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田沼意次と松平定信の政治についてお伺いいたします。
田沼は商業を活用し、松平は農業中心の政治で、前者は汚職、わいろの政治家、後者は清廉潔白な政治家だったそうですが、今日の研究では逆転した見方が考えられていますよね。つまり、田沼は時代を先取りした優れた政治家で、松平は何もわかっていなかったのではないかと。
ここのところを、どうか詳しく教えた頂きたいのです。なぜこのような考え方が出てきたのでしょうか。寛政の改革に触れていただけると尚結構です。歴史はどちらかというと疎い方なのでなるべく易しくお願いします(すいません)。確かな根拠に基づくものであればどんなことでも構いません。どうかよろしくお願いいたします。何卒本当によろしくお願いいたします。

A 回答 (2件)

お答えします。


 つい先ごろまで、「汚職政治家」と言われていた田沼意次。「清廉潔白」さをうっていた松平定信。この両者、江戸時代の改革派と保守派といった方がいいでしょう。田沼は、商業中心主義にしようとした人として注目を浴びていますが、一方でいち早く海外に目を向けた最初の政治家と言えるでしょう。江戸時代で海外に目を向けることは、一般庶民や下級武士はご法度でした。しかし、将軍や老中など幕府中枢の人々は、すでに長崎の出島から情報を入手していたのです。いい例が、阿片戦争のときにいちはやく情報を入手した幕閣は、すぐさま対処したことは知られています。(ただし、マイナスな政策をとりましたが)海外の動向に着目した田沼は、はやくから北方の調査を始めています。樺太、サハリン、千島列島など探検隊を派遣したりしています。この頃から、幕閣の間からは海外に目を向ける人々ができてきました。田沼は、日本の地図を作製した伊能忠敬、間宮海峡を発見した間宮林蔵、その基礎を築いた近藤重蔵など後世の探検家たちの足がかりをつけたともいえるでしょう。しかし、本格的調査を始める矢先、失脚してしまったのです。ある人からは、失脚がなければ、「開国は早い段階で行われいたのではないか」といわれています。
 一方で、寛政の改革は没落する米穀中心経済をなんとか回復させようとした改革でもあります。いわゆる「積極経済政策」ではなく「消極的経済政策」といえるでしょう。結局、定信の政策は時代の流れには逆らえないことを如実に現してしまいました。元禄時代から続く「貨幣、商業経済」に真っ向勝負を定信は挑んだのですが、失敗してしまったといえるでしょう。八代将軍吉宗は、真っ向勝負を挑んである程度の実績を残しました。その要因には、広い視野と経験そして、柔軟性を兼ね備えていました。が、定信は「清廉潔白」過ぎて現実を直視することができなかった政治家とでもいえるでしょう。いわゆる「理想主義者」ですね。
 しかし、田沼の政治は現実的な思考の持ち主でした。「現実主義者」だったのです。まあ、不幸だったのは、武士らしくない政治家だったのだとおもいます。失脚のシーンはかつての田中角栄の「ロッキード事件」を彷彿とさせるような色合いでした。結論から言えば、田沼は江戸時代の「異端政治家」ともいえるでしょう。田沼政治の向こう側には、中国、朝鮮、オランダ、ロシアなどを含む大貿易経済政策をみていたといえるでしょう。
 こうやってみると、田沼政治を振り返って検証することも大事かもしれません。
 ちなみに、日本の政治家は大体マスコミや庶民から悪口を言われた人物が以外にも実績をあげているのです。暇なとき調べてみると面白いですよ。
 あっ、それと確か、田沼意次を題材にした時代劇が、NHKでやっていた記憶があります。いつだったかは忘れましたが。すみません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!こんなに長く説明していただいて感激です!!
なるほど、田沼は改革派で現実主義者、定信は保守派で理想主義者。田沼は、海外に目を向けたビジョンが大きい政治家で、頑張っていたのに汚職政治家なんてレッテルを貼られて可哀相ですね。もっと研究が進んで正しい田沼意次像が知れわたるといいです。
わかりやすい説明でとても助かりました。歴史も深く学べば面白いものですね。NHKの時代劇、確か今は北条時宗でしたっけ?見てみようかな。少しでも歴史の視野が広がればと願って。
詳しい説明、本当にありがとうございました。m(_ _)m

お礼日時:2001/01/26 14:42

汚職政治家はいかん、清廉潔白がよしというのは当然のことです。

ですが従来は両者のその一面だけを強調しすぎていて、田沼の功績や松平の視野の狭さがあまり指摘されていなかったので、あらためて評価されている途中ではないでしょうか。
歴史的(おもに唯物史観的)に産業社会の発展過程を考えると、農業社会→工業社会→商業社会となっていきます。江戸時代以前・明治時代から高度成長期・現在の日本を考えれば納得できるのではないかと思います。
江戸時代の段階でその過程を見抜き、一足飛びに商業中心の社会へと発展しようとした政治家がいたなら、それは評価されるべきかもしれません。もっとも田沼がそこまで見通していたとは思えませんし、産業の基盤が脆弱なので長続きはしなかった可能性が高いです。
武家政治の規範であり松平も信奉していた儒教は、本質的に復古主義で、少数の支配階級以外の全人口が農業に従事していたはるか古代を最高の社会と教えます。その中から松平の潔癖主義も出てきたわけですが同時に、マニュファクチュア制など工業社会の萌芽が生まれていた社会状況を逆転させるものでもあったわけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
私は歴史関係があまり詳しくないので(本当に疎いんです!ごめんなさい)、正直、この回答を見ても何とも言えないのですが、わかりやすく詳しく説明していただき、専門的な知識をお持ちのnutsさんに、とても感謝しています。
本当にありがとうございました。

お礼日時:2001/01/25 16:28

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