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タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

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A 回答 (5件)

No1です


まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。
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この回答へのお礼

2度目の回答ありがとうございます。

柴田勝家と「味方陣営」の石高はどうしても分からなかったので大変助かりました。

180万石というのは正直驚かされました。
賤ヶ岳の戦いで3万の兵を動員したとされている勝家ですが、それを上回る5万もの兵を動員した秀吉はさらに多くの領地を押さえていたということなのでしょうか?

度重なる回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/18 01:08

最大版図は学研歴史群像シリーズ「図説・戦国地図帳」から採りました。

   石高は太閤検地と吉宗の検地の双方を使いました。
  概算です。
         太閤検地   吉宗検地
毛利輝元     196万石  278万石   11国他
武田信玄     129    173
上杉謙信     100    179
北条氏直     205    287   
長曽我部元親    61     91
       参考
大友宗麟     156
織田信長     812            24国他

 太閤検地は信頼性が低いので、信頼性が一番高いといわれている、米将軍吉宗の享保6年の値もとりましたが、広い地域を見るのでは太閤検地で十分のようです。
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この回答へのお礼

織田信長、812万石ですか・・・。

とんでもない石高ですね・・・。
徳川700万石でもすごいのに、さらにプラス100万石ですか。

自らを第六天魔王と称したのも納得できるものがあります。

大変参考になりました。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/18 01:41

こんばんは。


面白い質問ですね。
これまで読んだ・見た歴史書・歴史番組などから覚えている範囲で回答します。

伊達政宗…114万石(芦名氏などを破り、南奥州を制覇後、秀吉に領地の没収をされるまで)。

北条氏直…およそ240万石(秀吉の小田原攻め直前期)。

上杉謙信…最初は45万石からスタート。その後、拡大。ただし北関東などは非常に流動的で最大石高は不明。

上杉景勝…120万石(会津への移封後、関が原の戦いまで)。その直前は越後70万石だったらしい。

武田信玄…120万石(三方が原の戦い直前)。最初は20万石からスタート。家督を継いだ直後には南に兵を進められなかったのは今川(100万石)が当時の武田氏にとっては敵にまわすには大きすぎたからです。

徳川家康…関東へ移る前は134万石。関東へ移った後、関が原の戦いの時点では255万6千石。関が原の戦い以後、直接納めた領地は400万石。譜代大名の300万石もあわせ700万石が徳川家康の影響下にあったということです。これは当時の日本全国の総石高の4分の1にあたります。

豊臣秀吉…220万石(天下人であるときの石高)。実は直接治めていた領地は家臣である徳川家康より少なかったのです。

毛利輝元…121万石(関が原の戦い当時)。

島津義久は正式には当主ではなかったと思いますが、関が原の戦い当時の島津家の所領は60万石。後に琉球を加え77万石と扱われたらしい。

なお、石高を推定するのに兵力から計算するという手もあります。
兵一人につきおよそ40石です。
現代の貨幣価値に換算して400万円くらいです。
たとえば、手持ちの兵が1万人なら、領地の石高は40万石くらいだろう、という感じです。
もっとも表高と実際の石高は異なることがありますのでその点は注意。

また伊達家の場合、こっそりお米を作っていても、幕府から目をつけられないよう石高を過少申告していたそうです。
1さんのご紹介してくださったサイトでは実石高約99万石だそうですが、100万石以上はあっただろうというのが多数説のようです。
江戸時代を通じ3万人の兵力を保っていたとテレビで解説していましたので、ざっと120万石くらいはあったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました!

丁寧な回答でとても参考になりました。

各武将の石高と年代を細かく書いて頂き非常にたのしく読ませていただきました。

お礼日時:2006/11/18 00:56

学校の宿題ですか?一般的なレベルで「最大版図と推定石高」を調べるなら、ウィキペディアの情報でもだいたい分かると思いますが。

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この回答へのお礼

ウィキペディアは参考にさせて頂いていますが、それだけでは限界があったためこのサイトに投稿させていただきました。

戦国時代、大国、強国と言われた国を支配していた武将達に興味がありました。

明智光秀は本能寺の変前後にその後戦いを有利に進めるだけの領地を持っていたのだろうか。

豊臣秀吉と柴田勝家は賤ヶ岳の戦いの頃はそれぞれどれくらいの領地をもっていたんだろう。
その後秀吉はどこまで領地を増やしたんだろう。

四国、九州をほぼ手中に収めた長宗我部元親や島津義久はどれくらいの石高を有していたのだろう。

徳川家康は関東移封後250万石程になったのは有名ですが、関ヶ原後はいったいどれくらいになったんだろう。

彼らを遥かに凌ぐ広大な領地を有し、魔王とまで呼ばれた織田信長はどのくらいなんだろう。


と小さな疑問が沸いてきたのです。
分かる武将だけで結構ですので回答頂けると幸いです。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/15 21:16

