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"李・[金禺]"(り・ぐぅ)(朝鮮読み:イ・ウ)[金偏の一文字]は、広島原爆で死亡し、その告別式の経緯が、何時、何処で、どのようにして行われたのか?戦後敗戦の混乱時期に於いて、皇室待遇の国葬を行われたと聴いて降り、日本の対応として朝鮮侮蔑とは、言えないような行為を行っていたと思います。詳細をお教えください。

A 回答 (10件)

 李鍝公については本当にわからないですね。

ネットでちょっと調べてみましたが・・・・。
 韓国ネットのチャットより要約すると次のようです。
 「葬儀は8月15日玉音放送直後の午後1時から京城東大門運動場にて行われ、阿部総督以下各界要人が参列した。」
 内地からは皇族方は参列されていないようです。時期が時期だけに無理だったのでしょうね。当時としては、できる限りのことを精一杯したという印象です。
 なお殉死した副官は 吉成弘 中佐ということです。
 同ネットには同殿下の写真も出ています。
 すでにご存知でしたらごめんなさい。

参考URL:http://www.geocities.com/naversaid/KRoyals01s/
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この回答へのお礼

有り難い資料です。
ご連絡遅れまして済みませんでした。

お礼日時:2006/11/27 10:29

>李王殿下とは、どの方を指すのでしょうか?・・・


 李王垠殿下です。
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この回答へのお礼

有難う御座います。
李・[金禺]氏の詳細はご存知ではないでしょうか?
李・[金禺]氏に関するものが余り見当たらないもので...

お礼日時:2006/11/17 08:19

NO.2です。

NO.7さんの
>竹田宮に対してよりも、むしろ李殿下への対応のほうが丁寧というか・・・について、私は次のような推測をしています。

 NO.2でも申しましたように、正式には李王殿下は王公族の王で皇族に準じる処遇でありましたので、厳密いえば皇族ではなかったわけです。もちろん皇位継承権はありません。
 しかし当時の軍関係者が「李王さんに対しての方が竹田の宮さんより丁重であった」のは、李王さん、竹田の宮さん、それぞれ個人の人柄などから来るものが多かったのではないかと思います。
 竹田の宮はスポーツの宮様として有名でしたが、皇離脱後JOCの委員長になる前は東龍太郎委員長(後都知事)の下に居たことがありました。このとき東氏が竹田の宮さんのことを「竹田君」と呼んでいたのを聞いて、あれっと思ったことがあります。
 竹田の宮さんは陸軍時代も少壮参謀として積極的に活躍され、また戦後もスポーツ界に対するご尽悴ぶりは周知の通りで、一般人とも積極的に交わり、えらぶったところが一つもないお人柄であったように思います。
 李王さんのお人柄は詳しくは存じませんが、遇し方について軍上層部からの厳しいお達しがあったのではないかと想像します。なにせ世が世であれば大韓帝国皇帝であった方ですから、朝鮮の民心のことも考え国の上層部は気を使っただろうと思います。
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この回答へのお礼

色々なご意見有難う御座います。
李王殿下とは、どの方を指すのでしょうか?

お礼日時:2006/11/15 08:33

ちょっと遅すぎで、しかも参考になるか分かりませんが…。


王族である李殿下と、皇族である竹田宮殿下(恒徳氏)は、日華事変の際、ともに中国北部の山西省第一軍に赴任しています(時期は一緒ではありません)。当時の関係者の証言を読んで少し意外だったのが、竹田宮に対してよりも、むしろ李殿下への対応のほうが丁寧というか、粗相のないような(腫れ物にさわるような)対応をしていたと感じられることです。年齢や職責・階級だけでなく、皇位の関係もあるのかもしれません(竹田宮より格上なのでしょうか?詳しい方のレスをいただければ)。
ご参考までに。
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NO.2です。

これは特に回答と言うほどのものではありませんが。
 質問者さんが日本人の朝鮮韓国人に対する侮蔑、あるいは差別の意識や行動についてのお調べの一環として、今回の質問をされたのであれば、政府の行う公式の行事から表れてくるものと、一般の民衆の意識とは同じではないということを言っておきたいと思います。
 現在の国の施策において、朝鮮韓国人に対する差別は原則的にないと思います。国籍が違うが故の日本人との差は当然ありますが、帰化すればなくなります。被差別の出身者についても同じことが言えます。国の施策では差異はないのですが、一般庶民の感情はまた違います。
 このような一般庶民の意識や感情は、現在においても少なからず残っており、年配者になるほど多く持っています。また年代を遡るにつれて多かったことは間違いありません。
 こういうことは書いたものを読むだけでは、なかなか把握しづらいものです。年寄りの話を数多く聞いてそこから類推するのが一番間違いがないかも知れません。
 私の母親は生きておれば98歳ですが、若い頃は大陸に住んでいましたが、いわゆるシナ人一般民衆に対する見下し方には相当なものがあったようです。
 いやあー、回答者さんがとっくにご存知のことをくどくどと言ってしまいました、ごめんなさい。
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この回答へのお礼

