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津軽宗谷対馬のうち、なぜ対馬にしたのでしょうか。借りに他の2つにしたら成功したのでしょうか。

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A 回答 (8件)

他の回答者が答えていますので、


私の回答は補足的な回答になります。

日英同盟を結んだイギリスの妨害もあって、
バルチック艦隊の進路はウラジオストックまで
最短距離である対馬を選ばざるを得なかった
のです。

スエズ運河を通させない、石炭を買わさせない、
ウラジオストックまでの航路中に寄港して休息
や調整をさせないとさまざまな妨害作戦を展開して、
バルチック艦隊の士気や戦力を落とそうと
追い詰めていたのです。
もしも、バルチック艦隊が寄港して石炭を詰め
なおしたり休息をとったりしていれば、
津軽や宗谷海峡通過のカードも切れていたはずで、
東郷長官の苦悩は多かったはずです。

要は、イギリスの妨害のお陰でバルチック艦隊は
対馬海峡通過というカードしか出さざるを得ず、
そこをきっちりと読まれた上で叩かれたのです。
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この回答へのお礼

共同作業で追い詰めたという事もあるのですね。

お礼日時:2006/12/30 18:25

燃料問題とロシア艦隊の疲労などについては他の回答者さんに譲ります。



まずは、基本的事項として戦力比から。
日:戦艦4、装甲巡洋艦8
露:戦艦8、海防戦艦3、装甲巡洋艦3
※なお、カタログスペック的には戦艦・海防戦艦に日露の間で大きな相違はありません。装甲巡洋艦も同様。

で、ツシマ沖海戦(日本海海戦)は装甲巡洋艦部隊が戦艦部隊の代用たりうる可能性を示した海戦とされます(これが、後の巡洋戦艦という艦種の誕生につながります)。すなわち、当時の常識的な判断としては装甲巡洋艦は戦艦に対抗できないと思われていたのです。

となれば、主力艦(戦艦クラス)の戦力比は日:露=4:11。
しかも東洋の猿共が操る相手であれば、いくら長期の航海で人も艦も疲労しているとはいえ、万一の場合でも多少の損害を覚悟すれば浦塩まで強行突破できるだろう、とロジェストウェンスキーが考えても無理からぬことだと考えます。となれば、あえて他の航路を選ぶ必然性は薄かったでしょう。

もし他の海峡(津軽、宗谷)を突破していたら……ですが、津軽海峡突破の場合はかなりの確立で日本海軍に捕捉されていたでしょう(東郷元帥の判断は津軽海峡突破でした)。宗谷海峡の場合は距離と起床の問題から、捕捉に失敗した可能性が若干高くなると思います。
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この回答へのお礼

確かに陣容としては優位に立っていたわけで、日本が勝つべくして勝ったなどというのは、後から威勢のいいことをいっているにすぎないところが多分にあるように思います。日本を侮ったという事が一番大きいかもしれません。

お礼日時:2006/12/30 19:24

ええっと、皆さんなんか自信満々に「対馬以外の通路は絶対ありえない」とおっしゃっていますが、それはバルチック艦隊の実情とその結末を知っている後世の人間だからいえるのであって、当の日本海軍の首脳はそんなに自信満々ではありませんでした。



日本は5/19にバルチック艦隊がバシー海峡を通過したのを確認したのちその姿を見失っています。総合的に判断すれば、最も可能性が高いのは対馬海峡ルートですが、その裏をかいて津軽もしくは宗谷海峡を突破するのではないかと疑心暗鬼になりました。なぜ疑心暗鬼になったかというと、バルチック艦隊が疲弊していて士気も上がらなかったことを日本海軍は当然知らなかったからです。
というのもですね、一体バルチック艦隊にどれだけの石炭が補給されていて、実際のロシア戦艦の航続距離がどのくらいあるのかなんてのは不明なわけです。実際の航続距離は軍事機密なんですから。上手いこと親潮に乗れれば千葉の先辺りまでは相当燃料を節約できます。
実際、焦った東郷と連合艦隊はバルチック艦隊が見つからなければ26日正午に津軽ルートも考慮に入れて北海道へ移動すると大本営にいっていました。ところが、25日にロシアの石炭運搬船が上海に入港したという連絡が入り「石炭運搬船を同道させないなら対馬ルートで間違いない」と確信を得ることができたんです。

