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こんばんは。友人が「南無阿弥陀仏より南無妙法蓮華経のほうが優れている」と言います。理由は解りやすく言うと「神道、仏教、キリストなどの全ての神を呼ぶから」らしいのですが.....
私は....う~ん...(言ってる事が?ですし、かなり無茶な話だと思うのです)です。納得がいかないのです。

日蓮宗と浄土宗は共に仏教で、昔から在るものに優劣などあるのでしょうか.....
ちなみに私自身は無宗教で宗教に無知なのですが、何か友人がこの様に
話すのには何か根拠があるのでしょうか?

カテゴリー違いでしたらすいません。
私も無知故にお見苦しい文章かもしれませんが、宜しくお願い致します。

A 回答 (18件中1~10件)

このご質問、スルーするつもりでしたが『法華経』の専門家として述べさせていただきます。



ご質問は“浄土思想”と“法華思想”の優劣ではなくて、「“念仏”をとなえるより“題目”をとなえるほうが優れているのか?」ということですね。

この回答は“諸経の王”である『法華経』にあります。

以下、ごく簡単に述べますと・・・

同じ念仏でも天台宗と浄土宗、浄土真宗等ではとなえる意味合いが違います。
1 阿弥陀如来を念じることによって極楽往生する。
2 念仏することによって、この世を極楽浄土にする。
3 念仏することによって、じつはこの世がすでに極楽浄土であると自覚する。
って、とこです(あくまでも簡単に言えばデス!)。

題目をとなえるのは
1 となえることによって『法華経』全品を読んだことになる。
2 となえることによって『法華経』を理解したことになる。
3 となえることによって『法華経』を実践したことになる。
4 となえることによって『法華経』の経力にあやかる。
って、とこです(だから簡単にいえばデスよ!)。

さて、同じ『法華経』でも天台宗と日蓮宗では解釈が違うんです。いろいろ解釈は出来ますし、人それぞれ受取り方も違うのですが、題目をとなえることによって“>神道、仏教、キリストなどの全ての神を呼ぶから”と解釈できるかどうかというと、かなり無理があると思われます(『法華経』の精神からすれば「絶対に間違っている」ともいえません)。
しかしながら、題目をとなえることによって神道、仏教、キリストなどの全ての神を呼ぶとしても、この世は極楽浄土だとする念仏より優れているとするのはHERIKUTSUとしか思えません。方便ですかね。人心を迷わせてはいけませんよね。
そもそも、日蓮系新興宗教は法華経中の“『法華経』だけが絶対に正しい(しつこいようですが簡単にいえばデスって!)”とする部分を殊更強く引用して他教を邪道と否定しますので、「言ワズモガナ」というところでしょう。


前置きが長くなりましたが本題に入ります。
『法華経 方便品』の諸法実相とは「どのような“法(おしえ)”も、皆すべて真実の相である」ということです。
これは突き詰めれば「すべての存在、教えは、みな“仏”そのものである」ということです。
つまり優劣を付けるのは執着(しゅうじゃく)であり、念仏も題目も平等と心得るのが『法華経』の精神です。

『法華経』を処依とする者は、この点を十分に心得ておかなければ成りません。

また改めて詳しい解釈をしましょうネ!議論の場でもありませんし。



それではゴキゲンヨウ!!! (^^)v
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南無妙法蓮華経も南無阿弥陀仏も、おなじ「唱える題目」なんですよね?という事は、ある一定期間(期間設定は、浄土系と日蓮系の人に決めてもらうといいでしょう)交互に唱えてみればいいんじゃないんですか??互いに「救われる」と言っている訳ですからね。

ある一定期間唱えればその前兆のような者が出てくるのでは???

これは宗教上の確率問題ですけど・・・南無阿弥陀仏について・・・
浄土系は「極楽に行ける」と言っている
日蓮系は「地獄に落ちる」といっている
*ちなみに逆の確率はありません。日蓮の方が法然よりも後にうまれていますからね。
さあ、貴方ならどちらに賭ける?南無阿弥陀仏を唱えるか?唱えないか?

