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最近よくお世話になっております。いいかげん引き上げようと思うのですが、質問すればするほど疑問が膨れ上がるサイトですね、ここはA^^;
ところで
哲学的態度とは要するに「自然を、あるがままに観察する態度」というふうに教えてもらったのですが、これって、どういうのですか?
本当に、できることなのでしょうか??
赤ちゃんがえりすればいい、ということなのかなあ?とも思いましたが、なんかよく分かりません。。。
なお、いつもお願いすることなのですが私は回りくどい文章が、もの凄く苦手です。直截な御説明をいただけない場合、お礼は素っ気無いものになると思います。その点、悪しからず。
宜しく、お願いします。
A 回答 (26件中11~20件)
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No.16
- 回答日時:
うーん。
まだ根底的に思い込みがあるようなので、それを崩しながら回答していかないといけないようですね。>しかし我々は基本的に生きたいのが本音ではありませんか?
私も前はそういう風に思っていましたねえ。「死にたい」も「生きたい」の裏返しだ、とか。
ところがどっこい、世界を意志や願望から切り離して考えると、「いつまでも生き続けるわけにはいかない」のです。
生き続けたいと思って外敵と戦ったり、病気を排除したりする努力は、こうした願望の上に成り立っています。社会もそうです。
ところが、事実に反することを願望するから、歪みが生じて、そのつけで苦しむことになります。
「そうであってほしくない」と事実に反する願望をしてみたところで、この世界では殺人は起こりうることです。この起こりうることを完全に起こりえないことにするためには、世界中の人が消えるしかないというくらいしかアイデアが思いつきませんが、それは当然本末転倒です。
>どう転んでも教育というものは「あるがまま」からは逃れられない宿命のものではないですか?
受動的な教育よりも、能動的な「気付き」を重視したいですね。
ただ、その気付きを刺激する効果が教育にあるという点で、偏見を与えようとする教育にもそれなりの役割はあると思います。
>他者に損害を与えること自明のうえで、それを行っても責めるには及ばない、ということですか?
そうですね。その代わり、他者に損害を与えられても、それをいくら責めても無駄だということを納得しないといけません。
まあこういう発想は、「泣き寝入りの哲学」という風に人の目には映るのでしょうが。
>「保証」などなくても守ろうとするのが人間ではないのでしょうか?いや人間でなくとも。
生きる上でのスタイルの問題といえばそうなのですが、守ろうとするのが当たり前だという風には考えない方がよいですね。確実でないことを断定的に前提すると、誤った結論が出てしまうと思いますよ。
保証が大事というわけではないのですが、「守ることができること」は同時に「守らないこともできること」でもあります。それでもあえて守るというのは、幻想の地平の行為です。
この回答への補足
先日、御投稿いただいた分からの抜粋です。
>私は自分中心な世界観を持つことを避け、道ばたの石から見た世界(もちろん石に知覚があるかなどということもありましょうが)蟻から見た世界、フランスの農民から見た世界、などと無数の世界観を想定し、その総合が「世界」である、という風に客観的であるよう配慮しているつもりです。
>判断することはできるが、それは絶対ではない、と撹拌し続けるのが「特定の判断に凝り固まらないこと」であるつもりです。
「つもり」というコトバを繰り返してらっしゃいます。
その「無数」を、どの数だけ設定できるのかということにもまた個人の限界が表れましょうが
他の御回答者様から御教示いただいた下記
>人間の認識能力を超え出て、神の視点とか、猿の世界観、蜜蜂の世界をその客観ではなく、彼らの生のなかに入って理解しようとすると困難が現れます。
「人間の認識能力を超え出る」ことも「彼らの生のなかに入って理解」することも、まずできないという前提付きの「客観的」なのですよね?ということは所詮、御回答者様の全ての御考えもまた「虚しい」の一言に帰する、そしてその「あるがまま」にまかせるというのも結局は自己の主観を肯定することに他ならない。
そうなれば我々にできることは。。。虚しさを承知で!
>野放しにすればいつの間にかイドラに取り付かれます。セメントを放置すると固まってしまいますが、撹拌していれば
野放しにしていればイドラに取り付かれる、とは具体的には?「野放し」とイドラは別ものなんですね?自分が受け取った印象のままにしておくと、ということでしょうか?
また「野放し」というのは一回こっきりの行為ですか?常に野放しに「し続ける」のではなくて。
そして「攪拌」とは?
>「生まれぬが幸せ」という厭世的な見方と「生まれてきて幸せ」という楽観的な見方は中和したいところですね。「生まれても生まれなくても同じ」くらいに。同じなら生まれなくてもいいじゃないかと厭世的な見方をする人もいましょうが、そういう人には、同じなら生まれていけないということもあるまい
「生まれぬが幸せ」は厭世的な、「生まれてきて幸せ」は楽観的な見方であると判断されておられますね。そして「同じなら生まれなくてもいいじゃないかと厭世的な見方」と繰り返しておられます。
中和「したい」というのは、つまり御回答者様に置かれましても未だ願望のレベルにあられるということでしょうか。
>その気付きを刺激する効果が教育にあるという点
「気付きを刺激すること自体が暴力である」という見解(実際おられます)に対しては、どう御考えになりますか?
>その代わり、他者に損害を与えられても、それをいくら責めても無駄だということを納得しないといけません。
まあ、それは理想ですね。。。それができていれば、そもそも他者に損害を与えること自明の行為などしないでしょうから。と言うより現実は行為者である自分が責められることなど、そっちのけで実行してしまうのでしょうが。与え与えられてしまった損害は取り返しがつかない。
>「そうであってほしくない」と事実に反する願望をしてみたところで、この世界では殺人は起こりうることです。この起こりうることを完全に起こりえないことにするためには世界中の人が消えるしかないというくらいしかアイデアが思いつきませんが、それは当然本末転倒です。
私は、むしろ、こうした御考えのほうが「本末転倒」のように感じられます。
何かが引っ掛かる。。。
「そうであってほしくない」ことが起こり得るのは(自分が殺人者になる可能性も含めて)「世界中の人が消えるしかない」くらいに避けられないことであるのだから願望無用、同時に「殺人を起こしたい」者は起こし得ている。。。つまり殺人を起こすことを「避けていない」「願望」を果たしている。
「泣き寝入りの哲学」なるものは詰まり「全世界肯定の哲学」というわけですか。しかも自分自身の願望以外は、という条件付きの。「泣き寝入り」というより「自虐的哲学」ですね。
>「守ることができること」は同時に「守らないこともできること」でもあります。それでもあえて守るというのは幻想の地平の行為です。
そうですね「幻想」かもしれません。
しかし私の実感では「守らずにいられない」、そこに選択の余地はないのです。「守らないこともできる」のであれば往々にして守りません。
誠に有難うございます。
恐縮千万ですが、もうこうなったら最後まで、この「道行き」に、手に手をとって、お付き合い願い上げますm(_)m
(決して御回答者様の首に縄をつけて「曾根崎」へ、とは申しませんが笑)
しかし、もう時間の猶予がなくなってきたのも確かです。(お顔がホコロビましたね?)