太閤検地のデータを使うか、江戸時代のデータを使うのかによって違うと思いますし、一時的に占拠しただけならば版図とは言えても領地とは言わないと思うので難しいですね。



土佐一国と言っても太閤検地では9万8千石ですが、江戸時代初期で20万石になっていたりします。

新田開発された分が石高に反映されていたり、されていなかったり、そもそも実高(実際の収穫量)によるものなのか表高(申請上の数値)なのかにもよるので難しいです。

このような歴史サイトのデータを参考にしてみてはいかがでしょうか。
http://homepage3.nifty.com/ksatake/

おおよそ、これくらい?という感覚的なものはつかめるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

サイト拝見させていただきました。
おもしろかったです。

表高と内高の違いには大変驚きました。

こんなにも開きがあるとは興味深いですね。

「いつの時代のデータを使うのか」ということですが、
質問に書いてある武将が”生涯で一番石高が高かった時”
が分かれば幸いです。

早速の回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/11/15 20:58

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Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
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参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

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太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家のやり方で検地が行われ、そのデータがそのまま豊臣政権に受容されていることに気をつけてください。よって、実際より少なく申告されているはずです。

「戦国大名について、あえてその国力を石高で示した資料なりWebサイト」
とすれば、太閤検地のデータが掲載されている
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html
か、その元になった本を見るしかありません。

なお、戦国大名の財力を見る場合に、

「越後の上杉家は、当時の主力繊維である越後青苧の利益、佐渡を抑えたことによる産金の利益を得ていた。その反面、越後でまともに米が取れる地域は今よりかなり狭く、春日山城がある上越地域が中心で、今の新潟市のあたりは氾濫原でしかなかった」

「甲斐と駿河は当時の日本では金がたくさん出る所であり、これらを領した武田家と今川家はその利益を得ていた。北条家が箱根を越えてしょっちゅう駿河に兵を出していたこと、甲斐の南部の金山地帯を領する武田一族の穴山氏の勢力が大きかったのは、産金の影響があると思われる」

「商業が盛んな琵琶湖周辺と淀川流域、京と堺を手中に収めた織田信長は、他の大名とは段違いの経済力を手に入れたはず。尾張の小大名であった時から、商業の盛んな津島を勢力下に置いていた」

「毛利家は、石見銀山を支配下に置いていた。この存在はかなり大きかったらしく、『毛利は日本一の銀持ち』と外人が評した言葉がある」

「九州等で行われた南蛮貿易の輸出品は、主に奴隷が用いられたらしい。人狩りで集めた男女(特に女)の奴隷を輸出して南蛮の高価な品物を輸入すれば、それだけで商売になる」

など、戦国大名の資金源がコメ(農作物)だけではなかったことはさまざまな事実があります。

また、
「研の『図説・戦国地図帳 歴史群像シリーズ』に確か戦国大名の石高がついていました。第1位は陸奥国167万石 第2位武蔵国67万石 第3位尾張国 57万石などでした」
などと言うのは、上記の雑多なデータを寄せ集めただけの可能性が高いですから、眉にツバをつけて読むことです。「江戸時代より前の日本の経済状態は深い霧の中」、これが事実です。

太閤検地以前に、一定の基準で検地が行われてその記録が現代に残っているものはありません。ですので、「太閤検地以前については正確なことは資料がなく不明」と考えるのが妥当です。今後も、正確なことを知ることは不可能でしょう。

ですので、戦国大名の国力を推定しようとすれば、太閤検地のデータを使って判断するのが一番実情に近いであろうことになります。他の方法がない以上、仕方ありません。ただし、太閤検地であっても毛利領や徳川領では、太閤検地で採用された統一基準ではなく、それぞれの大名家...続きを読む

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佐渡、伊豆、生野、大森などの主要鉱山も直轄地ですから、全国展開していました。

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Q戦国時代の六角氏の勢力範囲と敗退原因について

 六角氏は信長に、あっという間にやられてしまった大名というイメージです。
 ですが、実態はかなりの勢力があったと思います。
 
 六角は南近江の大名というイメージですが、勢力範囲は伊勢・大和・伊賀にも
 相当あったのではないでしょうか?