私なら南無妙法蓮華経で試します(笑)。
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日蓮正宗の仏教徒です。

ですので、法華経が優れていると考えています。

まあ、それは良いとして、
人間には、「聞いて気付くこと」と「自分自身が高まり気付くこと」の2つあります。

聞いて気付くことというのは、友人から聞いて納得できることです。

自分自身が高まり、気付くことというのは、いろいろな人生経験を積むことで昔は良いこと思っていたがことがどうでも良くなり、昔はどうでも良いと思っていたことが実は大事だったりすることです。
 今になって親の言ったことを思い出してみると良く解るとかです。

仏教も同じで、聞いて気付けるなら、修行なんてものはいりません。日蓮正宗は、ご本尊(掛け軸みたいなもの)に向かい、朝は40分、夕方は30分程度の勤行と自分自身で決めますが、大抵5分以上の題目をします。けっこうしどいです。
念仏もお経ではなく、親鸞さんが書いたものを読み、念仏を唱える。これも毎日するとけっこうしんどいと思います。

初めは、信じて修行をする、その修行の成果が出て、経典に書かれていることが実感を伴う理解(悟り)ができる訳です。

話す根拠は、自分自身がそう実感して悟ったからでしょう。
悟るということ、悟れていなかったということです。中には、聞いただけですぐに悟る人もいますが、多くの場合、聞いただけでは悟ることができません。まして、深い、深い話になると悟ることはできないでしょう。それを知っているからこそ、相手の状態、性質を良く良く知り、教えを説かなければなりません。そのためには、相手のことを「想う」ことが必要不可欠です。自分が知ったから、説くというのは、覚えたことを使ってみたいというだけに過ぎません。それでは、多くの人を苦しめます。1kmも走れない人に、マラソンに出て優勝しろと言ってるようなものですから。

>神道、仏教、キリストなどの全ての神を呼ぶから
正確には、神道、キリストなどのすべての神を呼ぶ訳ではないと思います。正確には、法華経、南無妙法蓮華経を唱える人を守る神、それを聞く神などが来るとされています。


優劣の件ですが、誰が優劣を決めるかということが何よりも大切になります。釈尊が優劣を決めるのか、日蓮が優劣を決めるのか、親鸞、法然が優劣を決めるのか、自分自身が優劣を決めるのか、

皆、それぞれの人生観、仏教観が違います。故に優劣は皆一致しないでしょう。人それぞれと言う事になります。
では、人それぞれで良いのかと言えば、「信じることに意味がある」なら、人それぞれで良いと私は思います。
しかし、「信じて修行をし、効果をあるか ないか、意味があるか ないか、価値があるか ないか」なら、人それぞれではなく、それによって得る御利益、価値、効果によって決めるべきだと私は思います。

日蓮正宗では、念仏宗を邪宗と言っています。思い込みで言ったのであれば、ただの悪口です。しかし、思い込みではなく事実であれば、悪口でしょうか?

ただ、仏に少しでも近い人のみが解る世界です。私を初め、そういったものが解らない人間にとって、良い悪いを言ってもその教えが結果的な良い、悪いは言えないと思います。

何事も信じることによって始りますが、終始、信じるだけでは、自分の間違いに気付きません。終始、信じることは、騙されている、ただの思い込みに過ぎないかもしれません。
信じて始まり、その結果を感じて正しいか正しくないかを判断する。ありとあらゆる人の意見を聞き、それを無視しないで、それについて考えてみることが大事だと私は思います。

以上、参考になれば幸いです。
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私も、考え方だとおもいます。


感性で良いのかと思います。

日本の仏教は、いわゆる「大乗仏教」と言われるもので、釈尊の説いた「原始仏教」とはかけ離れています。
「法華経」も釈尊の死後に、弟子達が作った教典です。
釈尊が説いたものではありません。

だから、「仏教」でということでは、どれが優れていると考えるのは、難しい感じがしますね。
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>南無阿弥陀仏より南無妙法蓮華経のほうが優れている、、、



先ず、南無を取ってみますと、、、、

・阿弥陀仏

・妙法蓮華経

となります。

・阿弥陀仏は浄土三部経のうち、無量寿経に説かれている仏で、過去無数劫に法蔵菩薩が世自在王仏を師として四十八願を立て、願成就して阿弥陀仏となった。

・妙法蓮華経とは、「法華経」の正式名称であるが、その法華経が説くところの釈尊の成道を顕し、別しては久遠実成を顕すとともに、釈尊成道の本因の法である久遠元初を示す。
久遠元初とは生命の究極の状態であり、生命に本来具わる無作常住の仏性の事である。

