晩年武蔵は、五輪の書って残しましたよね。それに対しての現在発行されている。解釈に関する本が興味があります。ご存知の方、紹介してください

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (4件)

すでにお読みになっておられるかもしれませんが、推薦書として次の3冊を挙げておきます。



1.宮本武蔵著 魚住孝至校注『定本 五輪書』(新人物往来社、2005年)

2.魚住孝至著『宮本武蔵 日本人の道』(ぺりかん社、2002年)

3.魚住孝至『宮本武蔵』(岩波新書、2008年)

宮本武蔵について理解を深めるには、やはり晩年の集大成である『五輪書』を熟読・味読することが最良の方法だと、私も思います。
ただし、武蔵自筆の『五輪書』(原本)は所在不明で、現在出回っているのは「細川家」などに伝わる幾つかの「写本」をベースにしたものであり、「写本」によって異なる箇所も散見されるようです。
意外なことに、『五輪書』はきわめて著名な文献であるにも拘わらず、現在に伝えられる複数の「写本」を相互にチェックし、誤写の訂正などの作業がきちんとなされていなかったとのことです。
『定本 五輪書』は、魚住氏が現在に伝わる「写本」を丁寧に照合し、誤写の訂正や脱落部分の推察などを行い、できるだけ「原本」に近い形に仕上げた労作です。

「岩波新書」は現時点でもっとも新しい著書でもあり、これまでの研究成果も踏まえたガイドブックとして適していると思います。

「ペリカン社」の本は、私としては「必読書」に位置づけたい良書です。文献の客観的・論理的な検討が実に丁寧で、そこから説得力のある解釈が導かれています(武蔵の出生地など)。

魚住氏の3部作をお読みなれば、『五輪書』を座右の書として折に触れて熟読・味読していくための土台ができると思います。
    • good
    • 0

現在本屋で入手できるものをいくつか御紹介します。



『五輪書』鎌田茂雄 講談社学術文庫
  全文の口語訳と解説です。おすすめです。

『実戦 五輪書』柘植久慶 中公文庫
  言わずと知れた元アメリカ特殊部隊の柘植さんです。マニアックな趣味のある方にはお勧めかも(^^;

『宮本武蔵 二天一流の剣と五輪書』一川格治 土屋書店
 五輪書については部分的な解説しかありませんが、何と言っても17代目の二天一流師範の著ですからぜひ読んでみてください。

『五輪書』大河内昭爾 教育者
 現代語訳のみ。お手軽です。柳生宗矩の「兵法家伝書」も付いています。
    • good
    • 0

レクチャー『五輪書』 - 宮本武蔵の自己管理術


童門冬二 著
(株) 六興出版 -tel- 03-943-3431
昭和59年初版

が家にあるのですが、現在発行かどうかはtelでお確かめください。
    • good
    • 0

岩波文庫から出ていたと思いますが(ただし、本文と語注程度で、「解釈」というご希望は満たさないかもしれません)。

岩波書店の「日本思想大系」61巻にも入っているようです(こちらは、「五輪書」というタイトルではなく、たしか「中世武道論(芸道論?)」とかいうタイトルで類似の作品もいっしょに入っていたと思います。絶版ですが、ちょっとした図書館なら置いているはず)。
とりあえず、口火を切りました。

この回答への補足

岩波文庫の買ったのですが、読破するのにもう少し時間がかかりそうです
ありがとうございました

補足日時:2001/02/13 21:33
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます
やはり図書館に通わなければいけませんか、私に理解する力があるかどうか解らないのですが是非借りたいと思います、できるだけわかりやすい本があればいいのですが・・・

お礼日時:2001/01/06 02:40

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aに関連する記事

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q【歴史・宮本武蔵の五輪書は】宮本武蔵が死ぬ1週間前に書き残されたってもう確定事項なのでしょうか?

【歴史・宮本武蔵の五輪書は】宮本武蔵が死ぬ1週間前に書き残されたってもう確定事項なのでしょうか?

どこに五輪書が宮本武蔵が死ぬ1週間前に書き残されたと記載があるのですか?