 伊勢の関氏の六角氏の重臣、蒲生氏と通婚しています。当然重臣の家臣は
 主君の許可がいるでしょうから、蒲生と関氏は同格の上、関氏は六角氏の息がかかっていると
 思います。逆に、南の北畠氏と単独では対抗できませんから、六角氏を頼ったのでしょう。
 伊賀三郡も六角氏の間接支配です。

 近江は太閤検地では77.5万石と高い石高です。伊賀も支配、伊勢も石高が高く
 近江は北近江に浅井がいるとはいえ、相当な領域支配、動員が可能だったと思います。

 ついては、六角氏の勢力範囲と敗退原因についてどう考えるか、お書きください。

 (1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
   おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?
 

 (2)信長に攻められあっけなく敗退したのは、それは戦略(いつもの六角氏の)であったが
   ただ、観音寺騒動等で、家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかった
   のでは?

 どのように考えますか?
 

 
 

 六角氏は信長に、あっという間にやられてしまった大名というイメージです。
 ですが、実態はかなりの勢力があったと思います。
 
 六角は南近江の大名というイメージですが、勢力範囲は伊勢・大和・伊賀にも
 相当あったのではないでしょうか?

 伊勢の関氏の六角氏の重臣、蒲生氏と通婚しています。当然重臣の家臣は
 主君の許可がいるでしょうから、蒲生と関氏は同格の上、関氏は六角氏の息がかかっていると
 思います。逆に、南の北畠氏と単独では対抗できませんから、六角氏を頼ったのでしょう。
 ...続きを読む

Aベストアンサー

>(1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
   おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?

●回答・・・その可能性はあります。
六角氏の最盛期を築いた六角定頼の晩年と、その子、六角義賢が当主になった初期には、もしかしたら100万石程度はあったかもしれません。
六角定頼の弟は北伊勢の梅戸氏(南近江に接する北伊勢を領地にする国人)に養子に入っていますし、関氏なども六角氏につきましたから北伊勢にもかなりの勢力があったでしょう。

一つの目安として1560年に六角義賢は浅井氏と「野良田の戦い」を行いましたが、ここで2万5千人の兵力を動員しています。
豊臣政権での軍役制度では一つの目安として、1万石あたり250人の動員をしました。
ただし、戦場に近い場所の武将は兵を多く動員し、遠い場所の武将は兵を少なく動員するのが普通であり、100石あたり4人とか、5人を動員する場合もありました。
六角氏も他方面への備えから全力を浅井氏に当てる事はできないでしょうから、この2万5千という兵力から考えれば、この頃は100万石程度はあったかもしれません。
ただし、この「野良田の戦い」で六角義賢は敗北しますから、その勢力を減退させた可能性があります。

また、織田信長は南近江侵攻前に北伊勢に侵攻しています。
それにより北伊勢八郡を信長の支配圏にしていましたから、北伊勢での六角氏の影響力は無くなったと見てよいと思います。

ですから、六角氏最盛期には100万石程度はあったかもしれませんが、信長侵攻時にはかなり勢力を減らしていたと思います。この時は既に100万石は無かったのではないかと思います。



>(2)信長に攻められあっけなく敗退したのは、それは戦略(いつもの六角氏の)であったが
   ただ、観音寺騒動等で、家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかった
   のでは?