私が御回答者様の御考えから受け取った印象は、その御身体目がけて四方八方から矢が飛んで来る、その矢を避けようともしなければ刺さっても呻きもせず血が流れ出るまま中空に浮かんでいる。。。そんなイメージです。殆んどニンゲンじゃない(笑)
現時点では(恐らく将来的にも)御回答者様のような御心境には自分は到底至れ(ら)ないであろうという感想しか持ち得ません。(苦笑)
No.15
- 回答日時:
>「一切のルールは無効」の真意
ルールなどの秩序は、その秩序内のものが有効であることを示し、自己完結的です。結果として秩序の外側にあるものに対して攻撃的になる。そしてその身勝手な暴力は正当化される。ルールという線引きは、ルールを外れた者たちからすると不条理にしか見えないものです。
>これ以上には分解できないほどのルールというものが一番、利害や歪みから遠いと思います。
>私が上で述べたようなルールは裁くためのものにはならないと思います。むしろ、お互いを生かすためのものです。
うーむ。挑発的なことを言うのもどうかと思いますが、生かすことを目的とするというのが、私に言わせれば「利害や歪み」の一種なんですよ。
>教育また躾け等というものに関して、どのような御見解をお持ちでしょうか。
今現在行われている教育は、偏見を植え付けることと変わりないですね。
むしろ偏見から自由になるような教育が行われるとよいのですが、「前提としてこういう偏見がある」というのもまた偏見の1つであるというのが難しいところですね。
躾けに関しては、「こうあるべき」という偏見に基づくなら、あまりよろしくない、といったところでしょうか。「こうした方が好ましいが、できなかったとしても責められるようなことはない」という教養程度のものであれば、問題は少なかろうと思います。
>御自身や御自身にとって掛け替えのない者を守るということに関して。
どうでしょうね。絶対に守れるという保証がありますかね。
私は、守ることすらできないからこそ、かけがえがないものであると思いますが。
この回答への補足
お礼欄最後尾での「守れない」「守ろうとする」云々ですが、このへんは、それぞれの生きるうえでのスタイルにもなりましょうから決して御答えを強要するものではございません。予め申し上げます。
補足日時:2007/01/29 06:02御寛恕いただきまして感謝申し上げます。
もう、そろそろ切り上げるときが近づいてきたか、と思えば、またまたクエスチョンの行列が…我ながら困ったものです。
>生かすことを目的とするというのが、私に言わせれば「利害や歪み」の一種
しかし我々は基本的に生きたいのが本音ではありませんか?自殺願望を持っている者ですら。
では言いかたを変えて「殺させないことを目的とする」のも「殺したい者」にとっては「歪み」に他なりませんよね。
それでも「殺したい者」は、どんなルールも乗り越えようとするでしょうから、その意味ではルールなど無効、無力というのは或る面の現実です。
生きたい者は自分が殺されないために他者(まあ概ね人間対象にしかなりませんが)を殺さないようにする。だが殺したい者は自分が殺したいのだから他者も自分を殺したいのは当然だとして受け入れるのでしょうか?自分は生き残りたい、だが殺したい対象は殺したいのではありませんか?
両者間のギャップを埋める努力は必要ないのでしょうか。
>今現在行われている教育
「今現在」に限る必要はなかったのですが、どう転んでも教育というものは「あるがまま」からは逃れられない宿命のものではないですか?
>「こうした方が好ましいが、できなかったとしても責められるようなことはない」
それは、他者に損害を与えること自明のうえで、それを行っても責めるには及ばない、ということですか?
>絶対に守れるという保証がありますかね。
私は守ることすらできないからこそ、かけがえがないものであると思いますが。
守ることすらできない、だから掛け替えがない、ということと守れないかもしれないが掛け替えがないから守ろうとする、という違いが出てきましたね。
「保証」などなくても守ろうとするのが人間ではないのでしょうか?いや人間でなくとも。
No.14
- 回答日時:
>ここまで来て御回答者様の御説明のなかみが前回削除された質問に対するそれも含めビミョーに変化してきたような感
それはあるでしょうね。1つのことを言いたくとも、それを言うためにいろいろ自分の立つ位置を移しますから、逸脱も多少はあるかと思います。それがかえってわかりづらくしているかもしれないことはおわびしておきます。
>「自分の鏡に映った」世界の全貌、ということなのですね?
「自分の鏡に映る」のは、あくまで「自分の世界」でしかないと思います。他人も自身を考える時は「自分」と思っていると考えれば、自分は1つではない、自分という鏡は唯一ではない、ということになります。
私は自分中心な世界観を持つことを避け、道ばたの石から見た世界(もちろん石に知覚があるかなどということもありましょうが)、蟻から見た世界、フランスの農民から見た世界、などと無数の世界観を想定し、その総合が「世界」である、という風に、客観的であるよう配慮しているつもりです。
言ってしまうと、世界自身は何かを映したりしないのです。森羅万象が世界であるという考え方では、世界の外側に何かがあるはずもなく、世界は外部を映し出すということがないのです。そういう意味で、「鏡」という言葉がどれだけ当たっているかわかりません。
>「特定の判断」を下さないために、何もかも手付かずの野放し状態に置いておく、ということとは違うのでしょうか。
もちろん野放しが理想ですが、野放しにすればいつの間にかイドラに取り付かれます。セメントを放置すると固まってしまいますが、撹拌していれば液状のまま。つまり求められるのは柔軟な感覚といったところでしょうか。確かに私の「思考期間」は終わりました。しかしその思考も撹拌され続けなければ固定してしまうのです。あまり思考して多くのセメントを流し込んでしまうと、今度はそれを撹拌するのが大変です。そういう意味で思考や学習は、かえってイドラのもとだったりします。ましてや判断などして固定させてしまったら。判断することはできるが、それは絶対ではない、と撹拌し続けるのが、「特定の判断に凝り固まらないこと」であるつもりです。
>「イドラに何ら関係のない本質」というのは、たとえば数学の公式のようなもののことでしょうか。
女性ならば女だ、というような、“どうしようもなく”「当たり前」なことだけが残ると思われます。どうしようもなく、が付くのは、「当たり前」だと思われていることが、打ち壊されることがあるからです。1+1=2は当たり前と思われていますが、私は便宜上そういうルールにしただけだと思っています。なぜ右辺が左辺に比べて簡単にならなければならないのか、など、ツッコミどころは多いです。これを“どうしようもなく”「当たり前」なものにするなら、「1+1=1+1、ただし、最初の1と3番目の1、2番目の1と4番目の1は同一のものであると見なし、記号+は両辺において同じ役割を果たし……」…面倒なのでやめます。
