これからの季節に親子でハイキング! >>

楽市楽座というのは税金がいらないから商人が
たくさん集まって国がはってんするということですか?
そうしたら信長などはどこからお金を手に入れるのでしょうか?
また秀吉は家康と違い米穀に依存する度合いが低い代わりに
博多、堺などを重視したようですが、やはり楽市楽座
にした場合、どうやって現金収入をえるのでしょうか
昔から、名前はよく知っているのですが、いまいち
なにがそんなにお得なのかぴんときません。
よろしくお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (5件)

信長が安土山下町中に定めた、いわゆる「楽市楽座」令は信長政権の首都に足る町作りが主眼であったと思います。



元亀元年に六角氏が逃げ、天正四年から信長が住み始めた安土は、丸六年間は閑散とした、寂れた場所に陥っていたことと思います。その間、配下の者を配したことはありますが、日本の中心とはほど遠い場所であったでしょう。

信長が住み始めた翌年に発令された安土山下町中への掟の例を挙げると…
・すべての税金は免除。
・商人が通行するときにはは必ず町に宿泊すること。
・普請工事の義務を免除する。
・伝馬のための馬の拠出する義務は免除する。
・自家を出火させたら追放する。
・信長の領地内に徳政令を布いても、この町だけは免除する。
・ほかの土地から来た者も前から住んでいた者と同じ扱いとする。
・喧嘩・口論・押し売り・押し買いは禁止する。
などがあります。

いずれも商人・居住者の天国です。これだけやれば人は自然と集まります。過去の楽市楽座令は商売をする上だけのことしか規定していなかったのに対して、この楽市楽座令は都市としての秩序のある町を作ろうとする信長の意図を感じます。
    • good
    • 3
この回答へのお礼

いやあびっくりしました。
現代人の自分の目から見ても非常に自由な気風、
進取の精神があふれていて、城下に住むものの
夢ややる気を増大させるものですね。
しかも、きちんとした規律と警察力によって治安も
確保されており、またこの時代までの商人にとって
もっともいやな存在であった徳政令もここでは
免除となると、他郷からも人が砂糖に群がる
ありのように自然に集まってくるのを拒むことは
できませんね。
とても人間の心理を自然についた絶妙な方法だったのですね。
詳しい説明どうもありがとうございました。
大変勉強になりました。

お礼日時:2007/03/16 16:22

座というのは、有力寺社が商業を支配するために結ばせたもので、寡占状態になるため、物価を高値安定させることが容易です。

値下げを望む者たちに対しては、寺社の権威で黙らせたのでしょう。
市を開く日を制限するのは、領主による商業支配を目論むもので、やはり寡占状態になります。
楽市楽座の始まりは、近江六角氏が観音寺城の城下で行なったものですが、おそらく新規参入を望む、近江の新興商人らの圧力に屈したものかと推測します。
楽市楽座になれば寡占が崩れ、自由競争ですので、物価は比較して下がります。多数の常備軍という金食い虫を抱える信長にとっては、領内の物価が下がると軍勢維持の経費がかからなくなりますので、非常に得だったのではないでしょうか。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

なるほど非常に合点がいきました。
兵農分離して常に多数の常備軍を
抱える信長軍にとしては、必要不可欠
でなるべくしてなった方法だったということですね。
また、金銭が大量に必要な信長としては、
寺社から商業の支配権を分離する必要と、
それにより、寺社の軍事力を弱める狙いも
あったのかもしれませんね。
とても新鮮な見方ができるようになりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/16 16:17

特定の者たちに独占商売を認めそこからお金を取る手法から、皆に商売を認める代わりに場所代や消費税をとる手法に転換しました。

その結果競争が起きるので自分の領内の売上高が上がり、結果として徴収率が上がります。ただこの方法は税の捕捉が難しく、領内に絶対的な支配権を確立していないと成り立ちにくいです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

