幼稚園時代「何組」でしたか?

 徳川譜代大名の武功派は江戸幕府が安定すると、次第に地方に遠ざけられていきました。
 井伊、酒井、本多、榊原など、家康が天下取りに行く過程で、忠勤を励みました。
 井伊、以外の譜代大名は秀忠以後、何度も転封、国替えになっています。しかし、井伊家は彦根から動くことなく、幕末を迎えました。何人も大老を輩出しています。
 藩祖直政が家康の寵愛が深かったと思いますが、それだけの理由でしょうか?徳川幕府草創期の功臣たちは、国替えばかりでなく、改易、断絶になっている譜代家も多いです。
 井伊家は譜代随一の禄高ですが、何故、他の譜代家に比べ厚遇されたのは何故でしょうか?

A 回答 (7件)

やはり、家康の寵愛が深かったというのが


最大の理由でしょうね
徳川家康は遺言で
「事あるときは伊井家が一番槍」ということで
元の武田家臣を伊井の赤揃えとして
伊井直政へ預けています
西国の押さえのためと京都の防衛のために
彦根から国替えするわけにはいかなかったのでしょうね

酒井、本多、榊原などは、幕府高官の地位をめぐって
いろいろと暗闘した結果、高地位についた後に
政敵によって倒されています
伊井の場合、「切り込み隊長」という役割に徹して
幕末の伊井大老までは、目立った地位についていない
ことで、政敵を作らなかったのでしょうね
そして、たぶん直政が
「野心を持っているというような疑いを相手に持たせるな」
「幕府の幹部へはうまく交際しろ」
というような家訓を残していたのだと思います
本多、榊原、酒井はすべてその反対のことをしたので
つぶされていますから。
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江戸時代初期の譜代大名で石高が高いのは井伊家の他に鳥居家20万石があります。

後は最大で15万石、10万石で何家かあるわけです。
江戸時代の初期は別として同じ規模の大名同士で領地替をしています。
鳥居家は正式な子孫が居なくなり、早い時期に改易されてしまいます。
そうなると井伊家と領地換えする大名は外様や水戸家、会津松平家、越前・越後松平家くらいとなります。
これらの外様などの大名も初期を除くと領地換はほとんどなくなりますので、井伊家を動かす相手が無くなります。
また、そのころになると大老を出す家という格がでて他の家と峻別され、他の家と争って老中になる必要もありません。政争に巻き込まれる必要がないので必然的に領地換えがなかったわけです。
しかし、幕末になると井伊家も政争に巻き込まれ桜田門外の変で当主が討たれ、録を減らすことになるわけです。録を回復されずに江戸時代がずーと続けば領地換えもあったかもしれませんね。

なお、井伊家は初期に幕府の重鎮となるような名君を排出しています。
そのため、初期に減地や領地換がなかったわけです。
それでも、2代藩主が強制的に隠居させられ、分家させられるなどかなりの異変がありました。
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基本的には井伊家は武辺一本であり、権力闘争について蚊帳の外でいられたのでしょう。


井伊の赤備えといわれたように戦時に頼りになる旧武田家の臣下をまとめて配下に着けられ、その特色を鎧の色に用いたくらいです。

京都に近く西国に備える要地に領国を与えられ、十分な兵力を動員できる禄高も与えられたのです。 
初代藩主の直正は武力闘争で常に先鋒を勤め家康の期待に応え戦傷がもとで死亡しました。

転封や国換えは納得のいく理由がなければ安易に出来るものではありません。  もし行えば幕閣に繋がる自分たちも何時そのめにあうかもしれませんから。  幕末まで大過なく過ごせたためでしょう。

井伊家が減封処分を受けたのは、大老職についた井伊直弼が登城途中で暗殺され、武辺一筋の井伊家にしては不名誉の為と咎められた為で政治の表舞台で活躍したせいです。
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三代目に適任を得た。


結論的にはこれにつきます。
彦根城主に求められたのは、西国(初期においては、大坂の豊臣家)に対処するという事。三代目の直孝は大坂の陣で、役目を果たしました。
家光時代までは、まだ、いつ戦争になるか?という危機感の元にありましたので、本当に軍事指導者として実績のある直孝を移動させる積極的な理由がなかったわけです。その時その時の当主が本当に軍事的指導者として役に立つかどうかを、幕府として査定していたわけです。
その後、大名家と集団指導体制になってくると、当主が子供だろうと問題はないということで、当主幼少につきという移動はなくなりました。