●回答・・・いつもの戦略とは思いませんが、観音寺騒動等で家臣団の信頼が揺らぎ、統一的な動員・対抗ができなかったという考えには賛成です。
実際、観音寺城の戦いで主力は和田山城に6千。義賢自身は千しか率いていません。唯一戦いになった箕作城の兵が3千。
他に支城に兵を配備していたにしても、1560年に浅井と戦った時に動員した2万5千や、1562年に京で三好勢と戦った時に動員した2万人に比べると、例え北伊勢を既に失っていたにしても、主力の数があまりに少なすぎるように思います。
やはり、1563年の観音寺騒動の影響と、織田信長の調略が大きく響き、対抗できなかったのではないかと思います。
観音寺城より南に大きく六角氏の領地はあったわけで、その南近江の南方で信長に抗戦する事なく、伊賀まで六角親子が退いたというのは、やはり国人衆に裏切られていたからではないかと思います。
実際、永原氏などは信長の侵攻五ヶ月前から信長と誼を通じていたと言われますが、永原だけが信長と通じていたというよりも、他の国人衆にも信長が調略をかけていたと考える方が自然な気がします。南近江の国人衆は殆どが信長と戦う事なくその傘下に入っていますし。

○六角親子と同じような負け方をした大名に今川氏真がいます。
「薩埵峠の戦い」で今川の国人衆の多くが戦う事なく兵を退いて武田信玄に付き、それを見た今川氏真は駿府で戦う事なく逃亡を余儀なくされました。武田の調略が良かったのか、氏真が酷すぎたのか、両方かもしれませんが。
六角義賢と義治も今川氏真と同じく、結局、器量の問題で国人衆に背かれたのではないかと思います。

まぁ尾張、美濃、北伊勢を手中にし、三河の徳川と、北近江の浅井と同盟している織田信長と戦っても勝ち目は無いと思った南近江の国人衆が多くいても不思議ではないかと思います。
何せ、六角氏親子は浅井長政とだけ戦う時でも、浅井を滅ぼす事ができませんでしたから。

>(1)六角氏は南近江(近江の石高の7割程度)+伊賀3郡+北伊勢+大和一部で
   おそらく100万国を超える領域をもっていたのではないか?

●回答・・・その可能性はあります。
六角氏の最盛期を築いた六角定頼の晩年と、その子、六角義賢が当主になった初期には、もしかしたら100万石程度はあったかもしれません。
六角定頼の弟は北伊勢の梅戸氏(南近江に接する北伊勢を領地にする国人)に養子に入っていますし、関氏なども六角氏につきましたから北伊勢にもかなりの勢力があったでしょう。

一つの目安として15...続きを読む

Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

山本勘助については確実な史料はほぼ皆無、全てフィクションと承知していますが、禄高100貫とは江戸時代以降の石高制で表現すると何石くらいに当たるのでしょう?勘助を庇護していた今川家重臣が「お前のような素浪人に武田家が禄高100貫とは信じ難い」と言う所からして「100貫=1,000石 程度」かなと思いますがどんなものでしょう。

Aベストアンサー

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。

Q戦国時代と幕末の兵力

戦国時代には他国との戦いは万単位の軍勢が動きます。

しかし、幕末は戊辰戦争では百人単位、多くても五千人の軍勢しか各藩とも出してません。

これはなぜでしょうか、天下分け目の戦いなのに戦国時代とは数が少なすぎると思いますが。

この違いはなんなんでしょうか?

Aベストアンサー

理由の一つは、大勢の軍隊を動員する金が無かったからです。
幕府をはじめ各藩は、たいてい財政が火の車状態でした。
藩財政の改革に成功した薩摩藩・長州藩が幕末で大きな力をもったのも、
他の藩が貧乏であったのに比べ、薩長の両藩は財政に余裕があったからです。


二つ目の理由として、幕末の戦いは兵数よりも高性能な武器や効率のよい軍隊
組織など、兵数よりも軍隊の質が戦いの勝敗の分かれ目となったことが挙げ
られます。

戦国時代でも鉄砲は有力な兵器でしたが、幕末になると鉄砲の重要性はさらに
高まりました。

蛤御門の変で敗れた長州藩は、戦国時代さながらの旧式の武装しかもっていま
せんでしたが、その後長州藩は軍制改革を成し遂げ、連発が可能な元込め銃
をもち、世襲で元気を失った武士ではなく、鋭気溢れる農民や町人を主力と
した軍隊に生まれ変わります。

その結果、第二次長州征伐では、少数の長州藩の軍隊が、圧倒的多数の幕府軍
を打ち破るという大戦果を上げます。

鳥羽・伏見の戦いなど、その後の幕末の戦いでも軍隊の質が量を圧倒する状況
が続いたため、倒幕・佐幕の両陣営でやる気のある藩は、数を増やすことよりも
最新鋭の武器の購入や、軍制改革に力を注いだわけです。