私自身の考えでは、トートロジー以上に、“どうしようもなく”「当たり前」なことはないような気がします。あくまでも気がするだけですが。
>結局イドラを完全に取り去ってしまえたとしても、そこに残るものなどあるのか。公式の理由など問うたところで虚しい、それならもう何も問わない、「生まれぬが幸せ」と「否定の哲学」へと進むのか。
残るものがあろうがなかろうが、あまり関係ない、というのが実際のところでしょうね。もし宇宙の全法則を知っていたとしても、私は死ぬまで特別なことはしないと思いますよ。生きている間だけ生きる、ようなものです。
「生まれぬが幸せ」という厭世的な見方と、「生まれてきて幸せ」という楽観的な見方は、中和したいところですね。「生まれても生まれなくても同じ」くらいに。同じなら生まれなくてもいいじゃないか、と厭世的な見方をする人もいましょうが、そういう人には、同じなら生まれていけないということもあるまい、と答えます。
「余計なお荷物」論は興味深く拝読しました。
私自身は、「心というものの考え方こそ幻想ではないのか」という懐疑から、心の問題は存在しなくなりましたが、まあこれは別の話なので。
>>存在というやつは、善悪を超越していて
>だからこそ、これ以上には分解できないレベルのルールが必要だと思うのです。
ただ一点立場の違いがまた明確になったのですが、私は、一切のルールは無効だ、と思っています。後天的に構築されたルールというのは、どこかしら利害関係がからんでいて、歪んできます。また、私の言葉より、ルールによって存在が裁けるとは思えません。
根気強くお付き合いいただきまして誠に有難うございます。
>「生まれぬが幸せ」という厭世的な見方
これは「否定の哲学」とともに仏教の考えかたなのだそうです。
それはそうでしょうね仏教では、この世を「苦界」「苦海」と言うそうですから。
>一切のルールは無効
これは、どういう御真意で仰いますでしょうか。飽くまで哲学的な見地からということでしょうか。
>後天的に構築されたルールというのは、どこかしら利害関係がからんでいて、歪んできます。
ですから、これ以上には分解できないほどのルールというものが一番、利害や歪みから遠いと思います。歪みが生じるのは、どこかに余分なものが絡むからだと思います。
>ルールによって存在が裁けるとは思えません。
私が上で述べたようなルールは裁くためのものにはならないと思います。むしろ、お互いを生かすためのものです。
今回の御回答に至って、もし今少し重ねて御寛恕いただけるようでしたら、お伺いしたいことがございます。
御回答者様に置かれましては、教育また躾け等というものに関して、どのような御見解をお持ちでしょうか。
また御自身や御自身にとって掛け替えのない者を守るということに関して。
(どうか御無理のないペースで、お願いいたします)
No.13
- 回答日時:
ANo.11のコメントについてです。
> ところで「公式の理由を問う」ということについて、どう御考えになりますか?
どういう文脈のお話だか分かりませんので、カンでお答えいたします。
(1)「公式だけに頼るマニュアル人間じゃ、応用が利かない」
(2) 「公式の強度を知らないんじゃ、無闇な応用は危ない」
(3) 「公式の適用範囲を拡張するには、公式の根拠を深く知る必要がある」
ということでしょうかね。
「公式」には大概、適用条件が付きます。例えば「ピタゴラスの定理が成り立つ」ためには、その空間がある一定の条件を満たすものでなくてはなりません。「ガリレオの相対性原理が成り立つ」ためには、速度と質量が小さい、という条件があります。経済学や心理学の「公式」となったら、測定方法や文化・制度・時代背景の影響まで受けるだろうからさらに条件は厳しいでしょうし、「唯物論的歴史観が成り立つ」のは特定の人の頭のなかだけ、という条件が付きます(冗談です)。
普段はそんなことまで気にしないで使ってますが、公式の適用範囲の広さ(つまり強度)は公式によって様々でしょう。ことに、個人的経験の積み重ねから「我流の公式(いつものやりかた)」が出来てしまうけれども、これは強度が弱い。文字通りの「一敗地にまみれる」、つまり死ぬほどの大失敗を経験していないからこそ生きているわけで、逆に言えば、初めて死にそうな目に遭ったときに我流公式は役に立たない。
公式が見いだされたのと同じような状況、同程度の規模の現象を相手にしているぶんには、大間違いは少ないでしょう。けれども、公式の適用範囲を拡張していこうとすると、いずれ公式が破綻します。破綻したら公式を修正して、広い範囲で成り立つ公式にする。こうやって、どんどん拡張にチャレンジしたがるのが、西洋の哲学の特徴のひとつだと思います。(これは根本に、「はじめに言葉ありき」という信念、つまり法則至上主義とでも言うべき形而上学があるからではないかと憶測しています。)随分無茶をやるなと思うんですが、成功している実例として、ミクロのスケールから宇宙全体までを同じ物理学が概ねカバーできている、ということが挙げられますから無闇に馬鹿にはできない。
しかし、公式がどうやって見いだされ、どうやって検証されるものであるかを知らなければ、公式が破綻したかどうかも分からない。(普段は明文化されていない)適用条件を踏み外しそうかどうかも分からない。修正することも拡張する事もできないわけで。
> 挙げてくださったソシュールの参考Urlは残念ながら繋がりませんでしたので見ておりません
このURLの記事は、要点がよくまとまっているので断然お薦めです。見えないのは、右端に「カッコ付けてる」のが邪魔しているからでしょう、背景から対象を正しく切り取れば前に進めます。「最後まで」ご覧になれば、[BACK]し続ける視点という謎を首尾よく発見できるかも知れません。
両三度にわたるアドバイスをいただき有難うございます。
>「ピタゴラスの定理が成り立つ」ためには、その空間がある一定の条件を満たすものでなくてはなりません。
>経済学や心理学の「公式」となったら測定方法や文化・制度・時代背景の影響まで受けるだろう
「哲学的態度」というものについても同じことが言えそうですね。
>公式の適用範囲を拡張していこうとすると、いずれ公式が破綻
まあ日常の卑近な例でも、ありがちなことで。
>死ぬほどの大失敗を経験していないからこそ生きているわけで
死んでしもたら経験は生かせませんがな(笑)
>公式がどうやって見いだされ、どうやって検証されるものであるか
「公式の理由を問う」というのはですね、つまり、どのような公式であれ、なんで、それが成り立っているのか成り立つ理由と言いますか。。。
たとえば或る音を聴いたときに或る情感が自動的に引き起こされるとする、その「自動的に」そうなってしまうことの理由
―聴覚器官を通して脳内のドコタラの分野に達して処理されると意識的にせよ無意識的にせよ刺激された記憶中枢から引っ張り出された記憶によって情動が刺激され(よく知りませんけど)―
という一連の成り立ち自体が、なんでそうなるのかということなんです。
>「はじめに言葉ありき」という信念
この~「信念」は、かねがね、始末の悪い…という印象を持っていましたが物理学的には、うまいこといってるんですか、フシギですね~!
