この人頭いいなと思ったエピソード

勝海舟に「甲府に行って官軍を向かえ打ってくれ。それができたら、甲府をお前にあげる。」と近藤勇は言われて甲府に向かいました。しかしその途上、生まれ故郷で接待を受けすぎて、甲府に入るのが遅れてしまい、官軍のほうが先に甲府入りしてしまいました。結果、重要拠点を先取りされ、新撰組(甲州鎮撫隊)は何もできず敗走しました。(以上、NHK大河ドラマより得た知識。長倉新八の手記にも書かれているそうです。)このときの、勇の行動は自分には単なる油断にしか見えないのですが、勇はなぜもっと早く甲府に行かなかったのですか。

A 回答 (6件)

>しかしその途上、生まれ故郷で接待を受けすぎて、甲府に入るのが遅れてしまい、官軍のほうが先に甲府入りしてしまいました。



新選組を擁護するわけではありませんが、これは創作や伝説による迷信です。
日野宿の名主であり土方の義兄であり、また新撰組のスポンサーであった佐藤彦五郎日記に、その時の様子が書き残されています。要約すると以下の通りです。

慶応四年三月一日、大久保大和(近藤)らが甲陽鎮撫隊として100名程が江戸を出立
翌三月二日に大久保、佐藤家へ到着。休息し、すぐに出立。八王子宿にて昼飯ののち、与瀬宿に宿泊。
三月三日、与瀬宿出立。猿橋宿宿泊。
三月四日、官軍らしき者が甲府へ迫っており、五日には到着するとの情報あり。大久保らの後衛として彦五郎らも進軍。駒飼町へ到着。しかしすでに官軍は前日甲府へ到着したとの情報。
三月五日、官軍は1200名との情報あり。この情報を伝える為、内藤隼人(土方)が早駕篭にて江戸へ走る。

上記の通り、日野宿には数時間休憩しただけで、すぐに出立しています。どこかに寄り道した様子もありませんし、泥酔して進軍がままならかったというような印象も受けません。官軍は、近藤らが江戸を出立する以前から、先んじて行動に出ていたのです。

彦五郎は故郷で歓待をした側であると共に、当時リアルタイムでこの日記を書いていますので、回顧録のような永倉の手記よりは信憑性が高いかと思われます。
この日記が世に出たのが平成17年であるため、それまでずっと質問者さまのおっしゃるような伝説が一般に信じられており、NHK大河ドラマにも間に合わず、今なおこうした誤解が語り継がれているわけです。
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この回答へのお礼

そうでしたか。勇は最後まで全力を尽くそうとしていたのですね。そうでなければ、武士よりも武士らしき男、と言われた局長ではありません。局長は敵が多かったので、このような品格をなくすような創作がなされたのでしょうか。ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/06 22:56

質問の回答からは若干離れますが、事実誤認されている方もおられるようですので。

近藤勇は、三多摩の名主階層の家から剣術師範の家に養子に入った人です。少なくとも近藤勇は「多摩の農家の不良息子」ではありません。当時、平民と武士の格差は現代人が想像するようなものではなく、裕福な町人、名主階層の農民、僧侶・儒者・医者・武芸者などの「知識階級」は武士と隔てなく交際していました。

近藤勇の自筆の手紙を見れば、武芸者であると共に、平均的な武士以上の学問を身につけた人であったことが見て取れます。
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この回答へのお礼

そうですね。やはり、教養と品位のある人でなければ、大勢の部下をまとめることは、できませんから。どこかの家の壁に勇の書が残ってると聞きました。若干離れますが、新撰組は山南さんを失ったのが、よくなかったですね。ああいう慎重派も必要でした。

お礼日時:2006/12/06 23:15

勝安房からどのような情報が与えられたかは解りませんが、甲府には幕府直参が詰めており、一応の守備がある筈でした。


従って近藤が急いで甲府に向かえば間に合う筈でした。

近藤としては幕府から支給された大砲を引き、隊を率いていましたが新選組も戦力が低下しており、故郷で募兵強化する思いがあったとおもいます。
事実志願するものがあったといいます。

近藤には戦闘眼はあったでしょうが戦術眼はなかったでしょう。
従って甲府の重要性は理解出来ていなかったと思われます。 
これに対し、官軍側は甲府城がほぼ無防御状態であることを知り、幕府側の増援部隊が到着する前に占領すべく急行軍し先に甲府を占領したのです。

幕府側が急造部隊であったことは、甲府城外で遭遇戦となった時、士官が別の宿舎にいて、指揮がとれず大砲の砲弾の安全装置の解除を忘れて
砲撃したので砲弾が爆発せずに官軍を阻止出来なかったという話が残っています。  官軍側の戦意が高く、幕府側を圧倒したのです。

