です。これは、どうしようもない気持ちにやり場を与えるものです。問題は常に心のやり場を求めているので、納まり場所を与えてあげるのです。最初のものがステップ1です。

1.ウォーミングアップとして、何回かステップ1を繰り返します。言い忘れましたが、ステップ1をする時に2度目にする時は、全く前のことは忘れ、「今、ここで、私が」気になること、悩んでいること、心の差し障りにあることを数え上げます。さっきで出て来たとしても、また同じことが出てくれば、やはりそれを数え上げます。

2. リラックス再び深呼吸をして、心身をリラックスさせます。

3. 行き場の問いかけ、「今、ここの私」が気になっていること、問題だと思うこと、気がかりなことは何かな、と問いかけ、浮かんできた問題に対し、「問題さん、問題さん、いったいあなたはどこらあたりに行きたがっているのかな?と問いかけ、しばらくの間、問題が動き出すまで待ちます。

4. 「行き場の発見」:動き出してある程度、最初は50パーセント納まりが良いと確認できたら、いち
おうそこにおきます。最初からピッタリの場所が見つかるのは難しいです。机の上でも、車の中でも、
どこでも構いません。

5. 深呼吸:一つ「置き場」が見つかるごとに、深呼吸をします。

6. 再び尋ねます。次にまた浮かんでくる問題に行き場を尋ね、そこに置きます。そして、ある程度問
題が出尽くし、置き場所に置けたら、ステップ1のように、いろいろな問題を抱えているいろいろな場
所に置いた自分を、少し身体を動かして、そこから自分を数分眺めます。これを何回ができれば繰り返
します。時間がなければ、一回でも良いですし、途中で止めても構いません。ステップ1のように、前の問題や気がかりを全部消して、新たに「今、ここの私」が気になっていることの行き場所や置き場を見つけて見て下さい。前回と同じものや異なったものが出てきます。それはそれで構いません。

 まだあります。これはステップ5まであります。

 私は、これを、「迷う心の整理学」増井武士著、講談社現代新書、から抜粋して書いてます。何度かいろいろな人に紹介しましたが、感謝されることが多かったので、良かったら買っても六百円ちょっとですし、図書館にもあると思いますから、必要に応じてコピーするとか、注文するとかすると良いと思います。
 また、「職場の心の処方箋」誠信書房、増井武士著に書いてあることも少し参考にしました。どれも分かりやすく書かれてありますので、良かったら、参考になさって下さい。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
考えないことですか・・・。
自分にとって考えないことは誤魔化すことであって、逃げだと感じていたのですがその結果がこのざまですから今は何も考えないようにするのがいいのかもしれませんね。
具体的な方法や本などの紹介ありがとうございます。
一度試してみようと思います。

お礼日時:2006/10/15 00:17

こんにちは。


mogurayamaの周囲にもうつ病の方々がおります。つらそうです。
しかし、私自身がうつ病を経験してないので
そのつらさや苦しさを完全に共有することが不可能です。
ごめんなさい。
なので、哲学や宗教が万人にとって
「救い」や「よりどころ」となるかのみを考えました。
(哲学板への質問ですし・・・)



~私は弱すぎて、もう何かの力を借りないと歩けないのです。~

これは誰も皆同じだと思います。
人という生き物は共同体の上に自身のアイデンティティを確立します。
そして、他者がいないと生きてゆけない生き物なのです。
周囲や昔の自分さえ、くらべっこの対象とします。
くらべっこの対象をいつでも欲するのです。いないとさみしいのです。
他者が自分を育むのです。
それに気がつかず自分の努力とその功績のみが自身を支える
唯一のものだと考える人が多数を占めているように思います。
そしてそんな風にして颯爽と人生を謳歌している人たちを
羨んだり、自分と照らし合わせて落ち込んだりするのです。

なので、最初に
何かの力を借りないと歩けないのは「恥」ではありません。
そこをまず把握ておきましょう。
あなたはそのことを知っているだけなのです。
人は、お金の力や道具やイデオロギーや友達や過去の経験など
何かの力を借りないと歩くことすらままならないのです。
mogurayamaも同様です。

さて、そんなわけで、人はいろいろなものに救いを求めたり
すがったり、依存したりして生きています。
もちろん宗教に入信したり、哲学すること・・・
そしてそれを他の人々に伝達することや共有することを通して
自身の生きるモチベーションを保つ人もいます。

makeinuwaonさんは、それの人達になりたいわけですね。
ならばキリスト教などが楽かもしれません。
なんてったって「信じるものは救われる」のですから。

しか~し、ここで大事なのが2つあります。(宗教について)

一つ目は
「救われる」というのは、makeinuwaonさんが「救われた~」って
思わなくては、「救われた~」って実感できないのです。
つまるところ「救われる」というのは客観性のあるものでなく
あなたが「救われた~」と感じない限り
「救われる」にはならないのです。
お弁当を電子レンジでチンすれば、あったかくなるように
キリスト教を信じれば、すぐに救われるわけではないのです。

なので、まずはあなたがどんなときに少しでも
「救われた~」と感じるたのか。自信を感じるのか。
生きているなかで面白さを感じるのか。等々。
もう一度自分で見つける必要があると思います。
他の誰でもない、あなたが「救われた~」と
感じる必要があるわけですから。