その後も苦労は続きます。当時日本はハイテク機器だった電信機を索敵する艦船に乗せていました。後の太平洋戦争のミッドウェー海戦で日本海軍は索敵を軽視して一敗地にまみれますが、当時の日本海軍は索敵の重要性をよく理解していたんですね。信濃丸がバルチック艦隊を発見しいち早く連絡したために連合艦隊は機先を制することが出来ました。

またあまり知られていないことですが、当時日本は世界でも始まったばかりの天気予報に力を入れていました。海戦当日の天気がどうなるかによって戦術は大きく変わります。ですから、日本は遠く上海にまで観測員を送り、当時の民間の最先端技術者も使って精度の高い天気予報を行っていたのです。その結果があの有名な「本日天気晴朗なれども波高し」なのです。これは、当時の天気予報の一文を文才に長けた秋山参謀が命令書の末尾に書き加えたのです。おかげで、単なる出撃の命令は文学の域にまで達したのです。
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この回答へのお礼

日本側はあまり確信をもてなかった事がよくわかります。つくづく石炭船の入港を許すなどという愚昧なことをしなかったら、どうなっていたのでしょうか。あるいは、索敵や気象の管理が厳密でなかったらどうなっていたのか。まったく危ない橋を渡りきったというのが実情なのでしょう。

お礼日時:2006/12/30 19:19

東郷が対馬に来ると判断出来たのは、


津軽海峡が戦略上、重要な場所であったからではないでしょうか?

青森。
ここを砲撃されると、北海道とは分断され、鉄道破壊。
青森~八戸間も冬季、通行不能に陥ります。

つまり、戦略家なら絶対に津軽は最後の最後まで通らない。
絶対に来ない。
宗谷は無駄な時間が多すぎる。
こう思ったんじゃないでしょうか?

日本軍が決戦を目指していたのに、ロシア艦隊は、高速中央突破を考えていた。
所が、突破出来なかった。
これでは
T字戦法の上に、鶴翼の陣になり、挙句に包囲されてしまいます。
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この回答へのお礼

そうですか。なかなか斬新な考えだと思います。ただ日本海軍の位置というのは知られたのかどうなんでしょうね。

お礼日時:2006/12/30 18:24

当時の艦艇は石炭を燃料とする蒸気機関でした。


バルティック艦隊は現在のベトナムあたりで最後の石炭積み込みをしましたが、満載状態にしても対馬海峡ととるのが精一杯でした。

当時の艦艇はこの為石炭船を同行するのが普通でしたが、洋上では補給は不可能に近いのです。
ベトナムを出てからは日本の勢力圏内に近く、進路を秘匿するためには港に入る事は出来ません。

従って対馬ルート以外に考えられないのです。
日本海海戦は勝つべくして勝った海戦です。  日清戦争の不手際を反省した日本海軍は大改革を行い、猛訓練で面目を一新していました。

それにロシア艦隊は2縦列で航行しており艦隊運動は不自由でした。
この為に東郷艦隊のT型回頭をみても対応出来ず射撃するだけで、それも先頭の数艦しか射撃出来ず、回頭を終わった東郷艦隊の集中砲撃で先頭の戦艦が破壊され指揮官が負傷すると艦隊は混乱するだけで纏まった反撃が出来ませんでした。

対馬ルート以外を選択したら洋上で燃料切れとなったでしょう。
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この回答へのお礼

燃料の関係から言えば必然的なルートになりますね。

お礼日時:2006/12/30 18:22

ロジェストベンスキーは日本海軍のことなど全く眼中になかったのです。

ですからウラジオストックへの最短コースである対馬沖を選んだようです。これは彼が無能だったわけでも何でもなく、世界中の軍人やジャーナリストの見方がそうだったのです。

 二手に分けていたら津軽海峡通貨組はたぶん逃げ遂せたでしょうね。東郷元帥は対馬沖通過を確信して待ち受けていましたから。
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この回答へのお礼

そうですか。遊撃は十分されることを予想していたようです。

お礼日時:2006/12/30 18:21

大前提としては元々出発時より非常な無理をして航行をつづけてきましたから消耗の度合いが激しく、「西よりルート」の突破を決めていました。

(1)千島列島は潮流が激しく天候が悪いので、疲労しきった艦隊が無事に航行出来るとは思えない。(2)全艦隊がウラジオストックまで休息を取れず燃料を補給できない事情を鑑みれば、最短コースの「西よりルート」を進むしかない。との認識を最初から持っていました。ロジェストヴェンスキーは偽装コースをとらせたりしていますが、連合艦隊は最初から決め撃ちで対馬以外ないと判断しておりこれは功を奏しませんでした。運が良ければ、偽装コース船団に釣られた日本海軍は、バルチック艦隊が千島ルートを辿るものと誤断して、対馬海峡をがら空きにしてくれるだろうと推定したのですが、全くの誤算に終わったのです。この事情については「海の史劇」吉村 昭著 新潮文庫に詳しいです。これを読みますとそもそも出発自体が無謀で日本海にたどり着くまでの消耗度合いは激しく相当な疲労の元での戦いであったようです。ご一読おすすめします。