>「命名(言葉)を通して、初めて事物の存在を認められる」
先日挙げていただいたソシュールについての参考Urlからですが
「はじめに言葉ありき」と一脈通じているような。
それにしても命名するからには命名したくなるモノがあるんじゃないかという疑問は残るんですけどね凡人の感覚的に。でも、なかなか意味深なコトバではあると感じ入りました。「言霊」にも通じるかな?
※ソシュールの参考Urlですが
なるほど「カッコ付けてる」のをはずしたら前に進めました。(笑)
おまけに[BACK]し続ける視点から何事かを発見できました。(笑)
そのうち追っかけデビューするかもしれませんので、そのときはメンドー見てやってください!!☆
No.12
- 回答日時:
もう追加するようなこともないのですが、自分なりの補足をしますと、
・「自然」という言葉で何を言いたいか。
言い換えるなら「世界の全貌」。世界の全貌のあり方は自然である、という前提を暗黙のごとく語っていたかもしれないので、補足します。
・「あるがまま」の様相。
特定の判断に凝り固まらないで考えるということです。差異からはじまる相対主義のようなものです。
人間(に限らずどんな生物もですが)は定点観察ばかりしていますが、その定点からの観察がいつも正しいとは限らないということでもあります。
さて、こんな補足よりも、意見の一致点を見たような気がするので、ここで確認をして、回答を終えることにしたいと思います。
>私自身は「善悪」というものの出発点は人間が、お互いに生き易くする上で定めたルールの「仮の名称」に過ぎないと思っています。
「善悪」に出発点というものがあるとお考えですね。起源・起点があるということは、はじまる前の段階があるはずであって、善悪というのは後天的な概念であるということになりますよね。
現実問題を考えると、善悪は時代や状況によって大きく変わったり、善悪というもののために人間が生きづらくなるということがあります。
善悪が後天であるというところでは、どうやら一致をみたようですが、善悪は薬にも毒にもなりうるということについてはどのようにお考えでしょうか。
私としては、善悪というイドラを除外して物事に向き合うしかないと思っています。
善悪に限らず、価値とかもです。存在というやつは、善悪を超越していて、さらに超価値(無価値ではない)だったりしますから。
前回でおおよそのことがわかったようですから、これでおそらく補完されたものと思われます。
この回答への補足
さて補足に関してですが
>善悪は時代や状況によって大きく変わったり、善悪というもののために人間が生きづらくなるということがあります。
実際、時代や情況で変化していると思います。それは善悪に関してだけではないでしょうが実は、ここにこそ哲学的に求められる普遍なるものが要請される理由があるのではないかと私は思っていたのです。
「悪」というものは詰まるところ「生き辛くなる」ようなことが悪、「生き辛くなる」ようなことになれば善ではなくなる、というように単純な受け止めかたもできると思います。
しかしながら楽しい「悪」も辛くても実行するべき「善」もあるでしょう。そのように複雑に捩じれたような「善悪」の様相が生じてくることの一番の原因に人間心理の複雑さ―私は「余計なお荷物」と呼んでいますが―言ってみれば
(前回削除された質疑のなかでも或る回答者様に対して述べたことですが)
もうこれ以上には分解できないレベル、そのレベルから逸脱してしまっていることから起きてくることだと考えております。
たとえば我が子を慈しみ育てること、これは、いつの時代にあっても「善」とされていると思います。ところが、これに親のエゴと言いますか自己愛の強さが巧妙に隠されていると、たちまちにして、それは「善」とは程遠いもの、つまり「毒」になってしまう。
或いは戦時においては我が子の命を権力者に提供することが美徳にもなる。
本来の概念から遠ざかった姿にさせているのは「(余計なお荷物をぶらさげた)人間の心理」だと思うのです。その「余計なお荷物」を取っ払っていくことが哲学的思索であり態度であると私なりに考えておりました。ですからまあ「イドラ」をどれだけ取っ払えるかということに通じてきましょうか。しかしまた「これはイドラである」と見極めていくこともまた、たいへんに困難なことではあります。その困難さとは心理学方面でよく言われる「自己分析」の困難さにかかわってくることでもあると思います。結局これができない人には哲学的態度を保つことも困難なのであろうと思います。(ソクラテスの「汝自身を知れ」ですかね)
本来、自己愛というものは至って素朴なものだと思いますが複雑怪奇な姿に変幻させるものもまた、これであろうと思います。ですから自己愛の強い者ほど変幻自在に他者を欺こうとするし、その衣装を剥ぎ取られることを最も憎みます。そこから争いは起きてくる…
よく世間で言われる「犬や猫は人と違って人を裏切らない」というのも犬や猫が至って素朴シンプルなルールの下に生きているからであって人間においては、その素朴さシンプルさから逸脱しているが故の「哲学」かもしれません。
かつて可愛がっていたノラ猫を思い出します。彼は初めて私というヒトの手から直接、食べ物を差し出されたとき悲痛な声で鳴きました。(それまでは地面に置いてやっていた)私は言いました。「よしよし、ペロッと舐めたら手を噛まずに食べられるよ」と。彼は安心したようにそうしました。
そうかと思えば飼い犬が周囲の人を警戒するあまり産み落としたばかりの我が子を呑み込んでしまうことがあるとか。
>存在というやつは、善悪を超越していて
だからこそ、これ以上には分解できないレベルのルールが必要だと思うのです。そのシンプルさは我が身を守ることはあっても決して他者を脅かすことはないと思います。
でも往々にして「余計なお荷物満載」の人ほど「シンプルな人」を脅威と見なしがちですね。彼ら彼女らにとっては「荷物を剥ぎ取られる」ことが「悪」なのでしょう。そんなことをされるくらいなら相手を殺そうと思うのでしょう。
「余計なお荷物」を後生大事に離さない人が要求する「全受容」という「善」など私は信じません。
また、この「お荷物」はコトバにおいても表れやすいと思っています。
今回は御回答者様のシンプルな「善」によって御教示いただいたこと重ねて、お礼申し上げます。
何度も、お時間を割いていただき本当に有難うございます。
ここまで来て御回答者様の御説明のなかみが前回削除された質問に対するそれも含めビミョーに変化してきたような感もするのですが、これは理解の鈍い私の目線に譲歩してくださったせいもあるかと思いつつシツコク確認。
>言い換えるなら「世界の全貌」
これは「自分の鏡に映った」世界の全貌、ということなのですね?