二つ目は
「信じる」というところですね。こっちは更に重要なところとなります。
これも先ほどと同様で
あなたが「キリスト教」を信じる必要があります。
みんなが信じているからといって
あなたの心が信じるとは限りません。
信じてもいないものを信じることは不可能です。
そして信じてみようとする行為は中々に難しいことなのです。
となると、
まずあなたが「信じるにあたいするものを見つける」必要があるわけです。

そしてこれは更に更に非常に難しいことなのです!! 
無条件に理解できるもの、真理とできるもの、正しいものとは何か
これを探すことが哲学の始まりと言えます。

(哲学について)

なので哲学を心のよりどころにするのは   
真理を探求することを心のよりどころにすることになります。
これは、よりどころと言うよりは遥かに途方もなく、更には
救いのない作業に思えます。
哲学は全てに絶望するところから始まるようにも思えますし・・・
しかし、No5さんがおっしゃいますように
哲学の世界に足を踏み入れることは不思議と私自身の支えに
なることが多いです。
少なくとも哲学史や哲学の世界に興味がある人は
必ずそれを実感していると思います。
考えることが好きなあなたには向いているかもしれません。
哲学は考えることを放棄できません。
(宗教は考えることを放棄して、信じることを放棄できませんね。)

幼い頃に思った、「人はどうして死ぬのだろう」とか
「正しいことってなんなのだろう」とか
「世の中ってどうしてこんなに不平等なんだろう」とか
「人って何なのだろう」とかありますよね。

大の大人たちが真剣にそんなことを考え続けた歴史があります。
それが哲学史です。


宗教にはまるにしても、哲学の世界にしても
あなたの心がそれを「救われた」と感じない限り
あなたの心は「救われた」と思いません。
他の人が、あなたが救われているかを勝手に決めるのではありません。
あなたしか、あなたを救われたかどうかを知る人がいないのです。

逆説的に言えばあなたの心が「救われた」と思われるのであれば
宗教や哲学でなくても、とろろ蕎麦でもゆうこりんでも
どんなものを対象としても良いと思います。

mogurayamaは、ソクラテスやニーチェにも、とろろ蕎麦にも、
ゆうこりんにも、興味やモチベーションを頂いております。
大げさに言えば生きる支えになっていると言えます。
小生も弱い人間ですから♪

苦しく模索しなくても良いわけですから、
見つけ出すことを楽しみにできるとよいですねヽ(´ー`)/
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この回答へのお礼

そうですね。やはり人は認識次第、心のもちようで幸せにもなれるし不幸にもなる。今は病気で気持ちが落ち込み認識が歪み、さらに落ち込みという悪循環です。
医師の治療とカウンセリングを受けまず「考える元気」を取り戻してから哲学をよりしろとして認識を徐々に変えていけたらと思います。

お礼日時:2006/10/17 06:50

(No.5の続き)まだ締め切られていなかったので書いちゃいます。

以下、あくまで 私の場合は ですが説明します。私も哲学のことが専門的に分かるわけでも何でもありません。サルトル ウィトゲンシュタイン キルケゴール ニーチェ スピノザ ルソー ショウペンハウエル などを読んでもさっぱり意味が分かりません。ただひとつ分かることがあります。どんな偉大な哲学者も 何も分からなかった ということです。どんな偉大な人間でも分からなかったことを、私が分かるわけがない。どんなに偉大な人間でも、人間である限り分かることに限界があるということです。(というか人間には分からないことを疑問に思う力を備え付けられている、というのが不思議だ。特に 存在する ということを分かった人は誰もいません)。私のようなエセへなちょこ哲学気取りの人は、そこである種の安心感を得れます。それが私の場合、心の支えです。

 本物の哲学者はそれでも考えることをやめれないそうです。幸か不幸か私は本物の哲学者ではなかった。
 考えるのはその辺りでやめておいて、その先は心の平安を求めて生きたい、とする時に私がヒントとなったのは、トルストイ、ヘルマン・ヘッセ、宮沢賢治などです。でまた、たまに哲学に戻って ウィトゲンシュタイン の 論理哲学論考 を開いて見てみるのも乙です。
 人によってはキリスト教などが心の支えになると思います。私はクリスチャンではありませんが、トルストイなどのヨーロッパ文学を読むときはキリスト教は必ず出てきますので、私もキリスト教は結構好きです。哲学者のような苦悩の人生でなく、マザー・テレサ のように自分の人生が何のためにあるのかを分かっているかのように生きた人がいます。マザー・テレサはどんな人でどんな風に生きたのだろう。どうしてそんな風に生きれたのだろうと思ったりもします。

 私の経験からいくと、現代社会のことはあまり考えず、昔の人のことを考えるのがいいと思います。
 まとまらない文章ですが、何かのヒントになればと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そういえばそういう昔の人の営みに触れる機会は少なかったように思います。
私も徹底して哲学をするような人間にはならないと思います。
でも、哲学を道具にして心を変えられる可能性があるなら試してみようと思います。具体的な例を出していただいて色々助かりました。

お礼日時:2006/10/17 06:53

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