そもそも宮本武蔵は架空の人物のはず。

なぜ実在していたかのようになっていて、架空の人物なのになぜか五輪書が残されている。

どういうことなんでしょう。

宮本武蔵は複数の伝説の人を引っ付けて作られた妄想の人であると教えて貰いましたが、空想の人物は実在する五輪書を残し、しかも現存しているとなると宮本武蔵が架空の人物であるとされる通説もおかしいと感じる。

質問【宮本武蔵は複数の人物を引っ付けて作った小説なのに伝記が存在している謎を教えてください。】

Aベストアンサー

はじめまして、お尋ねされていることについて回答させていただきます。

>宮本武蔵が死ぬ1週間前に書き残されたってもう確定事項なのでしょうか

そんな説は初めて聞きましたよ。「寛永20年(1643年)から死の直前の正保2年(1645年)にかけて、熊本県熊本市近郊の金峰山にある霊巌洞で執筆された」というのが定説です。(「五輪の書」wikiによる)

>そもそも宮本武蔵は架空の人物のはず。なぜ実在していたかのようになっていて、架空の人物なのになぜか五輪書が残されている。
>どういうことなんでしょう。

架空の人物などという説は初めて聞きました。宮本武蔵自筆の書も残っていますし、同時代の細川家の書物も残っています。架空などという人は、歴史学会では相手にされないでしょう。トンデモ論ですよ。

>宮本武蔵は複数の伝説の人を引っ付けて作られた妄想の人であると教えて貰いました

こんなことをそのまま信じてはだめですよ。地球が平であるというぐらい根拠のない無責任な話です。「宮本武蔵が架空の人物であるとされる通説」なんてありません。宮本武蔵は実在したのが通説です。実在を否定する証拠など聞いたことがありません。

>宮本武蔵は複数の人物を引っ付けて作った小説なのに伝記が存在している謎を教えてください。

宮本武蔵は実在の人物です。伝記がのこっているのは謎でもなんでもありません。

はじめまして、お尋ねされていることについて回答させていただきます。

>宮本武蔵が死ぬ1週間前に書き残されたってもう確定事項なのでしょうか

そんな説は初めて聞きましたよ。「寛永20年(1643年)から死の直前の正保2年(1645年)にかけて、熊本県熊本市近郊の金峰山にある霊巌洞で執筆された」というのが定説です。(「五輪の書」wikiによる)

>そもそも宮本武蔵は架空の人物のはず。なぜ実在していたかのようになっていて、架空の人物なのになぜか五輪書が残されている。
>どういうことなんでしょう。

...続きを読む

Q宮本武蔵の言葉 『五輪書』

ドイツ人の知人から次のような宮本武蔵の言葉の原文(日本語)を教えてほしいと頼まれました。
おそらく『五輪書』の翻訳から抜粋したものと思われます。
手元に『五輪書』がなく、ネットでも検索できないため、次のような内容の武蔵の言葉をご存じの方は原文(現代訳でかまいません)を教えてください。
宜しくお願いします。ちなみに()は直訳です。

Arbeite hart.
(職務は困難だ)

Sei bescheiden.
(謙虚でいろ)

Versuche mit aller Kraft deinen Geist zu kulivieren.
(全力で精神を鍛えてみろ)

Aベストアンサー

こんにちは。

次のサイトで調べられてはいかがでしょうか。

http://yururi.aikotoba.jp/samurai/spirit/gorin.html

Q豊臣秀吉の晩年(朝鮮出兵時)は発狂していたのか?

『豊臣秀吉は天下統一を果たした。
その後秀吉の野心は尽きることなく、世界征服をもくろみ、まず
朝鮮に兵を送った。』

誇大妄想にとりつかれた秀吉は、発狂状態だったと言われています。
しかし、歴史研究者によると、秀吉が海外に兵を送ったの目的は、
増やしすぎた兵たちの仕事を作るため、そして褒賞として与える土地が
日本にはもう無いため、やむなく海外にそれを求めたという説があります。

なるほど。そう考えると納得のいく理屈です。
しかし、ここでひとつ疑問があります。
「秀吉の死後、急に朝鮮から兵を撤退したのは何故でしょう?」

秀吉が死んでしまえば、「もうこんな無茶な命令を聞く必要ない」と
側近が判断したのであれば、やはり朝鮮出兵は秀吉の独断による部分が
大きいと言えるでしょう。
朝鮮出兵に対して、秀吉の頭の中で合理的な目的があったにせよ、それは
周囲に理解しえないものだとすれば、やはり秀吉個人の誇大妄想と言えます。

秀吉死後、その家臣たちが朝鮮出兵を諦めたのは何故?
秀吉は狂っていたのでしょうか?