多の譜代家の移動が激しかったことの鍵に、もう一つのキーとなる支配地、姫路があります。

たまたま、姫路城主に池田光政がなってしまい、幼少のため(実際に軍事指導者になれない)鳥取に移動になりました。その玉突きで、本多家が来たわけですが、本多家の事情がいろいろあって、収まらない。他の譜代家を持ってくるということになって、玉突き移動が生じた。
ということになります。

井伊家が譜代で最大の禄高を誇ったのは
あ)直政・直孝が、軍事的指導者として実績を残した。
い)直政が関ヶ原に於いて、実際の戦闘に参加できた。
特に、い)の理由が大きいです。い)の理由があった上に、あ)があったので、移動無かったと言うことになるかと。
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藩祖の井伊直政は、徳川家康の家臣の中では異色の外様(昔から主君に仕えていたのではなく、他の主君から変えて仕えた)でした。

それゆえ、徳川四天王と称されるまで出世を成し遂げた事に、周りから妬みの声も大きかったはずです。ですから、No.1の人も言っているように、
>「野心を持っているというような疑いを相手に持たせるな」
>「幕府の幹部へはうまく交際しろ」
と、周りと上手くやっていく事の重要さを子孫にしっかり伝えていたかもしれません。
また、直政は関ヶ原の戦いで受けた鉄砲傷が元で彦根藩や幕府地固めがこれからと言う時に亡くなりました。こういったことが、直政が幕府初期の派閥騒乱に巻き込まれなかった、後を次いだ藩主もなるべく波紋をたてないよう慎重になっていた事もその後の井伊家にとってプラスに働いたと思います。

大老を輩出しても、周りと上手く合わせやる、悪く言えば「事なかれ主義」という金持ち息子の楽天的な考え方で上手くやっていったのでしょう。ただし、幕末の直弼は貧乏を体験した苦労人だったので、野心が強かったのでしょう。大老になって、外交や内政で多くの人物と衝突しまくるので、「事なかれ主義」が蔓延していた家臣や藩の武士は直弼の行動を迷惑に思っていたとか。そのため、直弼が暗殺されると幕府からのお咎めを恐れて、長野主膳など直弼のシンパの処罰に乗り出します(結局は、No.3の人が言っている様に減封されてしまうのですが)。直弼の日記など全ての書類も証拠隠滅に燃やせという命令もあったのですが、直弼シンパの武士が命令を守らず隠し持っていた事で、直弼の正しい姿が後世きちんと評価されるようになったのです(これが無ければ、直弼は悪人一辺倒で評価されたままだったかもしれない)。

最後に、彦根藩は幕府への忠誠者らしく、鳥羽伏見の戦いでは幕府側に付いて先陣で戦いました。が、あっさり大敗し、以後は幕府を裏切って新政府側について戦う事になりました。廃藩置県後の井伊家は、1953年に井伊直愛が彦根市市長になるなど、と現在も子孫は続いています。
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秀忠、家光時代の大名改易・取り潰しによって、かつて外様大名の領地であった国に譜代大名が配されたからじゃないでしょうか?


 また、外様大名に比べ譜代大名のお国替えは、その頻度が高かったと思ってます。
 井伊家厚遇の理由は、その出自が良かった点と、「大権現様のお気に入り」という点じゃないでしょうか?
井伊、酒井、本多、榊原の四天王は、井伊家はご質問通り幕末まで存続(末期には大幅な減封がありましたが)し酒井家も左衛門尉系、雅楽頭系とも存続。本多家は最大派閥の譜代大名家であり、榊原家は館林10万石で始まり、姫路で幕末を迎えましたね。
#1さんのお答えは、本多⇔大久保の争いと勘違いされているかと。
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徳川四天王の中で、一番新参の井伊直政は、「向こう傷しかない」といわれるほど、真っ向から、敵に立ち向かう勇猛なタイプでした。


家康から見ると、そんな心映えが、可愛く見えたのでしょう。
子どもたちの出来もよかったようですし。
家康は、「わが敵は、西より来る」と、予言しましたが、彦根は、西からの敵を想定すると、大変重要な地点に当たります。
家康にとって、江戸幕府にとって、信頼できる、藩、藩主だったのです。
江戸の終焉まで、残っている藩の共通点は、しっかりした藩祖、しっかりした遺訓、地の利、産業などがあげられると思います。
彦根には、その全てがありました。
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