因って、妙法蓮華経が百千萬億倍勝れている。

また、「南無」とは帰命ということですので、同時に「本尊」が大変重要な意味を持ちます。
いくら「南無妙法蓮華経」と唱えても、いくら成仏を願っても、本尊が正しいものでないと、全く無意味になってしまうどころか、悪業(あくごう)の因を積んでいることにしかなりません。

事実、中国念仏宗の祖である善導が、首吊り自殺をしそこなって、苦しみもがいて死んでいます。
「南無阿弥陀仏」の念仏は、人を救うどころか苦悩の渕へと突き落とす因を持っているのです。
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NO12です。

長すぎたみたいでパソコンがばぐりました。

では、結論です。
 先ほど説明したように、それぞれの立場にはそれぞれの教義があります。煎じ詰めて言えば、自分がどちらを選ぶかです。
 私は浄土真宗を信仰しているのは、自分は悟りに向うこともできず、『法華経』など自ら悟りに向う経典を理解できるほどすばらしい人間だとは思っていません。私は阿弥陀仏にすがるしか手立てがないのです。だから、阿弥陀仏にすがるのです。阿弥陀仏にすがる必要性を感じていない人にとっては、『法華経』こそ最高の教えであることは間違いないでしょう。
 しかし、一概に最も優れているからといって、それを理解できるかといったらそれは違うと思います。現代では主要な経典は現代語訳されているため私も『法華経』読んだことはあります。しかし、読めば読むほど、理解には遠くなる経典でありました。すると、逆にこの真理には到達できないことを確信し、いっそう至らぬ自分を感じ、自分が悟るべき道は極楽往生しかないと確信したしだいです。
 そんなわけで、答えにはなっていないかと思いますが、こんなところです。
 もし私の至らないところありましたら、専門家の方々に大いに付けたし訂正していただきたく思います。各宗派の方日蓮系新興宗教と呼ばれる方も大歓迎です。ご教授願いたく思います。


長々、駄文を連ねましたことをお詫び申し上げ、終わりにさせていただきます。
  合掌 南無阿弥陀佛
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 私は浄土真宗を信仰しているものです。

まず二つがどのようなものであるかから説明しなくてはならないと思います。たぶんこの質問をよむにここに書かれている、「南無阿弥陀佛」は浄土宗・浄土真宗・時宗等の浄土教といわれる宗派の念仏のことでしょう。そして「南無妙法蓮華経」は日蓮宗や日蓮系新興宗教のいう題目のことでしょう。
   浄土教のお経
 まず念仏とはどのようなものであるかですが、『浄土三部経』という三つのお経を簡単に説明します。お経というものは昔話ですからそんなに難しいものではありません。
1、『仏説 無量寿経』
 昔々あるところに法蔵菩薩(若かりし阿弥陀仏)が仏道修行に励んでおられました。この法蔵菩薩という方は「自分ではなかなか悟れない」そんな人も救う仏になりたいよ48の目標(四十八願)をお立てになります。その中でもっとも大切なのが18番目の目標(第十八願)「私が阿弥陀仏という仏になって、私の創った極楽という世界に心からうまれたいと思って、私の名前を呼ぶ(念仏)人があればどんな者でも救いとります。そして、念仏したにもかかわらずもし救われないものが出れば、私は仏をやめます」そこまでおっしゃってくださっています。
 それから気の遠くなるような長い時間修行なさいまして、やっとの思いで目標を達成できる力を得て法蔵菩薩という修行者の姿から、阿弥陀仏という修行の完成者へとポケモンで言えば進化なさいました(笑)
 こうして、阿弥陀仏のお名前を呼ぶ「念仏」は、極楽往生の行いとなったのです。