どうも有り難う御座いました。
差別と区別の感覚ですね。
正直、偏見からの差別意識は、人間なら当然持っているんでしょうね。
私は、差別意識は有ります。それ自体が差別に当たるのであれば、私は、愚か物なんでしょう。
しかし、朝鮮人の皇族を終戦間際の混乱期に国葬として持て成した当時の日本国は、厳粛なる国家であったと思います。

お礼日時:2006/11/13 10:22

 No4です。

 気を悪くしているのではなくて、誤解をなさっているような気がしましたので、参考意見として投稿させていただきました。

 一般に日本人は、日本人を親として、日本と言う国土に生まれ、日本人と日本文化にどっぷりと浸かって育つために、日本人としての強固な民族性を身に付けていながら、民族のアイデンティティに対する意識・理解が極めて希薄です。(最近は、外国人も多くなり、少し違ってきていますが・・・)

 ですから、海外に行って生活を始めたとき、初めて日本人としての自分を意識することになったりします。(私の場合ですが・・・)

 違う民族国家が国境を接接していたり、国内に多数の民族が住んでいるのが普通の大陸国家の人々は、身近に他の民族と生活を接しながら共存し、民族としての存在を一人一人が意識しながら維持しています。(紛争も多く生まれていますが・・・)

 大陸国家では、他民族に政治的に支配されたり、経済的に搾取されながらも、民族としてのアイデンティティを持ち続けるている(そうでない民族は、すでに歴史上から姿を消しています。揚子江より南の漢民族の多くは、漢民族化した異民族と言われています。)ことも多いのです。

 このような場合に、支配している民族側が主導して行なう他民族への同化政策は、個人の心のあり方を変える行為で、単なる政治的支配・経済的搾取よりもはるかに大きな問題となり、歴史上でも多くの内戦・独立運動のきっかけとなりました。これは、支配した民族側から、支配されている側に対する『融合同化』政策が、政治的・経済的支配(=社会システムの支配)よりも踏み込んだ、個人一人一人の心のあり方に対する問題と捉えられているということなのです。

 ですから、他民族の『融合同化』政策というのは、政治的には極めて無謀で危険な賭けとなりかねない政策なのです。この点についての理解がないと、朝鮮の人々の立場を理解することは出来ません。ご参考までに・・・
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 回答ではありませんが・・・質問者さんのNo1の方へのお礼に書かれている内容が気になったので・・・



 基本的に、日本の植民地政策(一応、植民地という言い方をしておきます。)が、ヨーロッパと根本的に違うのは、『融合同化政策』を取ったということです。

 一般にヨーロッパは、植民地を主に経済的対象と見ており、植民地を植民地のまま、運営していくという考え方です。

 それに対し、日本は『融合同化』によって、併合した台湾や朝鮮を『日本』にしようとしました。
 独立国家を建設した民族としての存在ではなかった台湾では、比較的平穏にこの政策が実施できました。

 しかし、日本よりも早く中国の律令制を取り入れ、国家としての形態を長く維持してきた朝鮮民族にとっては、『融合同化』が民族の滅亡を意味するわけで、知的指導者たちの命がけの大反発を招きました。
 これが、全ての出発点です。

 朝鮮民族に対してだけ、極悪非道な扱いがあったわけではありませんが、当時の日本の国内法や政治体制(治安維持法や特高警察:日本人も、多くの人が思想犯として投獄され、獄死しました。)のもとでは、政治犯に対して、人権無視の拷問などが普通に行なわれていました。
 朝鮮の民族主義・独立運動家は、こうした政治犯扱いであったわけです。

 また、現在でも感じることですが、ヨーロッパ系の人には丁寧であっても、アジア系の人に対しては見下した態度を取る人が、少なからず居ることも否定できません。

 尚、No2の方の回答に出てくる、「李方子」さんは日本人・韓国人どちらからも大変な尊敬を受けていた人です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%B9% …


  

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%B9% …
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この回答へのお礼