消費税というのはこのころからあったんですね。
なるほど、領内に絶対的な支配権がないとできないと
いうことは、それ相応の実力があって初めてできる
技でもあったんですね。
ありがとうございました。
勉強になりました。

お礼日時:2007/03/16 16:13

誰も実行し得なかった、(思いつくくらいは、あったかも)画期的な、経済効果のあがる、政策でした。


まず、町に活気が出来、荒れた戦国の世に「夢」が持てます。
自分の才覚次第で、富、名声が手に入れられるのです。
人が集まれば、人が人を呼び、さらににぎわいます。
噂を聞きつけて、各地から、商人が集まったことでしょう。
商人たちも、飲み食い宿泊は、その土地でしますし、町が豊かになれば、そこを治めている信長も潤うということです。
「近江商人」というのは、商才に長けていたといいますが、楽市楽座という発想、そして、繁栄に影響を受けたかと思います。
市そのものにその場で、現金収入がなく、仮に失敗に終わっても、信長は、何ひとつ、損をしないのです。
頭脳ひとつで、繁栄を手に入れる・・・すごいです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございました。
人のモチベーションをあげて活気を出す
という副次的な効果も非常に高かったんですね。
勉強になりました。

お礼日時:2007/03/16 16:11

税金がかからないのではありません。


その地域の商人のグループである「座」(利益を確保するために、自分たちの仲間にしか商売をさせない。)や、特定の日に特定の場所でしか商売をしてはいけないという決まり「市」をなくす、というのが楽市楽座です。
商売に自信のあるものなら、どこの誰であろうと、自由に店を開いて競争できるということです。
当然それを行った地域は経済的に活性化し(効率の悪い商売をしている者は淘汰されますが)税収は上がります。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとうございました。
ただ単純に自分が楽市楽座というのを
理解していなかっただけですね。
よくわかりました。
小学生時代からの疑問が解けました。

お礼日時:2007/03/15 11:56

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qこれって・・・? 織田信長の楽市楽座

こんにちは。

先日模試を受けました。その際、社会で「楽市楽座(織田信長の政策)を行った目的」を問われ、「城下町を繁栄させるため」
と解答したところ、誤答になってしまいました。正答は、「商工業を活発にするため」です。
楽市楽座の目的を教えてください。また、自分の解答のどこがだめだったのかも指摘していただけると嬉しいです。
ウェブで調べてみても、いまいちはっきりしなかったので、質問させていただきました。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

楽市楽座とは、今で言う「独占禁止法」だと思っています。
ちょっとオーバーかもしれませんが。

例えば日本に、シャープペンシルを扱う会社が主には1社しかないとします。
なのに、その唯一の会社がシャープペンシルを1本10000円にしたら困ります。
それを禁止し、市場のなかで自由に競争できるように定めたものです。

先生は「城下町」を「商工業」というものに変えて欲しかったのではないでしょうか。「城下町」では範囲が広すぎるからです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%BD%E5%B8%82%E3%83%BB%E6%A5%BD%E5%BA%A7

Q楽市楽座について

織田信長の「楽市楽座」政策の説明は「中世以来の座(私はカルテルの一種と理解しております)の特権を排し、商業の自由を認め(現在の資本主義における経済活動の自由でしょうか)、関所を廃し免税を行い商業を振興した」というのが一般的なようですが、一つ疑問があります。

この説明における「免税」とは何を指すのでしょうか。

座に対する座役の廃止や関所における通関税を廃しただけなら織田政権には税金が入らず、商業振興のうま味は無いように思えます。

また、織田政権に対する納税の義務を商人たちに課したなら、座や地方勢力の徴税権が織田信長に移ったにすぎず、商人たちの負担は変わらず結果的に商業振興につながらないように思えます。ということは座や関所への座役より織田政権の税金が安かったということなのでしょうか。

どなたかお詳しい方、回答よろしくお願い申し上げます。

Aベストアンサー

当時の戦国大名や江戸幕府の商業税の形態は、座などと呼ばれる組合に独占商売を認め、変わりに座から上納金を納めさせるものです。この上納金を税と呼んでいるのではないでしょうか?