>特定の判断に凝り固まらないで考えるということ
これは「特定の判断」を下さないために、何もかも手付かずの野放し状態に置いておく、ということとは違うのでしょうか。
前回の御回答のなかで述べられた
>イドラは本質にはなんら関係ない
「イドラに何ら関係のない本質」というのは、たとえば数学の公式のようなもののことでしょうか。
結局イドラを完全に取り去ってしまえたとしても、そこに残るものなどあるのか。公式の理由など問うたところで虚しい、それならもう何も問わない、「生まれぬが幸せ」と「否定の哲学」へと進むのか。
確か他の御回答者様が
「他者の鏡に映った自分も自分の姿として受け入れる」
というようなことを仰っていましたが、この点、御回答者様も同様の御考えでしょうか。(そうであれば、これ以上の御回答はなくても不思議はありませんが)
No.11
- 回答日時:
ANo.10 に対するコメントについてです。
> 「プロセスは死滅必定だから価値がない」とは御考えにならないわけですね?(あ、私はプロセスばんざい!です)
プロセスなんかいらない、確かな結果が欲しい、答だけでいいから教えてぐう、じゃ面白くないじゃねーですか。プロセスを抜きにしたら、それは哲学じゃなくなり、せいぜい「金言集」しか残らないでしょう。
死滅必定のものは無価値だと仰る方も居ないではないでしょう。けれど、未来の時間の果てを知らないもの、どうやって「コレは永劫不滅だ」と言い切れるんでしょう。となると、あらゆるものは無価値、という話にしかなりません。で、「あらゆるもの」と言っているその「もの」は枠で切り取られて「もの」になってる訳です。そんな儚い「もの」に比べてすら、「死滅必定」という「枠」による二分法のいい加減さ無意味さったら、どーでしょ。
枠からは逃れられず、理論を作るには枠が必要ですらある、と申し上げたのは、「構造主義」の基礎とも言えるソシュール言語学の帰結、すなわち、人の見方こそが事物を事物たらしめている、ということの言い換えに過ぎません。それに対して、だったら枠を解体しろ、というのが「ポストモダン」ちう奴です。しかし解体とは言いながら、それは結局、別の枠をあつらえることによって行われる。言い換えれば、解体者ごとに別の枠が生じる訳で、つまり勝手な我流がまかり通る、ということでもあります。
stomachmanとしては、(我流は大好きなんですが)でもそこにまた枠を嵌めたい。少なくとも何を対象にした、誰の我流なのかを明らかにし、結果だけじゃなくプロセスを他者に説明してみせろ、という枠です。で、たとえば科学はこの要求に沿っています。
> やっぱり、リセットは大事、それと共に次のステップに上がれと。またリセットなしには上がれるものじゃないと。
「多面的に見て行くこと」と申し上げたけれど、「重層的に」に訂正したくなりました。リセットする、否定する、という言い方をしますけれど、でも完全に捨て去るのではない。いつでもその視点に戻って来ることはできる。(さもないと、ヨノナカ的に共有される枠(すなわち言葉)を拒絶することになり、コミュニケーションできなくなっちゃいます。)しかも、その視点の弱点を、今や知っている訳です。
必ずしも上へ、前へと向かわなくても良いんです。BACKし続けることで見えて来ることだってあるでしょう。
( ソシュールについてはhttp://members.at.infoseek.co.jp/serpent_owl/arc …
再度のアドバイス、まことに有難うございます。
>答だけでいいから教えてぐう、じゃ面白くないじゃねーですか。
あまり役立てられないだろーとも思いますね、実際。
>どうやって「コレは永劫不滅だ」と言い切れるんでしょう。
てか、むしろ「永劫不滅のものなどない」と言いたいのでは?「万物は流転す」とか。。。?
>人の見方こそが事物を事物たらしめている
その「人の見方」というものを、もし全取っ払うことができたら、そこに何かあるでしょうか??やっぱり「別の枠」が出現するだけでしょうか。。。??
>少なくとも何を対象にした、誰の我流なのかを明らかにし
これ大事ですよね、実感します。これができないと
>結果だけじゃなくプロセスを他者に説明してみせろ
これもできないんじゃ、と思います。
>「多面的に見て行くこと」と申し上げたけれど「重層的に」に訂正したくなりました。リセットする、否定する、という言い方をしますけれど、でも完全に捨て去るのではない。いつでもその視点に戻って来ることはできる。(さもないとヨノナカ的に共有される枠(すなわち言葉)を拒絶することになりコミュニケーションできなくなっちゃいます。)しかも、その視点の弱点を、今や知っている訳です。
このへん、よく理解できたと思います。つまり視点の融通無碍と言いますか観自在と言いますか過去参照能力と言いますか。。。
ちいさい子どもに専門用語ぶつけたって、しょうがないですもんね。
ん~大事なところは皆さん共通点があると思うんですが。。。
ところで「公式の理由を問う」ということについて、どう御考えになりますか?
(挙げてくださったソシュールの参考Urlは残念ながら繋がりませんでしたので見ておりませんが、ウィキペディア等を、ちょこっとだけ覗いたことはあります)
stomachmanらぶ☆の私としては、また来てくださって頬っぺたユルミっぱなしです。戻らなくなったらどうしよー;^~^A
No.10
- 回答日時:
あるがままに観察するなんて、できっこないです。
何かを観察するということは、「そこに何かがある」と既に知っている筈です。例えば一頭の牛を眺めてみた。なんで一頭だと思うんでしょうか。なぜその牛を、牛と不可分に接している土や空気や、牛とじかには接していない太陽や鳥の声や観察者たる私、その他のものから切り離して考えるんでしょうか。もう既に枠を嵌めて見てしまっています。極めつけが、「それは牛だ」と思ってしまう、ということ。これが当たり前でも必然でもないのは、コンピュータが映像から「コレハ牛デス」と認識するのは猛烈に難しい課題である、ということからも分かるでしょう。
観察している対象を敢えて名前を付けないで観察し続けたとしたって、1秒前に見たそれと同じものだとついつい思ってしまうじゃありませんか。しかし、例えば映画のスクリーンに映っている像は、実はブツ切れの静止画の羅列である。一コマずつ全然別の写真を並べて行けば、とても動画には見えないような映画だって容易に作れるわけです。では、ナマで見ているものならブツ切れでないと、どうして思い込んでしまうのか。
観察したと思っている「現実」なるものは、観察者が受けた感覚を、さらに脳味噌の中で加工して再構成したものです。そのプロセスの中で多くのイロイロが抜け落ち、抽象化され、テンプレートにはめ込まれ、付加され、…。喩えれば、凝ったソースの掛かったフランス料理のステーキを見て牛を観察した積もりになってるような、そんな程度のもんでしょう。その限界を越えるための一つの手段が、観測装置を開発して使う事です。ナマの感覚では捉えられないような信号(非可視光、超音波、ごく微細な形態、極めて速い動き、…)を捉える。西洋の自然科学は、そういう哲学の方法として発展した訳です。
ですが、ここでのお題は観察する「態度」の方に重点があるんでした。が、これも科学と重なります。(科学はもともと自然哲学の一分野ですから、当然と言えば当然ですが。)
