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時代劇が好きでよく見るのですが、中には素人が考えても 「こんな時代に、それはないだろう」 と感じるシーンも多いです。

まず 「暴れん坊将軍」 のタイトルシーンに江戸城の天守閣が背景として映りますが、吉宗の時代には天守閣は大火で焼失していたはずなので、これは嘘だと思います。

それとか既婚女性のお歯黒ですね。 本当は真っ黒だったはずです。

遠山の金さんなんて、町奉行が桜吹雪の刺青をして遊び人として町に入っていたなんて、実際にはとても思えませんね。 ま、これはフィクションですから大嘘と言うのはかわいそうかも知れませんが ・・

あと、このカテでも西部劇で主人公が馬に乗って荒原を旅するシーンがありますが、実際には馬1頭で旅する事なんてあり得ず、予備の馬を必ず連れて行ったはずと聞きました。

時代や洋の東西を問わないで結構ですので、時代劇の登場する大嘘について教えて頂けないでしょうか?

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A 回答 (43件中1~10件)

また失礼します。

m(__)m。鉄漿(おはぐろ:お歯黒)一考。

元々、お歯黒は虫歯対策でした。
今は歯医者でエアートームという「うぃ~ん」って音がする忌み嫌われてる機械の出現で虫歯で死ぬ人はいませんが、あの機械が出現するまで、虫歯は命に関わる病気でした。
虫歯を放置すると歯の根元で化膿し、そこから虫歯菌が血液に進入、全身の血液が化膿してしまう敗血症という恐ろしい病気で死亡します。
今でも敗血症は起こってしまえば即命に関わる恐ろしい病気です。

虫歯になったら、麻酔やエアトームのなかった頃はまだ歯がペンチなどで掴める状態の時に力づくで引き抜く以外に治療法が無かったのです。

このために、虫歯を予防する方法として、お歯黒が開発されました。
女性は妊娠により赤ちゃんにカルシウムを取られて虫歯になりやすいので既婚女性に真っ先に普及したわけです。
また優雅な生活をしていた公家なども、甘いものを一杯食べられるので虫歯になりやすく、お歯黒が普及し、それぞれ既婚女性の、あるいは公家のステータスシンボルみたくなりました。

これが映画で見られなくなったのは、戦後、テレビで時代劇が放映され始めた初期です。
歯磨きが普及し、お歯黒を知らない世代が増えた影響でしょうか「歯が黒いと気持ち悪い」という抗議が殺到したのだそうです。
それで「明らかに間違えなのだけど」お歯黒を入れるのを止めたそうです。
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この回答へのお礼

有難うございました。
とても、とても勉強になりました。
お歯黒って単なる風習のように考えていたのですが、実はそんな医学的な裏付けがあったんですねえ。
虫歯で死ぬ人もいた ・・ 歯くらいでと、つい思ってしまいますが、当時はそんなに怖かった時代なんですね。
考えると西洋にお歯黒なんて無かったでしょうから、彼らは虫歯対策にどんな事をしていたんでしょうね。 もしかして日本が世界で最新の虫歯対策をしていたと言えるかも知れませんね。

お礼日時:2007/11/12 11:30

度々すみません。



>でも実際には十両盗めば首が飛ぶと表現されていますから、厳罰主義が徹底して、とても治安の良い時代だったんでしょうね。

江戸時代が現代に比べてずっと犯罪が少なかった理由についてですが…

確かに厳罰主義や罪の連座制ということもあったでしょうね。あと江戸期の人々の義理人情とモラルが、現代人より遥かに高かったこと…これは大きいと思います。
江戸期は庶民でも寺子屋等で普通に教育を受け、識字率は当時の西洋以上。何を学んでいたかといえば儒教イデオロギーに基づいたお道徳。「誰も見ていなくてもお天道様が見ている」し、「人として恥ずべきこと」をすれば世間様から「笑われる」から悪事はできぬ。さらに信心深い人なら「バチがあたる」「後生に障る」と武士階級なら「ご先祖様に顔向けできぬ」が加わるなど、様々な道徳的・美学的・宗教的制約が人々を律していた。
ことに恥の文化といわれるように当時の人は「笑われる」のを何より恐れていたようで、司馬遼太郎氏によると、例えば金を借りる際『もし返せぬ時はお笑い下さい』と証文に一筆記せばりっぱな「質」として通ったといいます。またある町人の幼童が大人になったら侍になりたいと無邪気な夢を語ると、遊び仲間の子供たちにドッと笑われた。子供といえども笑われるというのは致命的なことで、その少年は恥をそそぐため必死に学問をして武士に取り立てられた…という実在の人物も紹介しています。

