この人頭いいなと思ったエピソード

加賀中納言前田利常は、大坂の陣の後に家康から「北陸の代わりに四国一円を差し上げよう」と言われて、京まで地続きで天下を狙いやすい北陸の方が良いと考えこの申し出を固辞したそうですが、客観的にみてホントに四国一円よりも北陸3カ国の方が天下により近かったのでしょうか?

四国は富裕・温暖の地で、その内高は加賀百二十万石を遥かに上回っていたと思いますが、距離的にはさほど変わらなくても、京まで地続きというのはやはりメリット大だったのでしょうか。

家康がそういう提案をしていること自体、秀吉が家康を関東に移したように、前田を四国へ追いやりたかったのだと思いますが、明石海峡大橋もない時代、四国から天下を狙うのは難しかったのでしょうか。

ご意見を賜れれば幸いです。

A 回答 (7件)

1574年に前田利家は、越前国の一向一揆の鎮圧に従事した。

以後、上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事。1581年に能登国七尾城主となり、能登23万石を領有する大名となった。翌年小丸山城を築城した。
利家の死後、加賀征伐が検討されるが、母の芳春院が人質になることを条件に撤回された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0% …


石高や天下を狙う狙わないではなく、上記のように利家公が身を削り、芳春院までも身を捨てて作り上げたのが加賀の地です。
土地勘も慕う民もいない四国に移ることは考えられなかったと思います。
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この回答へのお礼

加賀の地には思い入れがあったのかもしれませんね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/06 08:02

戦国時代の四国の総石高は加賀120万石と差は無かったと思います。


遥かに上回ってはいないと思います。

関ヶ原の土佐転封で内乱寸前の山内家を見れば欲しがりませんよ。
前田利家が切り取った加賀を明け渡す事は出来なかったと思います。

荒廃の度合いも北陸と四国では全く違います。
北陸は織田時代に平定されましたが、四国は長宗我部の進撃と秀吉の四国討伐で荒れ果て、さらに長宗我部元親死後の内紛でさらに荒廃してますよ。
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この回答へのお礼

土州だけで内高50万石あったと物の本には書かれていましたが、太閤検地の段階では長宗我部が過少申告していたようですね。

大坂の陣の後となれば、徳川の世も15年経っていて、土佐も落ち着いていたのかなと思っていました。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/06 08:06

家康・利常ともに、戦国時代をリアルで知っている現実主義者だと思う。


その前提で、京まで上った武将を考えると

四国(しかも東半分の讃岐・阿波)の三好家の実績は、家康は同時代として、また利常も父の代の話だから家臣に同時代として知っているものも多いと考える。

大坂戦争(一向宗との)との長期の戦争は、後期においては毛利家が大きな存在であったが、前期においては、阿波の三好家が大きな存在。その前の信長の上洛からしばらくも、京近辺における大きな勢力は阿波の三好家。

そのような状況を知っている家康が、潜在敵国である前田家を四国に移動させるとは考えられない。
また、あったとして、利常が天下に遠くなるから四国はいやだとは考えるとは思えない。天下に近くなるからこれからの統治が難しくても四国に移るというのであれば論理的には考えられるが。
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この回答へのお礼

>家康が、潜在敵国である前田家を四国に移動させるとは考えられない。
詳しくは知らないのですが、磯田道史という歴史学者の書いた本によれば、大坂の陣で家康が利常に与えた感状にこの国替えをもちかけた事が書き込まれているみたいです。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/06 08:11

http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html
によれば、太閤検地段階で 四国は80万石程度
寛永期で90万石程度

格下げ人事になります、四国移転
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この回答へのお礼

たぶん寛永期で90万石ちょっとという数字は表高ですよね。幕府もある程度の実高は把握していたはずです。
毛利も関ヶ原の後に防長二国に減封された直後に検地をして、幕府には五十数万石と申告していますが、負け組がお隣りの芸州福島家より高いのはダメということで、その7掛けの36万5千石にさせられたようです。
そのサイトの数字で防長の実高は70万石ちょっととなっていますね。いつ頃の数字か書かれていませんが、後に毛利家の実高は俗に100万石に達したとも言われますし、まったくの想像ですが1615年当時でも幕府は四国一円は北陸3国よりは大封だと認識していたのではないでしょうか。いくら吝嗇家の家康でも、軍功での加増であからさまな格下げの提案はしなかったのではないかと思いました。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/06 08:22

他の回答者の皆さんの回答にある前田家側の事情や四国の石高はさておき、海を隔てた四国から『渡海』して京に上るという問題は大きいと思われます。



将兵の動員数を一万石当たり250~300人として、100万石で2万5千人~3万人。それだけの将兵を運ぶためには、何百隻の船が必要になるのか?

天下を取りに行く(=多くの場合、戦に行く)以上は、単純に『将兵』だけを運べば良いというわけでは無いわけで、『馬』や『武具』、『兵糧』も同時に運ばねばなりません。
いつ『天下取り』のチャンスが訪れるか判らないのですから、それだけの船を常時保有・維持しておく必要もありますし、『渡海』の際に、敵の『水軍』との戦いを想定すれば、相応の『水軍』も必要でしょう。

更に、四国から『渡海』して、『上陸』する際の問題もあるでしょう。
『上陸』地点が『敵地』であれば、『上陸』するだけでも大きな損害を被る危険もあります。

『四国』は、京・大阪に近いものの、海を隔てているという地の利の無さは否めないのではと考えます。
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この回答へのお礼

そうですよね。数万もの兵を運ぶ船団を維持するのも大変でしょうね。
やはり海を隔てているデメリットは大きそうですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/07 04:30

利常公、よく転封を拒否して取り潰されなかったですよね・・・


秀吉は織田子弟が関東に転封されるのを拒否したことを
口実に取り潰しましたが・・・・
前田家はそれくらい重鎮だったということで。
四国から天下=京都を武力制圧することは困難であったのか?
四国全土を掌握すれば、兵糧的には当時としては十分では・・・
戊辰戦争で島津・毛利勢だけで徳川全軍を圧倒できたことを
考えると、どうなんでしょうか。
戦国末期も江戸末期も先進的銃器・弾薬の装備・質量が
戦機を決したのは偶然と言うか・・・
利常の頃は時機がまだ熟してなかったんでしょうか
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この回答へのお礼

利常卿、家康としては目の下のたんこぶだったでしょうが、義父の秀忠が庇っていたようですね。

家康が長生きしたことで徳川の世が固まり、利常の頃は天下を狙えなかったのでしょうね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/07 04:35

加賀を旅しますと、利家公の次に慕われているのが、実感できます。


鼻毛を伸ばして、バカのふりをしたとか、いざという時の秘密の通路があるといった、エピソードも豊富です。
長いものに巻かれたくなかった、バサラの血を感じます。
せっかく、定着しかけた、産業を手離して、一からやり直しは、惜しく思ったのかとも思います。
加賀の今も伝わる伝統の産業は、土、水など、風土と大きく関わるものが多いかと思います。
伝統の産業は、百万石の礎です。
地震からの早い回復をお祈りしています。
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この回答へのお礼

前田といえば利家・利常・綱紀の三卿が傑出していますよね。
>長いものに巻かれたくなかった、バサラの血を感じます。
そんな感じを受けますね。黒田家のように、ひたすら徳川に擦り寄る大名もいた中で、改易されないギリギリの線を狙っていろいろ抵抗もしていたようですね。

北陸は冬がきついから、温暖な四国の方が良さそうだと思いがちですが、利家以来の北陸の地を手放す気にはならなかったのかもしれないですね。

私も、地震からの早い回復をお祈りします。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/07 04:42

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