従来言われている説明、抽象化の仕方、名前の付け方、分類の仕方、背景からの切り取り方、観察の仕方にとらわれず、むしろそれらを一度否定して、新しい見方を見つけだす、という活動が(実践としての)科学です。ここで言う見方とは、(くどいですが)観測手段の違いでもありうるし、抽象化の仕方、説明の仕方、名前の付け方、分類の仕方、背景からの切り取り方の違いでもあり得る。
しかし、そうやって作り出した新しい見方もまた、ひとつの枠です。だから結局は枠を嵌めて観察するしかないんです。でも枠を嵌めるのは悪い事ばかりじゃない。枠は「理論」(対象に関する一貫した抽象的な説明)を生み出すからです。「理論」が構成できたときに初めて「説明」が可能になり、予測が可能になり、観察方法を整理し直してもっと的確なやり方を構成する事もできるし、応用もできる。その「理論」を作る上でまず必要なのは、その理論が何に関する理論なのかをはっきりさせることです。(はっきりさせないと、エセカガクになっちゃいます。)そのためには、観察対象を(その理論の対象になるもの、という)カテゴリーに分類するための、カテゴリーの概念と判定手段を作らなくてはなりません。それから、観察される現象から、一回だけの経験じゃない、再現性のある性質・法則のようなものを見いだす抽象化が必要で、逆に言えば、経験のうちの「余計」な所を切って捨象する。つまり、理論を構成するには枠が必要なんです。
ひとたび理論ができれば、それを使ってさらに新しい観察方法や観察手段、新しい分類方法や説明方法に到達することも可能になる。でも、幾ら成功した理論でも信じ込んではアカン。新しい枠を作り出して行くんです。新しい枠を常に求める。自分で苦労して作り上げた枠だからと言ってとらわれてはならない。ちょっとでもホンモノの牛に近づくために、せめて料理の仕方をいろいろ変えてみようってことですね。(素粒子物理学は、分かりやすい実例だと思います。)
んなことやってもしょうがないじゃないか、どうせ届かないのだから。と言い放って観察をやめてしまったら、サトリに一歩近づきはするでしょう。それはそれでひとつのスタンスなんですが、牛を知ることも諦めてしまうことになります。いや俗人としてはここで断然足掻くのです。
で、最初のお題である、<自然を「あるがまま」観察する態度>を、stomachmanはこう解釈します:
誰かに教わった物の見方、自分が習慣的に思い込んでいる物の見方、最先端の新しい物の見方、これら全ての既製の物の見方とは違う新しい見方を発見し続けて行くプロセスの中で、対象(その切り取り方すら変わる訳ですが)を多面的に見て行くこと。そのためにまず、無意識のうちに嵌っていた枠を、意識することによって取り除くこと。
どうも上手くまとまりませんでしたが…
この回答への補足
とても分かり易いアドバイス、有難うございます。
>「それは牛だ」と思ってしまう、ということ。
「禅」の修行では、ある物を指し示されたときに「これは○○です」などと答えたら叱られるんだそうな。これはこれでコトバの縛りや固定観念の激し過ぎるなどの人をリセットさせるための良い方策かと思いますが、そこで止まったままなのかどうか、知らないので、ちょっと興味があるんですが。。。
>限界を越えるための一つの手段が、観測装置を開発して使う事です。ナマの感覚では捉えられないような信号(非可視光、超音波、ごく微細な形態、極めて速い動き、…)を捉える。西洋の自然科学は、そういう哲学の方法として発展した訳です。
つまりヒトの認識限界を突破するために、と。
>従来言われている説明、抽象化の仕方、名前の付け方、分類の仕方、背景からの切り取り方、観察の仕方にとらわれず、むしろそれらを一度否定して、新しい見方を見つけだす
一旦リセットしよ、というのは基本的に皆さん大事なこととして仰ってると思うんです。でも、リセットしたまんまでよい、ということなのか、そもそもそれができるのかというところで自分は引っ掛かってたんだと思います。だってリセットできるのは新しいものが入ってきたからなので。。。だって生きてるんだもん。
>幾ら成功した理論でも信じ込んではアカン。新しい枠を作り出して行くんです。新しい枠を常に求める。自分で苦労して作り上げた枠だからと言ってとらわれてはならない。
「成功」してないのに信じてる人いますね(笑)
やっぱり、リセットは大事、それと共に次のステップに上がれと。またリセットなしには上がれるものじゃないと。
>せめて料理の仕方をいろいろ変えてみようってことですね。
視点を変える、ってことですね。
いろんな角度から見るのが大事、って高校生のとき『零の発見』読んで書かされた作文のなかで述べて数学の先生に絶賛されました~エヘ。
>んなことやってもしょうがないじゃないか、どうせ届かないのだから。と言い放って観察をやめてしまったら、サトリに一歩近づきはするでしょう。それはそれでひとつのスタンスなんですが、牛を知ることも諦めてしまうことになります。いや俗人としてはここで断然足掻くのです。
同感です。
っていうかサトリよりも知りたい。。。(煩悩か?)
アレ?でも「思索期間が過ぎたら哲学不要になって、あとは観察するのみ」って仰ってたかたが。。。哲学と観察は別ものですか??アレ?
と、とにかく「俗人」バンザーイ!!
>新しい見方を発見し続けて行くプロセスの中で、対象(その切り取り方すら変わる訳ですが)を多面的に見て行くこと。
「プロセスは死滅必定だから価値がない」とは御考えにならないわけですね?(あ、私はプロセスばんざい!です)
>無意識のうちに嵌っていた枠を、意識することによって取り除くこと。
困難なことですけれど、これに努めることくらいしかできないですね、私としても。
(スペース不足のため補足欄に記入致しました)
ところで先日、この質問直前の継続中の質問を「淘汰」されてしまったんですが、そのなかで
「数学カテゴリの常連のかたで私が秘かに尊敬申し上げている会員様がいる」
と述べたんですけど、まさにその!stomachman様からの御投稿が!!
思わず目を疑いました。
あぁ~嬉しい!!!鼻血出そう。。。
以前、貴方様の過去の質疑応答を私の投稿のなかで参考用に引用させていただいたこともあります。
今回、私の目線に下がっていただき、分かり易く御説明いただいて助かりました。
stomachman様の御文章、私は大好きです☆
これからも、いろいろ教えてくださいね!
No.9
- 回答日時:
ここの管理者は、哲学については門外漢ですから、印象で判断するのでしょう。
雑談だという「先入見」で削除されたのか、質問ではなく論争になってしまうことのあった過去の質問の経験に「とらわれて」削除されたのか、そのへんは分かりませんが。問われた分に対しては答えるのが回答者のあり方だと思っていますので、答えるまでです。
>脱却と言うよりは追究することを諦めて「手離す」というほうが近いですか?
イドラは本質にはなんら関係ないわけですから、それにとらわれない追求の仕方を探ることになります。言ってしまえば、腐ったものは食べない、というのに近いものがあります。しかし、腐る前は食べられたであろうものなのですから、イドラが加わるその前の段階がある、という風に考えるわけです。つまり、後天的なものを一切除外して考えるということですね。「後天からの脱却」でも「後天を追求することを諦めて手離す」でも、あまり大差はないものと考えます。
>たとえば「冷たい、寒い」と感じるのを、ただ感じるだけにして「なぜ冷たい、寒いと感じるのだろうか」と疑問に思わないという感じですか?