Aベストアンサー

私は、皆様と少し意見が違います。

現在の私たちが、周囲の武将が反対しているにも関わらず、秀吉がとち狂ったように朝鮮への出兵を決行したと思ってしまうのは、その朝鮮出兵の事が書かれた古文書などの影響による者ですが、それらの文献はほとんど江戸時代に書かれたものです。
つまり、敗戦した後に書かれているのです。
失敗したプロジェクトに対して、「僕ははじめっから成功しないと思ってたんだよね」なんて、あとになって言うのは、今の企業にだってよくある事です。
失敗したプロジェクトの全責任は、それを推進したトップにあるものですし、まして、その先代に代わってトップとなった人なら、先代の失敗を、これでもか!と、悪く書くに決まってますからね。
そして、「自分は、うまくいきっこないと、はなから思ってた」とも付け加えるんです。
おそらく、当時は、秀吉も他の武将も勝つと思って戦いに挑んでます。
当時は、四国にも九州にも橋は架かってませんから、秀吉は、そのどちらにも渡海して平定していますし、当時は現在のように、日本が一つの国という認識はなく(この感覚は江戸時代でもそうです)、独立国家の集合体のような形でしたから、四国や九州の延長線上に、大陸があった可能性も否定できません。
さらに、四国の長宗我部に対しても、九州の島津に対しても、根絶やしにしてぶっ潰すという方法ではなく、その土地のトップを傘下に加えるという方法で平定しています。
それが、秀吉のやり方です。
その方法なら、相手が広大な土地を持つ大国でも、可能性はあったかも知れません。
秀吉は、この朝鮮出兵の時、揃って京都を出陣する隊列の一番先頭を前田利家隊に進ませます。
その次は徳川家康隊、3番目が伊達政宗隊・・・これらの隊列が京都の群衆に見送られて出陣しますが、これは、ひとえに国内に対して、前田家や徳川家などの強大ば家柄の武将が、秀吉の傘下に入っている事を強調するためですが、逆に、前田利家や徳川家康を、実際には渡海させる事はありませんでした。
実際に、朝鮮半島で先頭になって戦ったのは、羽柴秀勝や小早川秀秋・宇喜多秀家などの親族に近い武将や、加藤清正や福島正則と言った子飼の家臣です。
なぜなら、もし勝ったら恩賞を与えなくてはいけないからです。
勝利のあかつき、親族が子飼の武将に大量の恩賞が与えられ、利家や家康のような、豊臣家をおびやかすような者には、一文たりとも恩賞を与えなくてすむからだと思います。
なお出兵理由については、質問者さんが書かれている、すでに国内には功績があっても与えられる領地がなくなってきていた事に加え、大航海時代に突入して、ヨーロッパからのアジア侵略が現実的となってきていたからだと思います。
そして、最後に
「秀吉の死後、その家臣たちが朝鮮出兵を諦めたのは何故?」
これは、天下人のイスが空いた事で、次に誰がすわるのかをモメなければならなかったからです。
外国に出兵する時に、最も必要な事は、国内の実権を自分が握っていなけらばならない事なわけで、それもないのに、外国で戦っても意味がありません。
秀吉が亡くなったら、その後継者は秀頼という事になりますが、ご存知のように、秀頼は幼いですから、たとえ秀頼を看板にすえていても、実権を握るのは、そのサポートをする有力武将。
そのイス取りゲームに一刻も早く参加しなければならないので、家臣たちはいっせいに帰国したのではないでしょうか。
というふうに想像しています。
あくまで私見ですが、
なので、「秀吉は狂っていたのでしょうか?」の質問には、個人的には「NO」と答えさせていただきます。

私は、皆様と少し意見が違います。

現在の私たちが、周囲の武将が反対しているにも関わらず、秀吉がとち狂ったように朝鮮への出兵を決行したと思ってしまうのは、その朝鮮出兵の事が書かれた古文書などの影響による者ですが、それらの文献はほとんど江戸時代に書かれたものです。
つまり、敗戦した後に書かれているのです。
失敗したプロジェクトに対して、「僕ははじめっから成功しないと思ってたんだよね」なんて、あとになって言うのは、今の企業にだってよくある事です。
失敗したプロジェクトの全責任...続きを読む

Q【日本史・いま残っている日本人は昔の豪族の子孫しか残ってないので自分の過去を調べたら確実に偉人の子孫

【日本史・いま残っている日本人は昔の豪族の子孫しか残ってないので自分の過去を調べたら確実に偉人の子孫に当たる】


貧乏な家系はすでに死に絶えたので、いま残っている人たちはみな豪族の子孫ではと思うようになった。

NHKの歴史ヒストリアで芸能人の過去を遡って調べたら裕福な家庭ばかりだった。

貧乏な家庭は結婚できなかったのでもう子孫はおらず、子孫が残り続けるのは財力がある家系だけだった。

で、いまは過去に偉人で儲けたけど、公務員とかになって子供は自分の力で稼がないといけない今の時代は富豪から墜落者が次々出て来て、3世代で代が終わる。

経営者は子供に自分の会社を上げられるのでアホでも結婚が出来て子孫も残せる。

けど会社が潰れたら公務員と同じ。

子供に世継ぎを用意出来なかった家系が金持ちから転落して労働者に落ちていく。

労働者に落ちた父親が産んだ子供は世継ぎがないので貧乏な家系となる。運が良ければもう一度経営者になって這い上がることはできるがこれは稀である。

よっていま親が経営者でなく子供に世継ぎ出来るポストを用意出来ない金持ち連中は自分の子供が労働者に転落して自分がいま労働者から搾取して遊んでいる金が今度は自分の子供が搾取される側になる可能性があることを忘れたらいけないと思う。