一方信長の税の取り立て形態は座を廃止し、そのかわり売上税(今でいう消費税)をとることです。
誰でも自由に商売をし、その売り上げから一定の額を納めるわけです。
これにより資本(金)はあるものの特権を持たないものが信長領内で商売をはじめるようになり、信長領に金が集まり儲かるわけです。税が高い安いではなくこれまで商売できなかったものが商売に参加できるようになります。

独占商売を認めそこから金を取るやり方は税の取り立てという意味では極めて楽ちんですが、その一方価格は高止まりするし新規参入も起きないしで商業の発展と言う意味では極めてマイナスです。
一方信長のように自由な商業を認めるやり方は商業の振興という意味ではプラスですが、その一方税の捕捉と言う意味では極めて難しく、物流拠点を支配下におさめないとほとんど不可能です。信長の畿内での絶大な支配力を背景にしてこそでしょう。

徳川家康は経済面では低く評価されがちですが、大坂を豊臣に抑えられている以上根本的に楽市楽座方式は不可能だったと思います。

当時の戦国大名や江戸幕府の商業税の形態は、座などと呼ばれる組合に独占商売を認め、変わりに座から上納金を納めさせるものです。この上納金を税と呼んでいるのではないでしょうか?

一方信長の税の取り立て形態は座を廃止し、そのかわり売上税(今でいう消費税)をとることです。
誰でも自由に商売をし、その売り上げから一定の額を納めるわけです。
これにより資本(金)はあるものの特権を持たないものが信長領内で商売をはじめるようになり、信長領に金が集まり儲かるわけです。税が高い安いではなくこれま...続きを読む

Q楽市楽座の目的

どんな参考書にも、うすぼんやりとしか書いてない信長の楽市楽座の目的とは、なんなんでしょうか?

Aベストアンサー

こちらに、楽市楽座令(安土山下町中掟書)の原文が有ります。安土の隣の近江八幡市が所蔵している物です。
http://novice-sj.com/newpage795.html

これを見ると、信長は自分の領国の軍事力を高めるだけでなく、日本全体の経済システムを根本から変えたかったのではないかと思われます。
原文だけを読むと、安土の城下町を日本の経済首都にしたかったとも読めますが、いずれ秀吉より先に全国を平定していたら、各地の主要都市にも同じような布令を出していたでしょう。

第1項に挙げているのは、No.2の方も言っている「座」という独占的同業組合の無力化です。
第2項で、近くを通る「中山道」を往来する商人は、必ず安土に泊まれ、とあります。
第3項と第4項は、公共工事や公用の輸送という労役を、農民や町人の義務にしないことが書いてあります。
第5項は、室町時代の後期によく行なわれた「徳政令」は、安土では適用しないとの条項です。これにより、安土で商売する商人は、安心して貸し売りや金融ができます。
第6項は、安土の住民はヨソ者を排除したり嫌ったりしないこと。
第7項は、安土では、喧嘩などのトラブルを熾さないこと。また、押売りや強引な買収を行なわないこと。
第8項は、馬の取引は安土で行なうこと、と決められています。

このように具体的な条文を見ると、楽市楽座の目的も想像できるのではないでしょうか。

なお、同ページの解説にも書いてありますが、楽市楽座は信長がオリジナルではありません。
信長が安土で始める20年前に、安土城と同じく現在の滋賀県安土町内にある、「観音寺城」の城下町「石寺」で、近江の大名「六角定頼」(源氏の末裔で、足利将軍家とも関係が深かった)が「楽市」を始めたのが最初です。
ちなみに、地理的には安土の城下町より上記の石寺の方が、中山道の本筋に直接面しているのです。

なお、紹介した「安土探求の旅」というサイトは、信長と安土の町が好きな設計事務所さんが、町興しに情熱を込めて作ったサイトのようで、かなり見ごたえのある内容になっています。