理由の一つは、大勢の軍隊を動員する金が無かったからです。
幕府をはじめ各藩は、たいてい財政が火の車状態でした。
藩財政の改革に成功した薩摩藩・長州藩が幕末で大きな力をもったのも、
他の藩が貧乏であったのに比べ、薩長の両藩は財政に余裕があったからです。


二つ目の理由として、幕末の戦いは兵数よりも高性能な武器や効率のよい軍隊
組織など、兵数よりも軍隊の質が戦いの勝敗の分かれ目となったことが挙げ
られます。

戦国時代でも鉄砲は有力な兵器でしたが、幕末になると鉄砲の重要性は...続きを読む

Q織田信長は800万石、豊臣秀吉は220万石?

織田信長の直轄の版図は、北条、大友、宇喜多、徳川等の完全に又は半分以上従属したような大名の版図を抜かして計算しても600万石から800万石あったといいます。
対して豊臣秀吉の直轄領は220万石といいますが、この差はどこからくるのでしょうか?
豊臣秀吉は織田信長の後継者としてさらに版図を拡大させて人ですよね。

それと、織田信長の版図の600万石から800万石という話しですが、その間の200万石はどこのことなのでしょうか?
ご存じの方がいたら、あわせてお願いします。

Aベストアンサー

信長と秀吉の違い
現在の会社の感覚で言えば
秀吉は分社化したので、系列子会社(前田とか弟の秀長とか)とかは含まない。本社の単体計算。
信長は分社化する前なので、オール織田家。
という違いです。

信長600~800万石
早い話が太閤検地までは、正確な石高理解なんて無かった。
戦国時代の○○家■■万石というのも、太閤検地からの逆算ですので。
だいたい、石高制度ってのがまだないっす。信長の時代は。

Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む

Q伊達政宗と織田信長はどちらが優秀なのでしょうか?

伊達政宗について調べたのですが、18歳の時に家督をついで23歳のときの版図は150万石あるそうです。(家督を継いだときはどのぐらいかはわかりませんが、150万石のうちの90万石は総無事令以降の3年間で拡大した領土・・だと思います。)
一方、織田信長は伊達政宗と同じく18歳の時に家督をついで31年かけて800万石もの版図を築いた人です。あと数年あれば天下統一もできたのではないでしょうか。ただ、伊達政宗と同じ23歳のときには150万石ところか唯の”うつけもの”で27歳の時の桶挟間の戦いまでは何もしていなく、天と地の差で負けていると思います。

優秀な大名NO1,NO2は間違いなくこの2人だと思うのですが、いったいどちらがすごいのでしょうか?

Aベストアンサー

まず、織田信長と伊達政宗を戦国時代の優秀な大名の一、二と考えるのは贔屓でしょうね(^^ゞ

織田信長は尾張という商工業の発展した地域に生まれ、斯波氏の守護代の一族でその内の一つの家の家老を代々続けてきた家柄です。父親の信秀時代に尾張国内の津島も押え、実質上守護代と同等の力をつけていました。だから、織田信秀は美濃や三河に出兵し隣国の戦国大名と争うことができたのです。そういう土台の上に織田信長の実力が形成されます。相続の時に弟と争っていますが、事が大きくなる前に弟を降伏させていますので、信秀のときの実力をほぼ引き継いだものと思われます。
そのうえ、斉藤道三の娘との婚姻により、初期には美濃との争いはなく、道三没後は道三の勢力の一部も取り込むことができました。
また、松平元康との同盟で三河方面での戦闘も無くなり、斉藤義竜、竜興との戦闘のために力をつけることができました。

伊達政宗は曽祖父植宗、祖父晴宗の内部対立で衰退した伊達家を父輝宗が治め、これからといううちに政宗に譲りましたが、当時は伊達家の周りは親戚だらけでありながら、それぞれに名門意識があり伊達家を中心にまとまるような状態ではないです。そういう中を親戚を取り崩し討ち滅ぼしながら領地を拡大していきます。ただ最大の勢力時でも150万石にはなっていないですね。150万石は秀吉時代の蒲生氏郷と伊達政宗の勢力の足し算でしょうが、政宗は会津、米沢を手放すときに変わって、他の土地を得ていますので、単純に足し算してはいけません。
なお、政宗が伊達家を継いだのは織田信長がほぼ最大勢力を作り上げたあとであり、全国的にも戦国時代の終焉がはっきりしてきた時代でありますので、無理してでも領地を拡大しておかないと天下統一又は仙道統一はできないことになります。