 
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この回答へのお礼

海の史劇も読んだ事あるんですよ。忘れていました。公会自体に余裕がないということろから制約が相当あったのでしょう。

お礼日時:2006/12/30 18:20

司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」を図書館当たりで読めばしっかり


書いてあるんですけどね。彼は理由を作中でこう言っています。

1.宗谷・津軽の両海峡は狭い上に、この時期霧などが発生しやすく
 進路を誤って座礁しやすい。対馬海峡には航路上に障害がない。

2.艦隊行動に慣れていないロシア艦隊は、狭い水道で会戦を行うと
 艦隊行動に制限を受け、自滅しかねない。対馬海峡ではこういった
 ことは考慮しなくていい。

3.宗谷・津軽海峡を経由するとウラジオストックまでの距離が長く
 補給が間に合わずに自滅しかねない。

なお、この頃はレーダーなどがなかったので、日本沿海を進んでも、
充分に距離さえとれば発見される恐れはなかったと思われますが、
ロシアはこれら両海峡の正確な海図を持っておらず、また、日本海軍
は津軽海峡に機雷を敷設したので、仮にこれらの海峡を経由したと
した場合でも、1,2,3の理由で艦隊を保全したままウラジオストックに
到着することは出来なかったと思います。

もっとも、「何隻か残ればいい」ならば、これらの航路を取れば残った
可能性は大きく、日露戦争もあのような結果にならなかった可能性が
ありますが、司令長官ロジェストウエンスキーの性格から、まず確実に
そのような航路を通らなかったでしょうし、仮に通るような判断が出来
る司令長官ならば、対馬海峡であれほど散々に叩かれることはなかった
と思います。

ここらへんは、「坂の上の雲」を読むと、実に生き生きと描写されて
います。ご一読をお勧めします。
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この回答へのお礼

坂の上をその部分だけ読みました。確かにいろいろな制約からおそらく対馬しかないであろうという根拠は十分だと思われます。

お礼日時:2006/12/30 18:18

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Q本日天気晴朗ナレドモ波高シ……は何故名文なのか?

東郷平八郎が丁字戦法を使ってバルチック艦隊を破った時、
秋山参謀という人が東京にこんな打電をしたそうです。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

高木彬光先生の歴史小説の中で「名文中の名文」と謳われていましたが、
どうもしっくりきません。

だって、単なる指令と天候を伝える平叙文じゃないですか。
これだけシャープに必要なことをまとめた、ということが
賞賛されているのでしょうか?

教えてください。

Aベストアンサー

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連合艦隊は予定どおり、故障艦も脱落艦もなく、直ちに出撃し敵を撃滅することを前文で伝えています。後半の天気の文章も海軍の現場の人にはいろいろな情報を伝えています。即ち、本日は天気に恵まれ海上の見通しは非常に良い。砲撃戦に理想の天気である。しかし、海上には高波が見られるので、魚雷艇などを使った細かな作戦を実行するには難がある。本日の戦いは砲撃で決着がつくだろう。

ようやく近代国家の仲間入りをしたばかりの日本の存亡を賭けた戦いを前にして、七、五調の短い電文でこれだけの情報を送れるのは名文でなければ出来ません。しかし、これが決意表明ではなく作戦の変更や指示を仰ぐ電文であれば、決して名文とはいえないでしょう。読む人によって理解が異なるような文章は戦時に使用すべきではないでしょう。やはり戦争に勝ったということと決意表明の電文だったからこそ後世まで語り継がれたのでしょう。

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Qなんでバルティック艦隊に勝てたのですか?

坂の上の雲 を見ましたが、 日本艦隊はバルティック艦隊に最初 船の腹を見せるように 行動したそうですね。 ロシア側は ここぞとばかりに攻撃したそうですが、 そのあとなぜか バルティック艦隊は壊滅状態に。TVの解説では なんで日本が勝ったのか わたしにはわかりませんでした。どなたか
わかりやすく 解説していただけないでしょうか?