2『仏説 観無量寿経』(一部『涅槃経』)
 昔々王舎城にアジャセという王子様が住んでおった。この王子は自分の父ビンバシャラ王を殺し王様になろうとします。その時にアジャセの母イダイケという方は、夫が殺されては大変と王様をかばいます。しかし、その努力もむなしく大様はアジャセに殺されてしまい、イダイケ自身も牢屋に幽閉されてしまいます。
 幽閉されたイダイケはもがき苦しみます。そんな時、お釈迦様は霊鷲山(りょうじゅせん)という山で多くの信者にまさに『妙法蓮華経』のお説教の最中でありました。しかし、お釈迦様はそのお説教中断しイダイケのもとへ、アナン尊者という方をお供にテレポーテーションで飛んでいきます。
 すると、イダイケは「ちょうどよい所に来てくださいました、どうかお助けください。」とお釈迦様に救いを求めます。するとお釈迦様は「よしわかったイダイケよ。これより心で仏を念ずつ「念仏」という修行を教えよう。」とおっしゃって、イダイケに「念仏」という瞑想を教えます。すると、心の中で阿弥陀仏や極楽浄土を思い浮かべることで心落ち着けてゆき、最後には「心落ち着きましたと」お釈迦様にいうと、
お釈迦様はにっこり微笑んでお帰りになります。
 この帰り道お釈迦様は連れて行ったアナン尊者に一言付けさされています。「アナンよ。今私は心で仏を念ずる念仏を教えてきた。しかしお前が後の世まで伝えなくてはならないのは、阿弥陀仏の十八願にある「南無阿弥陀佛」のお念仏ですよ。」と、誰に乞われるでもなく釈尊のご意思で一言アナンに付け足されます。釈尊は後の世のために念仏であると説いておられます。

3、『仏説 阿弥陀経』
 このお経は極楽の世界を現し、クライマックスでは東西南北上下(全て)の世界の仏が現れ、べろを見せてくれます。なぜべろを見せるのかというと、その頃のインドにおいては、べろを見せるというのは真実の証明としては最上級だそうです。今でもそういった風習は残っているそうです。では、それだけの仏はどんな真実を証明してくれているのかというと、阿弥陀仏の本願力(救いの力)は本物であることです。このように『阿弥陀経』では、全ての仏様が念仏することをすすめます。

このようなわけで、念仏は阿弥陀仏だけでなくお釈迦様や全ての仏様が勧めてくださる行いなのです。ですから、念仏とはしっかりと仏様が定めてくださった「正定業」なのです。
  
   浄土教の人間観
 そして、もう一つ大切なのは、救われる側の心構えです。「自力」は悟れないことの自覚です。自力で悟れると思っている人であれば、別に念仏という方法を取る必要はありません。だからといって、自力で悟れる人が、念仏してはいけないわけではありません。 
 しかし、日本浄土教の祖師は自力で悟れる人の念仏ではなく、自力では悟りに到達することができない者が阿弥陀仏の「他力」によって極楽浄土にいかせていただく、悟れない者のための「他力」の念仏を説きます。ですから、「他力本願」の他力は他人という意味ではなく、阿弥陀仏一人に向けて使われる言葉です。
  
   浄土教と末法思想
 なぜそのような考えにいたるかですが、それは「末法思想」というものが関係します。わかりやすくいえば、お釈迦様がなくなってから長く立ちすぎて、教えを聞いていた人間にとっての賞味期限が切れてしまい悟りを得られない時代ということです。この末法という思想は鎌倉新仏教と呼ばれる宗派の祖師たちは影響を受けています。これに関して、法然や親鸞は素直に受け取り、悟れない時代の仏教を求めました。
 それが、阿弥陀仏の極楽浄土を目指す。浄土教です。

   まとめ
 短くまとめてきましたが、浄土教に関してはこんなところです。浄土教にとって、悟れない時代に悟るための教えは「ご利益という点では優れているけれども、自分の理解という点ではほとんど理解できない」絵に描いた餅になってしまうことになる。ですから、この娑婆世界(悟れない世界)で悟りをめざす道ではなく、阿弥陀仏のお創りになった極楽浄土という学校に入学して、阿弥陀仏や観音菩薩・勢至菩薩という先生について悟れせていただく道が浄土教です。その極楽浄土への入学願いが「南無阿弥陀佛」なのです。




では、次は「南無妙法蓮華経」について、ご説明します。私も折伏というのに何度かあっています。そのときに、日蓮も学ばなくては対抗できないと思いしばらく日蓮を学んでいます。ですから、専門ではありませんがなんとなく説明できるかと思います。   