参考URL:http://novice-sj.com/index2.html

こちらに、楽市楽座令(安土山下町中掟書)の原文が有ります。安土の隣の近江八幡市が所蔵している物です。
http://novice-sj.com/newpage795.html

これを見ると、信長は自分の領国の軍事力を高めるだけでなく、日本全体の経済システムを根本から変えたかったのではないかと思われます。
原文だけを読むと、安土の城下町を日本の経済首都にしたかったとも読めますが、いずれ秀吉より先に全国を平定していたら、各地の主要都市にも同じような布令を出していたでしょう。

第1項に挙げているのは、No.2の方も...続きを読む

Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q長篠の戦いについて。

長篠の戦いについて、簡単かつ詳しく、中学生にもわかるように説明してください!!

 お願いします

Aベストアンサー

長篠の戦いとは・・・
1575年5月21日、三河の設楽原(したらがはら)で行われた「織田信長・徳川家康」連合軍と「武田勝頼」軍の戦いのことです。
織田側の『鉄砲隊』が、めざましく活躍したことでも有名です。

戦いは、織田・徳川の連合軍が、設楽原へと進出。「馬防柵」を設け「鉄砲
3000挺」を配備しました。それに対し、武田軍は、無敵といわれた騎馬隊に
よる波状攻撃を繰り返しましたが、馬防柵にはばまれて敵陣に突入できず、
そこへ鉄砲隊の一斉射撃をあび、壊滅的な打撃をうけました。

この戦いで、武田方は信玄以来の有力部将をほとんど失い、勝頼も敗走し、
織田・徳川・武田3氏の勢力関係は一変しました。また、この戦いを機に戦
闘の形態も、騎馬による個人戦から鉄砲隊を組織した集団戦法へと移行して
いくことになります。

Q江戸時代の税金について

江戸時代では庶民からどのような方法、名目で税を徴収していたのでしょうか?

農民から収穫した米を年貢として納めさせるシーンは時代劇などで馴染みがありますが、江戸に住む普通の町民や商人からはどのように徴収していたのか、あまりイメージが湧きません。

江戸時代でも所得税や住民税などが存在していたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに、土地収益に関する山手・川手、産物に関する漆年貢・茶畑運上、商工業者に関する問屋運上など、名称・種類が多くあり、町にも関係する小物成りもありました。その中には分一と呼ばれ売上や収穫の何分の一かの形で税率が決まっていたものが多くあります。市場の売り上げの1/20もしくは1/30を納めた市売分一のように多くの売上や収穫に薄く、広くかけました。売家の場合にも分一がかかりました。
小物成りに含まれるものとして、冥加・運上がありました。後代になると両者は一定の税率(対象により税率が違う)になるなど同じようになります。
冥加は、村の年貢にあたる地子を免除された御恩(冥加)に対して、そのお礼の意味でも冥加の言葉は使われ、最初は自主的な献金の形式をとりますが、その後定率納税の形になります。町では商工業者の営業免許税の性格が強く、個人上納だけでなく、株仲間上納がありました。金納なので冥加金と呼ぶこともあります。
運上は農業以外の商工業や林業・漁業などの従事者に、一定の税率をかけた一種の営業税で、金納なので運上金とも呼ばれました。
御用金は、幕府・諸藩などが財政不足を補うために窮民救済などの名目を立てて臨時に御用商人などに臨時の賦課です。本来は借用の形式ですが、返済されなかったり、利子分は献金に切り替えさせるなど、臨時の課税の性格が強かったものです。
次に労役(夫役)がありました。近代以前の納税には米などの物納と、労働力提供の形式があり、労役も納税の一種でした(小物成の一種としても考えられていた)。江戸では町人足役と呼ばれ、町人に課された夫役で、上下水道の整備、城郭や堀の清掃、防火などの都市機能を維持発展させるためや、幕府のために働く人足を出すものがありました。代銀納されることも多くありました。夫役の中心的なものは公役(クエキ)で、上記の目的で町人に付加されたものです。代銀納の場合賦課の基準が定められていました。土地20坪を一小間とし、日本橋などの中心部では5小間、芝などでは7小間で銀30匁とされ、借家人の分も含め地主が支払いをしました(店賃の中に含まれると考えられた)。
また、夫役の中には国役と呼ばれ、職人が江戸城の建築などに年の数日無償で従事する夫役がありました。これは戦国時代に大名が必要物資を確保するために職人を集めて大名に奉仕させたことに直接には由来します。江戸幕府も職人を集め、一定の町(職人町と呼ばれる)に住まわせ、地子を免除するかわりに普請や武具の納入などをさせる夫役です。後に代銀化し、棟梁などの頭役がまとめて納入するようになります。
最後に、現代の地方税、住民税にあたるとされる町入用があります。町は商工業者でもある地主・家持の本町人で構成された自治的な組織で、町役人である町名主などの役職や、寄合所・事務所である町会所、町の独自の掟である町法を持つのが普通でした。この町の町名主などの町役人、木戸番・火消等の人件費。町内の道路普請費用。その他町を運営するための運営費、事務費などの使われる費用でした。これは町名主に納めました。
以上ですが、江戸(他の都市も同じ)では、地借・借家・店借は、地主の町人に地代や店賃を支払うだけで他の負担はなかったが、長の運営には参加できませんでした。

