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藤原仲麻呂は天皇以上の権力を持っていたの譲位していた考謙(称徳)女帝が復権宣言をするとあっさり失脚し、軍事的にもなすところなく敗死しています。
考えてみれば非常に奇妙なことです、彼は今日で言えば総理大臣兼財務大臣兼日銀総裁兼防衛大臣に加え天皇代行までしていたわけですね。また橘奈良麻呂事件では一気に政敵を葬るくらいの敏腕ぶりをみせているのに宗教と現実から離れた理想政治を訴えるだけの考謙にあっさり敗れたのはなぜでしょう?いくら横暴でも政治力はあったわけですからそれなりに従う兵や行政官もいたのでは?と思うのですが。

A 回答 (3件)

政策の実際の発動・軍の発動にはそれなりの手続きが必要です。

この時代になるとそういった官僚制度が出来上がっています。今のハンコ行政みたいなものです。
また、蘇我氏の活躍していた時代では、軍隊とは豪族がおのおの自分の私兵を連れてくることでしたが、官僚制度とともに国の軍隊というものも出来上がってきます。

軍の発動手続きに必要な印や文書などを実際に管轄する中級・下級官吏(主に地方の小豪族)は称徳天皇の味方です。称徳天皇は学問ができる人を優遇したので、仲麻呂のような大貴族でない彼らにも出世の可能性が出てきたからです。吉備真備のような人ですね。

彼らがサボタージュを図ったために仲麻呂は思うように政治もできず、兵力も集められなかったのです。なにせ実際に文書を運んでくるのは下級官吏たちなのです。

無論、仲麻呂も要所要所には自分の味方を官僚として配置しているわけですが、乱の直前に天皇側が彼らを急襲して殺しています。仲麻呂の乱といいますが、実際には天皇側が先に軍隊を発動しているのです。

また、仲麻呂派には実は天皇側への内通者がおり、天皇側に先手を打たれまくっていたようです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。なるほど、称徳はいわば無党派中間層に人望があったのかも知れませんね。乱も先手を打ったのが天皇サイドだとすれば納得できます。

お礼日時:2007/06/07 00:19

1. 考謙上皇は、平安後期の院政時代の「治天の君」に当たる地位にあった。

淳仁天皇は、院政時代の天皇と同じく飾り物に過ぎなかったようです。
詳しいことは分かりませんが、治天の君である考謙上皇の一声で行政機構も軍隊も動いたから歴史がああ動いた、と解釈するしかありません。No1さんが言われる、「考謙は正系。淳仁は傍系。権威に大差があった」こともあるでしょう。

2. 奈良の唐招提寺の南大門に掲げられている「唐招 / 提寺」の額は、考謙が書いたものとされています(本物は宝蔵に収納されているとか)。考謙の真筆が他に残っているのかどうか知りませんが、この字を見る限り考謙が暗愚な人物であったとは思えません。

3. 称徳の死後、実質的に王朝が天武朝から天智朝に交代しているわけです。その場合、前王朝の最後の君主は、新王朝の指示を受けた史官によって実体以上に愚者に描かれるのが習いです。称徳や道鏡が事実以上に悪く史書に書かれているというのは、No1さんが指摘されるとおりでしょう。

この回答への補足

私も淳仁は権威も能力もたいしてなかった人物と思います。また道鏡も考謙も並み以上に優秀な人物だったと思っています。ただ軍も政府も実務を動かしていたのが仲麻呂ですね、どちらかと言えば宗教家でしかない考謙たちが相手にするにはあまりに大物だった・・・わりにはあっさり敗れてしまった。このあたりの歴史の謎にヒントを与えていただきたいのですが。

補足日時:2007/05/28 23:46
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/28 23:41

1:藤原家+天智系天皇の作った歴史観によるゆがみ。


孝謙天皇が云々というのは、基本的には、その後の藤原家と天智系天皇を褒め称えるように歴史が作られているので、孝謙天皇が現実離れしていたというのは、たぶん、違うのではないかと思います。

2:君の寵愛
仲麻呂の権力のバックボーンは光明皇后の信任に基づいていた。その光明皇后が亡くなり、仲麻呂のバックボーンがなくなった。
戦前に田中義一首相が、時の昭和天皇に叱責され総辞職、すぐになくなっています。田中義一といえば、長州出身で長州閥の親分にして、陸軍大将。時代が昭和でこれですから、奈良時代なればさらにです。

3:孝謙天皇の正当性
実際には、淳仁天皇が今上でありましたが、淳仁天皇は傍系であり、天武=文武=聖武 という嫡系に比べて権威がありませんでした。

この回答への補足

うーん、仲麻呂失脚の少し前に奈良麻呂の変がありますね。これはかなり多くの皇族、貴族が加担したアンチ考謙キャンペーンだったようです。私は考謙が愚昧な人物だったとは思えませんがこれほど多くの敵を作るのですからどこか失政があったのではないかと思います。これほど敵の多かった考謙が反仲麻呂の旗を上げたとたんあっという間に仲麻呂が失脚した理由がわからないのです。仲麻呂は破廉恥な人物だったようですがそれなりに頼っていた人物(人望ではなく権力を求めて)。権力者が暗殺以外の手段でこうもあっさり失脚するのは日本史上稀かと思います。

補足日時:2007/05/28 23:41
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/05/28 23:41

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