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以下の一文に出合いました(ペルリ提督「日本遠征記」)。
彼らの船は法律に則って艪を開いて造られてゐるのであって、外海及び高浪に堪へ得ないのである。・・・(*)
注)「彼ら」とは「日本人」です。

1 鎖国政策の徹底や武器・弾薬・兵員の大量輸送への警戒から、船舶は構造や大きさなどに何か規制を受けていましたか。(*)の真偽は如何ですか。
以下は判れば教えて下さいませ。
2 鎖国政策が完成した後はオランダ船、中国船が交易のため来訪するだけで日本船が東南アジア、中国へ出航することはなかったのだと理解しています。
ところで、薩摩藩は琉球と、対馬藩は朝鮮と、松前藩はロシアと交易があったそうですが、これらの場合も相手方の船舶が来航したのであって、日本船が相手国へ出向くことはなかったのですか。日本船が相手国へ出向くことがあった場合、(*)の規制を受けていましたか。
3 北前船も(*)の規制を受けていましたか。
4(*)の規制を受けない船舶は一切無かったのですか。

よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

1.500石(約75トン)以上の船を作ることは禁止されていました。

構造についても規制がありました。(参考URL)
2.朝鮮との貿易は対馬側から出向いて貿易をしていました。そのため釜山の周辺に倭舘と呼ばれる施設(日本で言えば長崎の出島のオランダ商館のような施設)があり、そこで貿易をしていました。
3.北前船も同様です。
4.琉球の船は規制外でした。琉球は薩摩の支配下にありましたから名目はともかく薩摩は規制外の船舶をもっていたかもわかりません。

参考URL:http://gunkan.free100.tv/kinsi.htm
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この回答へのお礼

ご紹介のあったサイトは拝見しておきました。細部はともかく大筋は掴めました。75トンというと、ほぼ12畳の部屋を水で満たした状態ですか(6X4X3=72)、外洋には出たくないです。
対馬藩と半島の関係は琉球と大陸の関係に似て、幕府の支配に幾分か緩い処があったのでしょうか。
有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2007/10/10 19:28

江戸幕府は鎖国のため大船の建造を規制していましたが、回船用などは1000石以上の船の建造は許していました。


これらは櫓を使用しない風力に頼る構造でした。  従って近海程度であれば外洋にも出かけられる構造でした。
北前船もこの構造です。

しかし実際は朱印状などの許可制でしたから密貿易以外は外洋に出かけることは禁止されていました。
薩摩藩は密貿易で沖縄と交易ないし支配していましたが、幕府は黙認していました。 この場合は来航する船とだけ交易したようです。
松前藩は公式にはロシアとの交易は禁じられていました。
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この回答へのお礼

ANo.1で、ご紹介戴いたサイトによると幕府の関心は軍船の方にあって商船の積載量もさることながら、軍船の速度の方を規制したかったようですね。
北前船が風力に頼る構造で、しかも1本マストに限定されていたのでは季節風の関係で年に一航海しか出来なそうです。
松前藩とロシアとの交易は、あったとしても密貿易だったのですね。
有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

お礼日時:2007/10/10 19:29

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