地子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90
地子免許
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1
小物成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%89%A9%E6%88%90
分一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E4%B8%80
冥加
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A5%E5%8A%A0
運上
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E4%B8%8A
御用金
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E9%87%91
夫役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E5%BD%B9


以上、長くなりました。参考まで。

江戸時代の町(チョウ)の税金について最初に上げられるのが地子です。これは、町屋敷地にかかる税で、農村の年貢に相当しますが、城下町を形成するときに商工業者を集めるためや、為政者の加恩として地子を免除することが多く(城下町の多くや・京・大坂など)、江戸も地子免除(地子免許)でした。
さて、それ以外には小物成りに類する税。御用金。人夫役に類する税。現在の住民税に近い町入用などがあります。
小物成りは高外地に課税される税の総称で、農業以外の産業にかかる税でした。農村・都市を問わずに...続きを読む

Qどうして西インド諸島と言うのでしょうか?

インドの西でもないのにどうして「キューバ」あたりを西インド諸島というのでしょうか?
以前、ヨーロッパの船乗りが西を目指しました。インドに着いたつもりが「アメリカ大陸」だったので「西に行ったらインド諸島」が「西インド諸島」と成った、という人がいますが本当でしょうか?

Aベストアンサー

 No.3です。では、一つ一つ疑問にお答えしましょう。

>「西」ではなく「東」ではないでしょうか?
>アメリカをインドだと考えたのであればインド(アメ
>リカ)の東の島だから、本来は「東インド諸島」とな
>るのが正解では?と考えますがどうしてなのでしょうか?

 地図をご覧ください。ヨーロッパからすると、西インド諸島は西側にあるでしょ?

>インドだと勘違いしたのであれば「インド諸島」?では?

 最初はインドだと思っていたんです。ところが、インドではないことが分かり、後になってインドと区別するために「インド諸島」と名付けただけです。

Q江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?

素人の質問なんですけど、江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?既に貨幣経済が発達していたのだから、農民に年貢米を納めさせるだけでは、いずれ財政が破綻するのは分かりそうなものなのに、当時の人達は疑問を感じなかったのですか?

