アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

西の平氏、東の源氏とずっと思っていましたが頼朝に続く源氏の祖は河内国(大阪府)が祖だとか?
有名な八幡太郎義家も河内国が基盤だと最近知りました
都に近い河内国からなぜ何もない荒野だらけの関東へ行ったのでしょうか
ライバルの平氏が都にいるからでしょうか?

A 回答 (6件)

源頼朝が戦に破れて伊豆に流刑になり、そこで北条政子という北条氏の娘と結婚して、関東に影響力のあった北条氏の後ろ盾ができたからだと思いますが。

簡単に言えばそんなところですよね。
    • good
    • 0

 平氏ははじめ関東に勢力を拡大しました。

それが、坂東八平氏となります。この平氏は清和源氏が入ってくると源氏に臣随していきます。
 清和源氏が坂東に入っていくきっかけは平将門の乱です。この乱では本当に活躍したのは藤原秀郷らですが、坂東に清和源氏がかかわったきっかけにはなっています。その後、清和源氏は平忠常の乱、前九年、後三年などで活躍し徐々に坂東に繁栄していきました。
 じゃ、平氏はというと、本流は坂東から伊勢に地盤を移します。伊勢に地盤を移した平貞盛の子孫が平清盛らです。
 なお、清和源氏の本流多田源氏は京都に残りましたが、地盤を坂東に移した河内源氏の源義家らに取って代わられました。
    • good
    • 1

西の平氏、東の源氏というのは、源平の争乱の段階という、一つの時代だけの話で、その前の段階では、「利権のあるところならどこでもいいですよ!」というのが基本。


受領としておいしい国に赴任できるならどこでもというのが、平安中期の状況です。(京の中央貴族になれないなら、どこでもと、弾かれたということでもあります)
河内源氏が河内なのは、摂関家の家人として、京都に便利だったから。便利なところにいた源氏の一派が、ブイブイ言わせることができたといえます。言い方をかえると、いろいろいた源氏の中で、摂関家の使いやすい京都のそばにいた河内の一派が、本家面したということです。

また、平氏一統とか源氏一統とか、氏族として協力し合ったわけでもなく、将門の乱が、平氏内の一族の喧嘩から始まったように、源氏も兄弟や従兄弟同士で殺し合っているように、それぞれの一家で、バラバラ、生き残ったのが、伊勢平氏(清盛)と、頼朝ということになります。
※ 頼朝が、鎌倉に入って最初にやったのが、源氏の佐竹攻めだったとか。
    • good
    • 1

源氏が関東に行った理由は、中央政界では公家のように出世できないためです。

受領となり任国に赴任したほうがはるかに利益があったのです。それから、平氏政権下では源頼朝は伊豆に流されていましたが、関東の豪族を従えて挙兵し、関東一帯を制圧してしまいます。この後、頼朝は上洛することを望みますが、他の豪族が反対し、結局上洛せずに、鎌倉に政権を作っていったということですので、平氏が都にいたからという理由ではありません。参考文献 岡野友彦著『源氏と日本国王』講談社現代新書
    • good
    • 0

 利権のあるところなら、何処でもというご指摘の通りです。



 河内に基盤のあった清和源氏が関東に勢力を張るのは、源頼義・義家親子が、関東の武士と共に東北で前九年の役・後三年の役と呼ばれる大規模な戦いを行い、信望を集め地盤を固めた結果です。
 頼朝・義経が関東・東北でその地の武士の支持を得られたのも、この地盤があったからです。

 また、伊勢平氏も反乱の鎮圧などで、播磨・因幡など西日本に勢力を拡大し、瀬戸内海貿易・中国貿易で経済基盤を確立しました。
    • good
    • 0

一説では、味方の殆どが関東におり、反対されて動けなかった。


と言うのが実情であったようです。

口上を平家打倒とし、
元服した後挙兵して関東を制圧します。
口上では挙兵時、既に関東、東北を手中に収めています。

次は木曽、京であったようです。

頼朝は三男で、平治の乱で兄、義平と朝長を無くしていますし、
特に、義平は一人京に上って清盛を討つ機会を狙い捕らえられています。
逆に言えば、京は危険、関東は安全でもあります。
源氏の嫡流が途絶えるのを嫌ったのが最大の原因と捉えています。

他の回答者様のおっしゃる通りで、その土地で良い方針を打ち立てたので幕府が続いたのではないでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます
疑問が解けました

お礼日時:2007/01/23 22:46

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!