  一念三千
簡単に言うと、一念の心の中には、宇宙の森羅万象あらゆるものがそなわっているという意味。これは、中国隋の時代の中国で天台宗を開いた天台大師智顗(ちぎ)はその著『摩訶止観』(まかしかん)の中で、「一念三千」(いちねんさんぜん)という重要な教義を展開しています。ただ、「一念三千」の思想は智顗の著作の中でも『摩訶止観』にしかみられず、この本を編集した智顗の弟子灌頂の独創とも言われる。しかし、その大元となる教えは『法華経』のなかの「諸法実相」の教えにもとづく。「諸法実相」とは、全ての現象は真理を表す。というようなことです。この教えは『法華経 方便品』で諸仏の真理の最も奥底にある真理であり、舎利弗(しゃりほつ)という釈迦の弟子の中で智慧第一といわれる人が、お釈迦様に何度も断られやっとの思い出といていただいた教えある。
 ですから、質問者の問いの中に、
 >>神道、仏教、キリストなどの全ての神を呼ぶから
とありますが、それはこの法華経の「諸法実相」からでる「一念三千」論が根底にあるのでしょう。「南無妙法蓮華経」の言葉の中に全ての真理が含まれているのでう。では、なぜ「南無妙法蓮華経」出なくてはならないのでしょうか。
  
   「南無妙法蓮華経」である理由
 まずなぜ『妙法蓮華経(法華経)』が重要視されるかですが、これはやはり天台大師智顗の教相判釈 (きょうそうはんじゃく)に基づきます。教相判釈とは、どんな順番でお経が説かれたかです。その教相判釈では『法華経』は釈尊が最後のに説いた教えとされます。
 ではなぜ最晩年に説いたとされるかというと、『法華経』自体を説く前段階で説いた『無量義経』の説法品なかで、教えをは方便と真実とに分けます。方便とは真実の目的を達するための手段で、『法華経』以前に説かれた四十余年の教えは、全て法華経の信仰へ誘引するための方便であり、お釈迦様がこの世にご出現になったのは、『法華経』を説いて一切衆生を成仏せしめることが目的であることをしめします。
 ですから、日蓮宗系の方にとっては『法華経』よりまえに説いたお経は全て方便であり真理ではない物なのです。
 そして、なぜそのお経の題名だけを唱えるかというと。

   なぜ題目なのか
 今では題目とは「南無妙法蓮華経」のことで日蓮宗の専売特許のようになっているが、題目という言葉自体にはもともとは経の題名という意味しかない。この『妙法蓮華経(法華経)』という題目に関しては、天台大師智顗が『法華玄義』のなかで、膨大な量の解釈を施している。そこで、『妙法蓮華経』という題目には、その経典全ての内容が集約されていると重要視する。
 この、「南無妙法蓮華経」と唱える題目は、平安時代には手軽に『法華経』の功徳がつめると、かなり普及していたようです。それを、修行の一部ではなく、独立した一つのものとしたのが日蓮であろう。
 題目を唱えるという考え方に、法然等の念仏を称えるという思想の影響があったかどうかは確かな根拠はないが、若かりし日蓮も念仏理論は
学んでいたことから少なからずあったというのが一般的でありましょう。
 それがうかがえるのは、題目とは釈尊と自分をつなぐものだという考えです。簡単に言ってしますと、『法華経』にこそお釈迦様のすぐれた働きがつまっており、それはさらに『妙法蓮華経』という名前に集約されている。それゆえに、題目を唱えることはお釈迦様の働きを全て受け継ぐことになり、我々はお釈迦様と一体になることができるのである。先に述べた「一念三千」理論でしかなかったが、それを具現化したのが題目ということになる。
 このように、浄土教で一体となるという表現はつかわないが、自らをすくいへと導く対象が、阿弥陀仏であるか、『法華経』=お釈迦様であるかの差であるといえよう。

   日蓮にとっての末法思想
 先ほど述べてように、末法とは悟ることができなくなった時代である。これを、日蓮はどのように解釈するかが問題のなってくる。
 日蓮は「法華経」は末法に生きる人々を主な対象にしているとみる。末法という時代は悟れない時代=苦しみの時代なのだから、そもそもお釈迦様が生まれたこと自体が全ての人を苦しみから救い真理へと導くためであるならば、末法の世の人のためでなくてはならなくなる。ですから、末法に生きる人たちが苦しんでいる、ということ自体も真理である『法華経』に導かれる前兆と解き明かすのである。