近藤の油断というのは酷といえましょう。
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この回答へのお礼

勝はとにかく、新撰組が邪魔だったので、「ゆっくり行っても大丈夫」などとミスリードしていたかもしれません。くわしいご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/06 23:05

近藤勇をはじめ新撰組の面々は多摩の農家の不良息子たちでした。

彼らは剣術という「なんの役にもたたないもの」に夢中になり、「いつか武士になりてえなあ」と夢みたいなことをいっていたのでした。当時は身分制度がありましたから、農民が武士になるなんて近所の野球少年がメジャーリーガーになるくらい確率の低い話でした。

それがなんと幕府に雇われて、しかもなんとなんと「将軍様の親衛隊」という大変な役をおおせつけられて(本当は海千山千の勝海舟の口車に乗せられたのですが)故郷に凱旋してきたのです。故郷に錦を飾るというのはまさにこのことです。
だから地元の人たちは近藤らを大歓迎したのです。ちょっと考えてみてください、かつては自分たちを「あの不良どもが」とバカにしていた連中が「いやー近藤ちゃん、すっかり立派になっちゃってえ」ともみ手でやってきて「宴席を用意したよ、せっかくだから寄っていきなよ」っていうんですよ。それで「じゃあ、ちょっとだけ」と思って寄ったらみんなが待ち受けてかつての親戚知人友人が「いやー立派に出世してえ」というんです。これで舞い上がるなってほうが無理ですわね。
近藤たちは宴席で友人たちに「俺が大名になったらお前を家老にしてやる」なんていっていたそうです。

結局のところ、勝海舟は元から近藤たち新撰組連中を使い捨てにするつもりのようでしたし、どんなに頑張ったところで倒幕の流れは止められなかったし、この後すぐに近藤は追い詰められ、土方も死に場所を求めて五稜郭へ向かっていくわけですから、故郷で一度くらいバカ騒ぎをしてよかったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

そうですね。彼らは、会津や長州の志士のように、藩校でみっちり教育を受けたわけではないので、この手の誘惑には弱かったのですね。誠の旗印が泣いてるぜよ。

お礼日時:2006/12/06 22:48

すいません。

回答というより司馬遼太郎氏の雑記から引用ですが・・・。

近藤勇は、勝から「甲州をやるから甲府で官軍を迎え撃て」と言われた
時は「これで大名になれる」と喜んだものの、
どう見ても瓦解している幕府の元ではその地位も三日天下だと、
同地に向かう道中で気づいた。
(近藤勇は、勝が敗戦処理を将軍から任されていることも
知っているし、自分たちが江戸にいたのでは邪魔だということを感づい
ていたのも想像できる。)

それならば、軍資金としてもらった大金を使って甲州街道沿いの
故郷の人達の前で「どうせ負けだから最後にいい格好したい」と
彼(および同行の隊士)が思ったのも自然ではないだろうか。
実際、道中毎日のように宿泊場所でどんちゃん騒ぎしていますから。
故郷のみんなが「すごいなぁ」とあがめてくれるのも、うれしかった
だろう。

しかし、まだ現実を認めない、または戦いに身を投じて一花咲かせたい
と願う土方や永倉には、そのような近藤の態度は許せなかったのだろう
、この戦いのあと、近藤と袂をわかちあっている。

と司馬遼太郎氏は記述しています。
諸説あるでしょうが、個人的にも私はこの説が気に入ってます。
近藤勇や土方たちのその時の心情が、すごく理解できるし実感できる
からです。
「こっけいさ」と「哀しさ」と「時代や人のリアリティ」を
しみじみと想えるからです。
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この回答へのお礼

なるほど、そのような考え方もあるのですね。しかし、そう考えると、ずいぶん無責任な局長のようにも思えますが、その中にいないとわからない部分もあるでしょうね。ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/06 22:42

官軍の進軍が予想されるより早かったことが挙げられると思います。


隊の名称ですが、甲州鎮撫隊で出ていましたか?正式には、
甲陽鎮撫隊なのですが…。
近藤ら、天然理心流の仲間は京都で不逞浪士取り締まりに追われ、故郷の多摩が懐かしかったのではないでしょうか。
思えば、道場主から、幕府直参に。そして、甲府をとれば大名格の待遇に夢を見ていたのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

そうでした。甲陽鎮撫隊でした。やはり、勇も人の子。故郷の誘惑には勝てなかったということでしょうか。ありがとうございました。

お礼日時:2006/12/06 22:36

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