さらに、いま少子化で全然子供がいないので労働者が不足している。

ということは富裕層ではないけど一般家庭の中流層と言っている人間たち親たちの子供が次の代の労働者に降りてこないといけなくなる。

貧困層は結婚も子供も産めないほど貧しいので子供がいない。

よって我が家は一般家庭。富裕層じゃないけど貧困層ではない中流層だと思っている家庭が1番危ない。

自分が大事にしている子供が貧困層。労働者に転落させられる候補1番だと思うべきだと思う。

ということで経営者の富裕層ばかりに頭をペコペコしていると自分は助かるけど周りは知らんと周りに無関心でいると周りとは実は自分の子供のことだったというオチに気づくのも時間の問題だと思う。

貧困層は結婚できないし子供も産めないので代が途絶えていっているのは今も昔も変わらないので今、存在している人に凡人はいない。

先祖は有名な豪族に行き当たる。

違いますか?

うちの祖先は有名な呉服屋だったんだ!とかうちの祖先は有名な繊維メーカーだったんだ!とかうちの祖先は有名な武将の家系だったんだ!とかに行き当たるのは偶然ではなくそうでない家系はもう途絶えていると言う方が正しい気がする。

うちは祖先は普通農民で。とかないと思う。うちの祖先はこのへん一帯の土地を持っていた農民だったんだ!とかはあり得るけど小作農が祖先とか。

うんこ取りが祖先とかもう途絶えてないと思う。

うんこ取りの元締めだったとかはあると思うけど。

ということは子供に席を譲れない公務員という職に親が着くのが公務員は安泰だというが子供は1番苦労すると思う。世継ぎが出来ないから。

アホでも職人が親なら親が教えて子供もその職になれるが公務員はなれないので公務員は絶対にならない方が良いと思う。

家系を潰して自分の代だけリッチに生き死にたいのなら良いが公務員で子供がバカだと生き地獄になる。

一家離散どころか家系断裂になる。

歴史から見て公務員になるのは危険な橋だと分かる。

【日本史・いま残っている日本人は昔の豪族の子孫しか残ってないので自分の過去を調べたら確実に偉人の子孫に当たる】


貧乏な家系はすでに死に絶えたので、いま残っている人たちはみな豪族の子孫ではと思うようになった。

NHKの歴史ヒストリアで芸能人の過去を遡って調べたら裕福な家庭ばかりだった。

貧乏な家庭は結婚できなかったのでもう子孫はおらず、子孫が残り続けるのは財力がある家系だけだった。

で、いまは過去に偉人で儲けたけど、公務員とかになって子供は自分の力で稼がないといけない...続きを読む

Aベストアンサー

>貧乏な家系はすでに死に絶えたので、いま残っている人たちはみな豪族の子孫ではと思うようになった。

↑の根拠は何でしょうか。
まさかとは思いますが、質問文で語っている「歴史ヒストリア」の内容がそれだと仰るのでしょうか。

そもそも、家系を遡れるものしか出演させていないのでは?


それに、質問者様は今時NHKを無条件で信じているのでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=JLsqGC0Kd70

Q【日本史】「織田信長が豊臣秀吉を秀ねずみと呼んだ記録は残っているが猿と呼んだ記録は残っていない」 な

【日本史】「織田信長が豊臣秀吉を秀ねずみと呼んだ記録は残っているが猿と呼んだ記録は残っていない」


なぜ記録にないのに豊臣秀吉は織田信長にサルと呼ばれていたという話が広がったのでしょう?

Aベストアンサー

信長が猿と呼んだかどうか記録に無くとも、以下の通り多くの文献に秀吉は猿のような風貌をしており、多くの人々から猿と呼ばれていたことが記載されている。 よって、直属の上司である信長が秀吉を猿と呼んだことは想像に難くない。

『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『懲毖録』)。ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」に由来するという説もある。また山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある。

信長が猿と呼んだかどうか記録に無くとも、以下の通り多くの文献に秀吉は猿のような風貌をしており、多くの人々から猿と呼ばれていたことが記載されている。 よって、直属の上司である信長が秀吉を猿と呼んだことは想像に難くない。

『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報