   まとめ
 僭越ながら日蓮教学について、まとめさせていただきました。日蓮にとっては、末法は悟れない時代ではなく、お釈迦様が『法華経』を説いた目的の時代なのです。そして、お釈迦様は『法華経』のなかに生きていて、末法でありながらお釈迦様が一緒にいてくださる。それを感じ一体となる方法が「南無妙法蓮華経」の題目である。そういった題目を唱えることで、この世界自体を『法華経』というお釈迦様がいる仏の国にして行こうという教えのようです。



さて、ながながおしゃべりさせていただきましたが、こんな文章ではきっとわからないかと思います。そこで私なりのまとめに行く前に、私などより詳しい方々の本を紹介したいと思います。
・浄土教
『目からウロコの親鸞聖人と浄土真宗』山崎竜明 学習研究社
『無宗教からの『歎異抄』読解』阿満利麿 ちくま新書
『浄土宗の常識』袖山榮輝/林田康順 朱鷺書房
・日蓮宗
『日蓮入門-現世を撃つ思想』末木文美士 ちくま新書
『日蓮-その生涯と思想』久保田正文 講談社現代新書
・仏教全般
『3日でわかる仏教』ひろさちや ダイヤモンド社
などが、わかりやすいのではないでしょうか。ひろさちやさんなんかは、仏教全体的に網羅している人ですし文章も読みやすいと思います。
入門編としてはもってこいです。

 さてそれでは、私の結論に移りましょう。



   

 




日蓮宗と日蓮系新興宗教は他の宗派への対応は別と考えるべきでしょう。質問にあるような「南無阿弥陀仏より南無妙法蓮華経のほうが優れている」などとあからさまにしめすような方は後者であると考えるべきでしょう。
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ご友人の説は「キリストを信じるより聖書を信じる方が良い」と言っているようなもの。

一般人にとっては比較の対象が違うものなんです。
元々「南無阿弥陀仏」は阿弥陀経を信じろと言うのではなく「阿弥陀如来に救いを求めなさい」という事から広まったものです。
単なる折伏(しゃくぶく:詳細はwikipediaを参照して下さい)だと思います。

いずれもブッダの教えから始まったものなので、優劣と言うものは無いでしょう。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%98%E4%BC%8F
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。お礼がおそくなり申し訳ありません。
>ご友人の説は「キリストを信じるより聖書を信じる方が良い」と言っているようなもの。
そのとおりですね。今別の題目も魔除け、おまじないのような感覚で覚えているみたいです。
折伏と言う言葉は初めて知りました。今ちょうど新興宗教の話題が出ているので、まさに、という感じです。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/01/11 18:27

>現在では、仏教の主流は日蓮系の宗派です。



これは、語弊があるのでは?
「(仏教+仏教系新興宗教)の最大人数」ならわかりますが。
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まず仏教というより日蓮宗の考え方を説明します。


日蓮という僧侶の考え方は、蓮華経という経典は、お釈迦様が最後に書かれた経典でありこの経典だけが重要であり、他のことは、すべて悪で阿弥陀仏を信じると地獄に落ちるといっています。
日蓮宗以外の他の宗派はすべて敵であり、浄土宗、キリスト教、神道は、全部認めません。
日蓮宗は、かなり過激なことを言っていますが友人の説明はおかしいですね。
日蓮は、鎌倉時代には、迫害されてきたのですが、日蓮宗同士でもいろんな考え方の人がいて日蓮宗の中でももめています。(創価学会など)
あなたは、その友人に宗教に誘われないように気をつけてください。
なお誤解のないように書いときますが日蓮宗を否定するつもりはありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。お礼がおそくなって申し訳ありません。

>日蓮という僧侶の考え方は、蓮華経という経典は、お釈迦様が最後に書かれた経典でありこの経典だけが重要であり、他のことは、すべて悪で阿弥陀仏を信じると地獄に落ちるといっています。

これは驚きですね。ちょっと不思議な教えです。しかし、やっぱり友人の言ってる事はおかしいですよね......。
ちなみに友人は特に宗教に入っている訳ではないので安心していますが、少し流されやすいんだと思います...。
今まさに新興宗教のニュースがやっていますが、信仰ならそれぞれで
信念を持ってやればいいと私は思います..。勧誘はよくありませんよね...。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/01/11 18:18

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