Aベストアンサー

>わかりやすく 解説していただけないでしょうか?

先ず、多くの方が「日本艦船との戦法」について説明していますよね。
が、これは「戦う前から、ロシア艦隊に不利な点」がありました。
ご存知の様に、バルチック艦隊は「ロシアのリバウを1904年10月15日に出航」しています。
そこから、イギリス・フランス間のドーバー海峡を進み+11月1日は、スペインのヴィゴ。11月16日は、アフリカのダカール。12月1日は、ガボン。12月7日は、グレートフィッシュベイ。12月16日は、アンゴラペケナ。喜望峰を経て、1905年3月18日はマダガスカル島のシノベ。5月9日は、ベトナムのカムラン。そして、日本海に突入しています。
寄港地が、非常に少ないですよね。
つまり、アフリカ・アジアを植民地支配していたイギリス・フランス等の列強は、「ロシア艦隊の寄港を拒否、若しくは、寄港しても食料・水の供給を拒否」しているのです。
乗員も、上陸を拒否されたままです。
ロシア艦隊の各艦船は、「乗員・弾薬以外に、多くの食料を満載して航行」したのですね。
※原付に、関取が乗車している状態です。^^;
つまり、艦船の性能が著しく劣った不利な状況で開戦となった訳ですね。
通常、日本軍がとった作戦では「ロシアの大勝」です。
が、動きが鈍いロシア艦隊では訓練時の性能が発揮出来ませんでした。
照準を合わすにも、訓練時の動作が出来なかったようですね。
日本海海戦結果は、世界中に衝撃を与えました。
まさか、日本が勝利するとは・・・。
当時、ロシアの圧力を受けていたフィンランドは大喜びでした。
今でも、ビールと言えば「東郷ビール」なんですよ。
※ビールのラベルに、東郷平八郎の肖像が載っています。貼付画像参照。
突撃将軍と揶揄される乃木希助に比べて、(結果的に)評価は高いです。
公式な回答では、陸軍国家のロシアと海軍国家の日本の戦い。
海戦では、日本が有利です。詳細は、他の回答の通り。

>わかりやすく 解説していただけないでしょうか?

先ず、多くの方が「日本艦船との戦法」について説明していますよね。
が、これは「戦う前から、ロシア艦隊に不利な点」がありました。
ご存知の様に、バルチック艦隊は「ロシアのリバウを1904年10月15日に出航」しています。
そこから、イギリス・フランス間のドーバー海峡を進み+11月1日は、スペインのヴィゴ。11月16日は、アフリカのダカール。12月1日は、ガボン。12月7日は、グレートフィッシュベイ。12月16日は、アンゴラペケ...続きを読む

Qバルチック艦隊のスエズ通航

 日露戦争時、日本は英国と同盟を結んでいて
バルチック艦隊は極東回航中、北海で英漁船を砲撃
する事件を起こしています。

 海外に多くの植民地を持つ英国はスエズ運河もその
支配下にあり、バルチック艦隊は喜望峰回りの航路を
強いられるのですが、増援の第三艦隊はスエズ運河を
通航しています。

 北海事件はすべてロシアに非があって英国は怒り心頭の
はずですが、なぜその後発の露艦隊の通航は認めたのでしょうか。
同盟国日本のために”NO”というのが筋だと思うのですが。

Aベストアンサー

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」(司馬氏の作品はあくまでも小説で
即事実ではないけれど史料にたくさん当たっているのは確か)

 この作品によると当時の(つまり最初の)日英同盟は戦時には互いに
中立を守るとあります。(事実です)。当時の情勢では南下を望む
ロシアに対して妨害したいイギリスが朝鮮での「優越」をめぐり
対立を始めた日本を仲間に誘うために不平等条約を廃して「対等」な
関係を樹立する。そのための同盟=ロシアが共通の敵。けれど
イギリスは積極的には戦いたくないので日本に戦端を開かせたい。
 従って消極的な支援となる。消極的とは言え、イギリスはできる
だけの妨害をした。
(1) まず通行は拒否できない。表面上は敵国ではないのだから。
(2) けれどロシアが求める燃料(石炭)供給はサボタージュ。
(3) しかたなくロシアはドイツの商社に石炭を依頼し港に運ばせた。
(4) また半分の艦船はアフリカ南端を回らされた。
 これだけの協力があったればこそ日本の連合艦隊は有利に戦いを
 進められたのだと思います。


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