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卒論での研究テーマで悩んでいます。第一次世界大戦前後のハプスブルク家や民族問題についての切り口や問題点で何か良いテーマがありましたら教えてください。これらについての情報があるサイトも教えて頂けたら非常に助かります。よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

直接的な回答ではありませんが、以下の成書が参考になりますでしょうか(内容未確認!)


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1.フランツ・ヨーゼフ/江村洋/東京書籍/1994.9 
2.大ハプスブルグ帝国/L.アルムブルスター…/南窓社/1994.3 
3.ハプスブルグの鉄/熊切圭介∥〔ほか〕撮…/川崎製鉄/1992
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これ以外にも文庫本(講談社?)で読んだ記憶があります。
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○江村洋
 『ハプスブルグ家の女たち』
 (講談社新書、1963)★★★
 ハプスブルグ家について、世に知られた言葉がある。「戦は他家にまかせておけ、幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」
 本書は、オーストリア・ハンガリー二重帝国の姻戚関係を、主として女性に焦点をあてて綴る。フリードリヒ3世(1415-1493)の妻エレオノーレから、女傑マリア・テレジア(養子を迎えた彼女以降はハプスブルグ=ロートリンゲン家)をへて、最後の皇帝カール1世(1887-1922)の妻ツィタまで。
 帝国において女は皇位継承者を産む道具として扱われてきた。この伝統に唯々諾々としたがうのが通例だが、これに耐えらずに半生を旅に明け暮れたエリーザベトもいる。実直な夫フランツ・ヨゼフ(1830-1916)は最後までかばったらしい。
 皇位継承権より愛する女性を選んだ男たち3名にも言及される。帝国を財政面で支えたヴェルザー家のフィリッピーネと結ばれたフェルディナント大公(1529-1595)、郵便局長の娘アンナ・プロッフルと結ばれたヨーハン大公(1782-1859)、下級貴族の娘ゾフィー・ホテクと7年越しの恋を実らせたフランツ・フェルディナント皇太子。いずれもその妻子はハプスブルグ家の一員と認められなかった。
 ちなみに、フランツは政治音痴で、火薬庫バルカン半島のサライェボへ赴き、暗殺された。これが引き金となって第一次世界大戦が惹起し、戦後まもなくハプスブルグ王朝は6世紀半の歴史を閉じた。
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http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/page-si.htm
フランツヨーゼフ1世の皇妃エリザベート。バートイシュルでの皇帝と姉との見合いの席上で見初められる。伝説的な美貌によって最後のハプスブルグの歴史に留め、1898年レマン湖畔で刺殺される。実の子ルドルフ皇太子を心中死で失い、次の皇太子フェルディナントはサラィエボで銃弾に倒れ、第一次世界大戦に突入していく。これが800年以上のハプスブルグ王朝の終焉である。
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http://www.hibikino.net/~mei/main/strategy1.html
(庶民でもわかる戦争の歴史 ~第一次世界大戦~)

更に蛇足ですが、以下のサイトもあります。
http://plaza19.mbn.or.jp/~1700/kakeizu/doitu/doi …
(系図) 

ご参考まで。
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この回答へのお礼

丁寧に教えて頂き、ありがとうございました。上記の本を図書館で借りてきました。参考にします。

お礼日時:2001/01/10 17:55

回答いたします。


第一次世界大戦前後のハプスブルク家についてですが。こういう切り口ではいかがでしょうか。「米国による民族問題の再燃化と共産主義」という論点での切り口が面白いかもしれませんね。なぜかというと、いまのユーゴ問題やバルカン問題は、そのほととんどが、この第一次世界大戦に通じるところがあるといっても過言ではないからです。また、東欧諸国の共産化に関しても大戦を抜きには語れないといって良いでしょう。
 この第一次世界大戦後、ハプスブルク家は解体というよりも亡命しました。その後、ハプスブルク家が治めていた領土のほとんどで民族独立の気運が高まりました。これを後押ししたのは、米国でした(煽った感があります)。しかし、この結果どうなったのかというと、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ユーゴと次々と独立しましたが、結局ハプスブルク家に長年付き合っていたために経済的な面から行き詰まってしまいました。そして、共産化の波に呑み込まれていきました。第二次大戦前後英国のチャーチルが「ハプスブルク家(オーストリア=ハンガリー帝国)を解体したのは間違いだった。あの時は、ドイツ帝国を解体すべきだった」と回顧する言葉を残しています。「鉄のカーテン」を生み出した原因は、この第一次世界大戦前後のハプスブルク家追放、オーストリア=ハンガリー帝国解体に起因するといっても良いでしょう。(詳しい話は長くなるので)
 もう一つ、裏話。第一次大戦前ハプスブルク家を頂点としたオーストリア=ハンガリー=チェコ三重帝国構想が持ち上がっていたくらいでした。チェコの政治家が公表したものですが、結局日の目を見ずに終わってしまいました。それぐらい、ハプスブルク家は中欧諸国の盟主としての人望や名声があったのです。中欧は、当然の如く民族のるつぼ。ハプスブルク家はそれらを上手くまとめる潤滑油的な存在だったのです。それを、「民族自決」のもと米国が主導となって解体を押し進めたのです。このとき、もう少し米国側に配慮があれば、第二次大戦後に起きる共産化の波に呑み込まれずに済んだのではないかとする見解が、オーストリアのみ成らず研究者のあいだでは多くなってきています。また、現在のEUは、ハプスブルク家が七百年にわたって築き挙げた歴史を踏襲しつつ、思想、理想を発展させたものです。この理想を掲げたのが、クーデンホーフ・カレルギーなのです。父はハプスブルク家の上流貴族。母は、日本人のみつ子。こうやってみると、日本も少なからず貢献しているとみていいでしょう。
 本当の意味で、欧州史を学ぶなら「ハプスブルク家を学べ」です。ドイツ、フランス、イタリア、イギリス史が世界史の大半を占めますが、本当はそうでないことが分かります。よろしいでしょうか。参考文献は、江村洋さんの著作物が良いでしょう。
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この回答へのお礼

大変貴重な御意見ありがとうございます。東欧の歴史の連鎖性が見えてきたように思えます。ありがとうございました。

お礼日時:2001/01/16 16:40

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