なぜという問いには答えようがないものです。答えようがないものの答を探したって、答は見つからないか、あるいは嘘の答が出てくるばかりです。だからそういう問いは一切無効だと考えます。
>事象対象の背景を探ることをやめる、ということでしょうか?
完全にやめろということではないですね。知り尽くせないことを前提に、探られた背景は一面でしかない、全貌を見ているわけではない、ということをわきまえておく。このへんが哲学的態度(知的謙虚?)かなと思います。
>それはやはり経験体験を重ね尽くしてこそでなければ、そういう境地には至らないかと思いますが果たして「重ね尽くした」と言い切れるものですか?
重ね尽くすことが不可能であるということ、宇宙の歴史のすべてを一身に負うような真似はできないということ(なぜなら個人は宇宙の歴史の部分にすぎないのだから)、を考えれば、「重ね尽くす」必要などはありません。重ねていく途中で気付くでしょうね。経験することの虚しさに。
>>楽園に戻るためには善悪を忘れればいいのです。
>失礼ながら本気で仰ってます?(笑)
>犬や猫ですら最低限の善悪の判断は持っているようですのにヒトが?
本気ですよ。先天的な善悪はない、と前の回答で暗示したつもりです(性善説や性悪説の否定)。
犬や猫については「持っているようです」と推測をされていますが、推測であって事実ではありませんよね。
推測しただけのものを正しいと断定してしまうことこそ、とらわれではないでしょうか。
あくまで善悪というのは後天的なものだと本気で考えています。
(こんなことを書くと、また次の質問を立てなければならなくなるでしょうね。しかし、「善悪は先天か後天か」という質問をした場合、多くの人が先天だと答えるでしょうね。先入観で)
>善は「善」というレベルを貼ってもらわなくても、まして貼ってもらっても何ら不つごうはないでしょうが悪は「悪」というラベルを貼られないで済むのを大歓迎するでしょうね?
善悪が先天であり、レッテルが後に来るという考え方をされているようなので、ここには答えなくともよいと思いますが、善も悪も、概念ですから、概念自体が「これは不都合だ」とか「これは大歓迎だ」とか思うことはないでしょうね。(端的に言えば、そういう擬人化はいただけない)
>問われた分に対しては答えるのが回答者のあり方だと思っています
何度も貴重なお時間を割いていただきまして恐縮致しております。有難うございます。
>なぜという問いには答えようがないものです。答えようがないものの答を探したって答は見つからないか、あるいは嘘の答が出てくるばかりです。だからそういう問いは一切無効だと考えます。
>知り尽くせないことを前提に、探られた背景は一面でしかない、全貌を見ているわけではない、ということをわきまえておく。このへんが哲学的態度(知的謙虚?)かなと思います。
確かに、そうだと思います。
そうしますと学問というもの、なかんづく科学一般の学問は本当の意味で「なぜなのか」と問うこと、根本を問う、つまり「公式の理由」を問うようなものでしょうから永遠に辿り着けないものかもしれませんが、それにしても、この「無効な」問いから生み出されたものも多く重要であると思います。
「探られた背景は一面でしかない、全貌を見ているわけではない」
であるからこそ問いは尽きないとも思います。
「重ねていく途中で気付く経験することの虚しさ」
その「虚しさ」自体、経験によって気づくわけですね。気づくこと自体、虚しいものなのでしょうか。
>犬や猫については「持っているようです」と推測をされていますが、推測であって事実ではありません
私自身は「善悪」というものの出発点は人間が、お互いに生き易くする上で定めたルールの「仮の名称」に過ぎないと思っています。
ですから犬や猫の「善悪」判断というのも彼らなりに生き易くするための至って素朴なルールであって、それは人間だけがもっているものだとは思いません。
>概念自体が「これは不都合だ」とか「これは大歓迎だ」とか思うことはないでしょうね。(端的に言えば、そういう擬人化はいただけない)
これは、ご尤もでした。(笑)
少し分かりかけてきたようには感じます。御回答者様の仰りたいことが。
No.8
- 回答日時:
>「自然を、あるがままに観察する態度」
私はこの言い方にちょっと「?」なんですが
>赤ちゃんがえりすればいい、ということなのかなあ?
ということだと思います。ただ赤ちゃんはちょっと戻りすぎかなと。子供と言う方がしっくりきます。
ソフィーの世界という本の最初の方に「子供はみんな哲学者」こんな感じの言葉が出てきます。子供がなぜ哲学者なのか?それは、物事を見る時に「決めつけ」をしない、そして自分の頭で考えるからだと思います。
「これはこういうものだ」という先入観、固定観念がまだ少なく、自分の頭で一から考える、という事をしている。だから哲学者なのかなと。ただ、人間歳を重ねればある固定観念や先入観を誰しもが持ってしまいます。つまり、それ自体は悪い事ではなく、それを絶対化してしまうのが駄目なのだと思います。固定観念や先入観はその人の「思い込み」ですから、地球上に自分一人しかいないのなら、思い込みだらけで何にも問題はありません。しかし、この世には他者がいます。そして、その他者もそれぞれ思い込みを持っています。もし、他者と意見が食い違ったら、そして明らかに自分の方がおかしいと感じたら?
そこで、今まで固定されていた自分の観念を打ち破る事ができる可能性がでてきます。つまり、固定された見方しか出来なかったのが、違う見方も出来るようになるかもということです。このような場面で、自分の固定されたものを打ち破ろうとするのが哲学的で、保守、保身にまわるのは哲学的から最も遠い態度ではないでしょうか。
御回答いただき有難うございます。
>「自然を、あるがままに観察する態度」
私はこの言い方にちょっと「?」なんですが
やはり、そうでしょうか。
>ソフィーの世界
この本、評判いいですね。よく薦められるかた見かけます。
>子供がなぜ哲学者なのか?それは、物事を見る時に「決めつけ」をしない、そして自分の頭で考えるからだと思います。
経験のストック量が少ないゆえでもありますね。
しかし同時に経験のストック量を増やしていかざるを得ない。
「決めつけ」をしなかった子どもはオトナになったら「思想」という決めつけをするようになるのでしょうか。
オトナは自分のアタマで考えてるつもりで実は、そうじゃなかったりするのでしょうね。
>絶対化してしまうのが駄目
これは皆さん仰るとおり基本的に大事なことですね。
>他者と意見が食い違ったら、そして明らかに自分の方がおかしいと感じたら?