なお、織田信長、伊達政宗くらいの大名ならば、徳川(松平)、毛利、島津など何人か数えることができると思います。それぞれの時代背景や父祖の実力により最大勢力は変わってきますし、子孫の実力で実際の評価も変わってきます。

まず、織田信長と伊達政宗を戦国時代の優秀な大名の一、二と考えるのは贔屓でしょうね(^^ゞ

織田信長は尾張という商工業の発展した地域に生まれ、斯波氏の守護代の一族でその内の一つの家の家老を代々続けてきた家柄です。父親の信秀時代に尾張国内の津島も押え、実質上守護代と同等の力をつけていました。だから、織田信秀は美濃や三河に出兵し隣国の戦国大名と争うことができたのです。そういう土台の上に織田信長の実力が形成されます。相続の時に弟と争っていますが、事が大きくなる前に弟を降伏させていま...続きを読む

Q戦国時代以前の動員兵力

元亀・天正年間以降の合戦の動員兵力は、比較複数の記録が残っていたり、現在の研究結果から見てもそれほど誇張が大きくはないと思うのですが、南北朝以前から源平合戦の時代までの動員兵力には疑問に思う数字がかなり残っています。
以下いくつか例を挙げます。
・富士川の合戦(両軍合わせて7万、吾妻鏡は20万)
・奥州征伐(頼朝の幕府軍で公称20万以上、藤原氏も数万)
・承久の乱(幕府三方面軍計19万)
・弘安の役(日本軍12万、元軍14万)
・湊川の合戦(足利軍50万‥これはいくらなんでも)
・応仁の乱(東西合わせて27万)

疑問に思う理由は
・戦国末期、国内最大と思われる動員がかかったのは以下の3つの合戦
 (1)秀吉の小田原攻め(両軍合わせ25万)
 (2)関ヶ原の合戦(含む関連戦役)(両軍合わせ本戦線20万、東北戦線10万、九州5万)
 (3)大阪の陣(両軍合わせ30万)
 これだけの兵を動員するための兵糧生産力、兵糧運搬に関わる街道の整備具合、付随する武具等の製造能力、大量動員を可能にする軍制等、少なくても両軍合わせて10万以上の大軍を揃えるには相当の運用計画や条件が必要だと思うのですが、古代と対して変わっていないと思われる戦国期以前の街道状況や農業力で上記のような合戦でそれだけの兵力を揃えられたか?
当然、碌な武装も持たないでいただけの兵がかなりいた可能性は考えられます。

当時の人口や他状況から考えて、実際はこれくらいだったんじゃないか、又は事実それだけ動員は可能だった等ご意見をお願いします。

元亀・天正年間以降の合戦の動員兵力は、比較複数の記録が残っていたり、現在の研究結果から見てもそれほど誇張が大きくはないと思うのですが、南北朝以前から源平合戦の時代までの動員兵力には疑問に思う数字がかなり残っています。
以下いくつか例を挙げます。
・富士川の合戦(両軍合わせて7万、吾妻鏡は20万)
・奥州征伐(頼朝の幕府軍で公称20万以上、藤原氏も数万)
・承久の乱(幕府三方面軍計19万)
・弘安の役(日本軍12万、元軍14万)
・湊川の合戦(足利軍50万‥これはいくらなんで...続きを読む

Aベストアンサー

なんか 途中で計算違いしていた

鎌倉:700万
室町:800万
江戸初期:1300万

で、生産年齢数
鎌倉:350万
室町:400万
江戸初期:650万

で、その10%が動員マックスとして

鎌倉:35万
室町:40万
江戸初期:65万
===
瞬間的に農村から総動員できると考えると
動員可能性としては可能かも…
あとは 輜重問題ですが・・・うーん

秀吉の軍役が、近国100石で5名中国で3名くらいだったから、何とかなる数字だったのかなぁ、鎌倉期の動員数も。


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