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タイトル通りです。

A 回答 (9件)

他者による検証が可能かどうか、またその結果に再現性があるかどうかです。

この回答への補足

ご説明は理解できます。

補足日時:2006/11/22 13:00
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この回答へのお礼

早速のご回答、有難うございます。

お礼日時:2006/11/17 21:52

科学は「因果律」を信ずる宗教です。

また。科学は「バチの当たる」唯一の宗教です。

この回答への補足

>科学は「因果律」を信ずる宗教です。

仏教でも「因果律」を説きませんか。

>また。科学は「バチの当たる」唯一の宗教です。

神罰、仏罰とも言いますが。

補足日時:2006/11/22 13:14
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この回答へのお礼

ご回答、有難うございます。

お礼日時:2006/11/17 23:27

 真実の追究といった見方からすれば、大乗的な宗教に限って言えば宗教も科学も方向は同じともいえますが、宗教はそれによって得たものを精神論的に応用してきたのに対して、科学は文明の発展の足がかりとして応用してきたものです。

ここに大きな違いがあります。

 ただし、今日の科学は宗教的な活動にその原点を見ることが出来ます。曼荼羅に見る世界構造の模索をはじめ、のちの舎密、あるいは西欧で行われていた錬金術なども当時は宗教活動のひとつであったものです。

 そして今日、高度な科学の分野の最先端に位置する著名な科学者たちが異口同音に言うのは、純粋に科学的な方法で真実を追究していると、どうしてもそこに神の存在を見てしまう・・・という言葉です。

 また、たとえば旧約聖書のような宗教の経典、あるいはインドや南米などに残る宗教的な伝承などでは、その中におそらく有史以前に何者かによって教えられ伝えられた、今日の水準で計っても先進科学の粋?といわざるを得ない記述が多く見られます。
 ことに旧約聖書などは、これを純粋にユダヤ系民族の国家的な伝承資料と受け止めると、そこには驚くべきことが書かれていることに気付きます。これを単に宗教的な作り事としてとらえるか、あるいはかなり詳しい科学的な伝承記述として見るか、こんなところに科学と宗教の違いと類似性がともに見えるような気がします。 

この回答への補足

私も、宗教と科学には現象面での違いはあっても、本質においては両者は同じものではないのかという気がします。

補足日時:2006/11/22 13:26
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この回答へのお礼

ご回答、有難うございます。

お礼日時:2006/11/17 23:27

「疑っちゃイケナイもの」の有無でしょうか。



科学では便宜上、そういった類のものを置かなければならないとき、必ず「仮置き」にします。疑おうと思えばいつでもできます。究極的な言い方をすれば、何でも疑うという方法論が科学です。

宗教は、信仰が根源にありますから、方法論だけ残ったって無意味です。

この回答への補足

宗教は「疑っちゃイケナイもの」への絶対的信仰ですか。神仏の存在を疑ってはいけないわけですか。なるほど、それも解ります。

補足日時:2006/11/22 13:27
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この回答へのお礼

ご回答、有難うございます。

お礼日時:2006/11/17 23:28

「疑う事」から始まるのが科学、「信じる事」から始まるのが宗教。



疑って疑って疑い抜いて、最後に残った物を(それでもなお)「確からしい」というのが科学という事です。これまでのところ、科学的に「確からしい」と実証された宗教はありません。

この回答への補足

「疑う」という方法論を含め、科学が現行の方法論に固執する限り、宗教を「確からしい」と実証することは出来ないのではないでしょうか。

補足日時:2006/11/22 13:33
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進化論を信じるかどうか、もしくは天地創造を信じるかどうかです。


自分の知らないことを神様のせいと思うか、自分の無知と思うか・・・
です。

この回答への補足

「天地創造」という概念は、宗教界だけでなく、科学界にもあるようです。天文学(宇宙物理学?)における「ビッグバン」という仮説がそうです。

補足日時:2006/11/22 13:39
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宗教は、何かを信じるという「信仰」を基本にする思想活動です。


宗教論争などは、その解釈をめぐるもので、教えそのものを疑ったりは
しないわけです。

一方科学は、何が「事実」なのかということを、人間の「理性」を
基本として考える思想活動で、紀元前の自然哲学などを基本と
しています。
人間の主観的なところをできるだけ取り除くために、17世紀に実験と
数学の理論をとりみ、今に至るのが現代科学です。

実験結果など客観的な証拠と、理性に基づく数学的な理論が一致
すれば、それは「真理」と呼ばれますが、証拠と理論のいずれか、
或いは両方が間違っていて、たまたま一致していただけという場合も
多々あるので、「真理」が「事実」でない場合もあります。

ただ、真理は条件付きで証拠と理論が一致しているので、
その条件の範囲では説明に矛盾がありません。

日本の学校教育では、この「真理」の部分を教えているので、
ときにそれは、「事実」でない事を生徒に信じさせると
いう宗教活動になっています。
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この回答へのお礼

人間には「理性」もあれば、理性とは対照的な「信仰」もある。人間とは面白い存在ですね。理性と信仰の接点はあるのでしょうか。

お礼日時:2006/11/22 13:51

科学は、この宇宙の真実を人間が捕らえたものです。



宗教とは、科学に基づかない、この宇宙に関する人間の考えです。
その考えが、真実かどうかは分かりません。

この回答への補足

>科学は、この宇宙の真実を人間が捕らえたものです。

人間が宇宙の真理を捉えるのは宗教の一面であるとも言えます。

>宗教とは、科学に基づかない、この宇宙に関する人間の考えです。その考えが、真実かどうかは分かりません。

宇宙の根源的真理を捉える方法論として、科学と宗教、どちらが優れているのでしょうか。

補足日時:2006/11/24 22:36
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>理性と信仰の接点はあるのでしょうか。



 接点は「神の存在」というところにあります。
科学的な研究は、通常は神の存在証明とは
無関係なように思えますが、そんなにいろいろな研究
をやって、最終的な目的は何なのかと言えば、
神の存在証明なんです。
 すでにビックバンのお話はご存知のようですが、
まさにあれは、天地創造を理論的に説明しようと
したものなんです。
 ビックバン理論は、エネルギー保存の法則という
科学の常識を破るもので、実験的証明もないのに
信じられたというのは、本当は変な話だったわけです。

 ただ、神の存在を証明しようとする他の理論と
同じで、ビックバン理論も宇宙観測によって否定
されてしまいました。宇宙が爆発的に広がったというのは
うそではないようなんですが、ビックバン以前にも宇宙は
存在していたらしいということが分かり始め、
天地創造の話とは合わなくなってしまったんです。

 宗教裁判などを例に出して、科学と宗教は対立するものだと日本
の教育では教えられる事が多いと思いますが、宗教裁判に
かけられた人たちは熱心で、生真面目は宗教家で、みな聖書の
内容や神について証明をしようとして研究した結果、それを
否定する結果が出て、生真面目であるがゆえに、それを
他人に話して、純粋になぜだろうと言ってしまったことに
よって裁判にかけられています。
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この回答へのお礼

ビックバン理論が宇宙観測によって否定されたことは初耳でした。勉強になりました。有難うございました。

お礼日時:2006/11/27 19:32

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