Aベストアンサー

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に納める冥加金などという税を取り立てていました。
この冥加金の中には、営業免許税とでも呼ばれるようなものもありました。酒税に相当するようなものもありました。
参考
冥加 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/冥加

江戸や京、大阪などの都市部では町政は町役人という自治組織に一括して委託していました。
この町政に必要な費用は町人が負担していました。
町人とすれば納める先が違うだけで実質的には納税しているのと同じことでした。
この町役人制度というのは大なり小なり大名領の城下町にもありました。

「既に貨幣経済が発達していた」とされておられますが、貨幣経済が行き渡っていたのは、江戸や京、大阪などの都市部だけでした。
物の売買の手段として、貨幣は全国的に使用されてはいましたが、全国的な規模では、貨幣経済と呼べるほどには発達してはいませんでした。
江戸時代を議論する場合には江戸の街や京、大阪の都市部の情報だけでは議論できませんので注意して下さい。
江戸の街というのは全国から見た場合は極めて異質な街でした。
経済史の観点から採用されている史料は、この全国的には異質な都市部の経済活動についての史料ですので注意して下さい。

幕府が財政破綻を来したのは、農民からの年貢による税収が不足したという単純な話ではありません。
幕府の財政を支えていたのは、金山や銀山などの採掘権をほぼ独占していたことによってもたらされていた金銀でした。
江戸時代中期以降はこの金銀の備蓄が枯渇してしまいました。
一方経済学的な見地からすれば、米という現物を徴収してこれを貨幣に変えて初めて幕府の運営費に使うというシステムが財政破綻の大きな原因です。
このシステムの最大の欠陥は、交換作業を全て町人に任せた上に、米価のコントロールを一切せずに市場経済という町人の経済活動に丸投げしていた点です。
札差と呼ばれる、米を現金化する作業を請け負っていた町人の手元に巨額の金が蓄積される一方で幕府が困窮して行った姿に現れています。
町民からの税収が少なかったためというよりは、農民からの年貢を米という現物ではなく貨幣による金納に変換しなかったことが結果として財政破綻を招いたと考えられてもよろしいでしょう。

租税の納入を米という現物から金納に変換するということは、明治政府がやりましたが、貨幣経済が未発達であった農村が忽ち疲弊してしまいました。
この史実からもお分かりの通り全国の大半を占めていた農村部では貨幣経済は普及していませんでした。
貧農史観というのは明治時代の状況を江戸時代にまで延長したことによって生まれた誤解です。
江戸時代の農村というのは貨幣の蓄積は少なかったものの極めて豊かでした。
豊かでなければ郷土芸能が発達したり伝承されるような余裕は生まれてきません。

>当時の人達は疑問を感じなかったのですか?
この徴税システムの欠陥にいち早く気が付いたのが田沼意次でした。
如何せん近代経済学というものがありませんでしたので、理論的に政策を推進することができませんでした。
急激に貨幣経済化を進めようとして失敗してしまいました。
不幸にも天候にも災いされました。
江戸時代の○○改革と呼ばれるものは改革でも何でもありませんでした。
ひたすら貨幣経済を否定して農本主義に戻ろうとしただけのことです。
当然悉く失敗しています。
むしろ改悪としたほうが当たっているでしょう。

蛇足
農耕文化から生み出された儒教精神にかぶれた人達が今でも○○改革と持て囃していますが、時代錯誤です。

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Q調べやすい歴史上の人物

中学生です。夏休みに、歴史新聞という課題を出されました。
条件は、『死んだ人』なら、誰でもいいらしいです。
でも、私は歴史上の人物の誰かにしたいのですが、どれもピンとこず・・・・。
死んでいて、中学生で習う歴史上の人物で、調べやすい人物はいませんか??

Aベストアンサー

歴史新聞の作り方
http://event.kids.yahoo.co.jp/summer2006/study2/society04/index.html

>中学生で習う歴史上の人物で、調べやすい人物はいませんか??

・聖徳太子
・天智天皇
・天武天皇
・源頼朝・義経
・足利尊氏
・織田信長
・豊臣秀吉
・徳川家康
・西郷隆盛

あたりは、エピソードがたくさん残っているので、やりやすいでしょう。


人気Q&Aランキング