「おかしい」と分かってくるほど守りに入る人っていますよね。自己愛が強いというのか。
>今まで固定されていた自分の観念を打ち破る事ができる
>違う見方も出来るようになるかもということです。
リセット&新規導入ですね。
>保守、保身にまわるのは哲学的から最も遠い態度ではないでしょうか。
ズバリ鋭い御指摘と思います。
No.7
- 回答日時:
以前、別の質問で回答させて頂いたモノです。
覚えてらっしゃらないかもしれませんが^^;
質問して、その回答からまた新たな疑問が生まれる、、、。
素晴らしいことだと思います(^^)
さて、本題の「自然を、あるがままに観察する態度」ですが、拙いながらも私見を、、、。
これを言い換えれば、「全てのことを、客観的に観察せよ」と言うことだと思います。
「客観」の反対は「主観」ですね。
「主観」は、「個人の内側」から発するモノだと思います。
つまり、その人が生きてきた人生や培ってきた経験から来る、思想的・社会的立場が反映されたモノが「主観」だと思います。
よく「色眼鏡をかけて物事を見る」なんて比喩されますね。
「全てのことを、客観的に観察せよ」というのは、この「色眼鏡」を外せって事だと思います。
言い換えれば、「全てのこと(自然)を、裸眼で見よ」となるかもしれません。
そして、人生や経験によって「色眼鏡」が形成されるなら、それが無い「赤ちゃん」はまさに「裸眼」ですね。
そういう意味で、「赤ちゃんがえりすればいい、ということ」と言えるでしょうね。
(※因みに、赤ちゃん返りも比喩なので、赤ちゃんは本当に「色眼鏡をかけてないか」を追求することは別問題ですね。この質問スレッドから生まれた、新たな命題かも?)
さて、問題は本当に客観的になることが出来るのかということです。
結論を先に言うと、出来ない(あるいは限りなく不可能に近い)と思います。
もっとも、自然科学分野や数学分野は別ですが。
少なくとも、人文系分野は無理だと言えます。
近代歴史学の祖とされる『ランケ』と言う人が、歴史学に「客観主義」を取り入れました。
(wikiによれば、一般に「実証主義・史料批判」とよばれる態度です)
これは、歴史史料にのみ基づいて、全ての主観を排し、客観的に歴史を見ようとする態度です。
しかし、史料選択・史料解釈において「主観」を取り除くのは難しいとされています。
また、当時の様子を記述した古文書それ自体が、書いた人の「主観」が入っているとも考えられます。
そういった「主観」の入った史料が、果たしてその時代を客観的に表しているでしょうか?
この事は、ランケ以後の歴史家によって指摘されています。
特に、クローチェの「すべての歴史は現代史である。」という言葉が有名ですね。
「歴史学」も「客観性」が求められる学問です。
そういった意味で、「哲学」にも通じるモノがあります。(親子関係は逆かも?・笑)
つまり、上のランケの主張=客観主義に対して、クローチェは「主観を取り除くのは難しい」と苦言を呈しいるわけです。
間違ってはならないのは、クローチェは別に「歴史は主観で良いよ」と言っているわけではないと思います。(まだ、まともに調べてないので断言は避けますが。)
私は、あくまでも「客観的」でなければならないが、「主観が入るのが当たり前」と言うことを念頭に置かなければならないと、解釈しています。
これは、そのまま「哲学」にも当てはまると思います。
纏めると、「客観的であろうとする態度」を守ること。
それが、「自然を、あるがままに観察する態度」であろうと思います。
しかし、その観察した事を記述する時、そこには必ず「主観」が入り込んでしまいます。
その「主観」を見つけ排除しようとすること(=批判)は、また「自然を、あるがままに観察する態度」に立ち返ることだと思います。
相変わらず、ダラダラと書き、また途中で生意気なこと言ってしまい済みません。
schneewittchen7 さんの「知の追求」の一助になれば幸いです。
参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3% …
この回答への補足
>因みに赤ちゃん返りも比喩なので、赤ちゃんは本当に「色眼鏡をかけてないか」を追求することは別問題ですね。この質問スレッドから生まれた新たな命題かも?
そうですね、赤ちゃんの「色眼鏡」問題は生理学等の科学方面で問うべきなのでしょうね。
ただ私が拘ってしまったのは、この比喩が哲学上の話題で取り上げられたからなんです。
もちろん一般的には「赤ちゃん=白紙」のイメージですが、哲学上の比喩というのは、まあ賛否両論あるのかもしれませんが私としては複雑難解な話を少しでも分かり易くするための方策としての比喩の使用は実際、助かるので賛成です。しかし、それは可能な限り正確な比喩でなければならない。ズレた比喩では、しょうがないからです。
分かりにくい相手のコトバを確認するのも同様の理由からです。
>問題は本当に客観的になることが出来るのかということです。
結論を先に言うと、出来ない(あるいは限りなく不可能に近い)と思います。
と思えてならないんですよね私も。
と言うか、ここへ至って、実は不可能だと分かっているからこそ哲学的追究を諦めるのかどうか、また、それは「観察する」こととは別のことなのかどうかという次元に移って来ていると思います。
>当時の様子を記述した古文書それ自体が、書いた人の「主観」が入っているとも考えられます。
ええ、それに当時の権力者の意向がねえ。
その点で我が国の『古事記』『日本書紀』も罪深いそうな。
>クローチェの「すべての歴史は現代史である。」
ん~含蓄の深い。。。!!
>上のランケの主張=客観主義に対して、クローチェは「主観を取り除くのは難しい」と苦言を呈しいるわけです。
なるほどなるほど。
>クローチェは別に「歴史は主観で良いよ」と言っているわけではないと
開き直っちゃいかんということですね。
>親子関係は逆かも?
いやいや、ここから始まってるんじゃないでしょうか?
哲学、歴史、心理学、主観客観、主体客体、投影、同一視、転移、ありとあらゆるものが発生するものだと思います。
ただまあ本音を言うと、お子さんを持たれているかたでしたら
「みんな違ってみんなイイ、何でもかんでもあってイイ、全て認めて受容せい、全部まとめて肯定だ~!!」
という一本調子のオチになるのは当然で致し方ないところでしょうね。
だから私は子どもを産み落とした者に哲学をアレコレ論じる資格は本当はない、と秘かに秘かに思っています(笑)
>「主観」を見つけ排除しようとすること(=批判)は、また「自然を、あるがままに観察する態度」に立ち返ること
No.10様の御考えと共通するものですね。
さあ、ここへ来て
「主観から逃れきれない或いは最終的な真理に届くわけないのだから、適当なところで打ち切っておく」のか
「最終的な真理に届かなくたって主観を可能な限り排除する努力を続けながら飽くなきチャレンジを」か
二手に分かれてきた感じですね。
この双方それぞれにナントカ主義と名前がつけられそうですけど。。。(笑)
(スペース不足のため補足欄へ記入致しました)
>覚えてらっしゃらないかもしれませんが^^;
覚えてますとも~!!
先般は分かり易くて良い御回答を数度にわたって御投稿くださったというのに、あえなく削除されてしまいまして誠に申し訳ございません。
「生意気」なんてトンデモないですよ~私なんかより、よっぽど博識で怜悧で感心してます。まだ、お若いそうなのに。。。私なんか20代の頃は今よりもっとパーだったですから。
フォン・ランケについての参考Urlですね、ゆっくり拝見させていただきます。
本当に有難うございます。
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