私の言葉足らずな、文面でお気を悪くされたのでしたら、誠に申し訳ありませんでした。今の韓国・朝鮮人ひいては、在日に至るまで(リべりスト・進歩的文化人と呼ばれる日本人)もが、日帝の一言を持ち出して、一蓮托生・全てに於いて、日本=悪辣という図式で、戦前の日本を否定しまくっていることへの不満から、思った事です。支配する側される側としての差別意識は多少なりともあったことは認めます。しかし、欧米列強による植民地政策とは全く違い、如何に日本国の一部として発展させ、白人社会と対等に付き合っていこうとした現われが、皇民一体だったのではないのかと思っておる次第です。政治犯としての拷問は、解釈できます。フセインも死刑が求刑されましたものね。

お礼日時:2006/11/08 15:49

大韓帝国の皇族は、日本の皇族と同じ扱いを受けていました。

例えば、日本の皇族の男子は全て陸軍か海軍に入り、超スピードで昇進して安全な要職を歴任しました。

大韓帝国の皇太子であった李王垠は陸軍軍人となりました。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/jinji …
陸士29期陸大35期で昭和15年12月に中将に昇進し、昭和18年には第1航空軍司令官という要職につきました。

李王垠中将と陸士同期の出世頭は、例えば有末精三中将と思われます。
(陸士29期恩賜、陸大36期恩賜)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2687/jinji …
この人は陸士と陸大で共に恩賜を取る以上は成績は最優秀であったはずですが、陸大は李王垠より1期後、昭和20年3月に中将昇進で、皇族待遇の李王垠より5年後です。李王垠が、最小の年数で陸大に恐らく無試験で入ったことも分かります。陸大に入れるか入れないかは陸軍将校の人生を左右する重大事で、入試に受かるためには体を壊すような猛勉強が必要でした。皇族はその苦労を知らずに済みました。

詳しい資料は省きますが、このような人事上の優遇は皇族と全く同等です。佐々淳行氏の書いたものの中に、
* 成蹊高等学校が陸軍に接収されて第一航空軍司令部になっていた。
* 司令官の李王垠中将専用の、赤絨毯を敷き詰めたトイレがあった。
という話があり、司令官として至れり尽くせりの待遇であったことも分かります。更に、皇族は戦死したりしないように内地勤務が原則でした。この点も同じです。
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この回答へのお礼

韓国皇族として敬意を表していたのですね。どうも有り難う御座いました。

お礼日時:2006/11/08 15:34

 NO1さんに付け足しになりますが、李・[金禺](り・ぐぅ)公は大佐までいきました。


 李王家の日本における処遇ですが、正確には皇族ではなく「王公族」でした。これは韓国併合時に定められたことで、皇族に準じる扱いでした。しかし、政府関係者は皇族並みに接していたようです。NO.1さんのおっしゃる通りです。
 昔、「皇族画報?」のようなグラビア本を見たことがあります。
 李王家の継承者である李王垠(りおうぎん)殿下は皇族方の一番最後に出ていました。王妃殿下は素晴らしい美人でしたので、「これはどういう出のお方なんだ?」と、祖父母(明治十年代の生まれ)に聞きましたら、「梨本宮家のお子様(方子女王のこと)で、朝鮮を手なづけるために嫁に行かされた。」と憤慨したような表情でした。
 政府関係者は別にして、庶民の感情はこんなもんだろうなと推測します。
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この回答へのお礼

方子様は確か、韓国で一生を暮らされ、亡くなられたようですね。どの様な待遇での告別式?が行われたのでしょうね?
韓国側も敬意をはらった物であると思いたいのですが...
李・[金禺](り・ぐぅ)公の死に対してその当時の日本国の待遇は如何なものであったのでしょう?

お礼日時:2006/11/07 12:24

黒田勝弘著「韓国人の歴史観」(文春新書)に書いてあったと思います。



うろ覚えですが、李殿下は当時日本陸軍の大佐(または中佐)でした。副官の大佐が何かの都合で李殿下の広島行きに同行せず、殿下だけが死亡しました。
副官は敗戦直前の混乱の中、殿下の遺体を京城(現在のソウル)に飛行機で運び、国葬に付したあと殿下を死なせた責任を取って自決したそうです。

なお、李殿下は皇族ですから当然皇族として葬儀が行われた筈です。一般に日本人の朝鮮侮蔑はあったと思いますが、李王家一族はいやしくも皇室の一員ですから敬意をもって接したと思います。
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この回答へのお礼

黒田勝弘さんの著書でしたか。
どうも有り難う御座います。
朝鮮人差別は、確かにあったでしょう。しかし、現在に言い伝えられている極悪非道な人間関係では無かったと考えております。戦前の日本と朝鮮の関係は緊密で融合していたんではないでしょうか?悪い事だけが、歪曲・誇張されたと最近考えるようになりました。

お礼日時:2006/11/07 11:10

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