大航海時代の船乗りたちの間では「日本人と出会ったら決して笑うな。日本人は笑われると怒ってカタンナという剣を振りまわして襲いかかってくるそうだ」と噂されていた(爆笑)といいますから戦国期の人も笑われるのキライだったみたいですね。

当時驚くほど少ない警察力で大都会の治安が守られていたのは、この恥の意識に負うところ大じゃないですかね。神仏への畏れも武士道倫理も失い、恥の意識もだいぶ希薄となった現代日本の社会的荒廃と対照的です。いま私たちが金融会社に行き「返せなきゃ笑っていいから貸せ」なんて言えば、その場で笑われるか通報されますからね。

あとこれはよく言われることなのでご存知かもしれませんが、切捨て御免という武士の特権は有名無実でしたよね。武士が百姓町人を斬れば理由の如何を問わず、まず武士が罰せられる。本人の切腹だけで済めばよいが悪くすりゃ家の断絶でしょう。それを知っているゴロツキ町人などはわざと武士を愚弄し「斬れるもんなら斬ってみやがれい」とイキがっていたとか(←いつの世にもこういうカスはいる) 実際問題、人斬り包丁を二本差した連中がやたらと無礼打ちなんかしてたら社会の秩序は崩壊しますから、武士は黙って耐えるしかない。
それに切腹も扇腹といって実際に腹を斬らぬ儀式になり、武士が軟弱化した世にあっては、武士にとっても流血は異様なことで、有名な首切り浅右衛門でさえ罪人を斬った晩は酒浸りになったそうですから相当な精神的ダメージを受けてたんでしょうね。(ちなみに江戸期に行われた武士同士の果し合いは何時間もかかったのが普通で、チョコチョコ手傷をつけあって先に疲労と出血多量で死んだ方が負け、みたいな内容が多かったというリアルげな話も何かで読んだんですが、実際どうだったんですかね?本当だとしたら中山安兵衛の高田馬場の決闘はすごいですね。十八人斬りはウソでしょうが、仮に二~三人だったとしてもすごいですよ)

このように幕府の御政道は大抵建前と本音があり、「建前いいけど実際ダメ」とか「原則ダメだけど目をつむってあげる」なことすごく多かったみたいで、例えば関所だって手形なきゃ絶対通れなかったイメージありますが、実際には手形を持たぬ通行人でも役人が見て無害と判断すれば、「ならぬならぬ!関所を何と心得ておるか!」とわざとらしく怒りながら、通行人が行きたい方向へ背中を「押し返し」て通してくれたそうですよ。こういう日本的体質って現代にもありますよね。憲法で禁止されてるけど、現実にはそりゃあんまりだから軍隊と呼ばなきゃ戦力保持してもいいじゃん…とか。ならさっさと憲法変えりゃ済むのにこういうところは国民も幕府的(笑)。ソープやパチンコの換金だって法的きわどいけど、まあええじゃろ的なお上のお目こぼし要素じゃありません?

この回答への補足

皆様のお陰で、大変歴史の勉強をさせて頂きました。
改めて御礼申し上げます。
どのご回答も素晴らしい内容でしたので、特定の方にポイントを差し上げるというのは、他の方に失礼になるような気がして大変恐縮なのですが、江戸時代には炊飯を1回しかしなかったという5番目の aruchan2615 様と、お歯黒の本当の意味を教えて頂いた35番目の mvevesonly 様のご回答は大変勉強になりましたので、ポイントを差し上げたいと思います。
どうかご理解、お願いします。

補足日時:2007/11/14 15:34
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この回答へのお礼

いや~、面白いお話、有難うございました。
まず今のイメージでは、江戸の町は厳罰主義でいたからこそ、少ない同心で治安が保たれていたというのが多いと思います。
でも実際には市民の道徳心というか、今のように人心が荒廃していない時代だったようですね。 他人に笑われるというのは、命に代えてでも耐えられない屈辱だったんですねえ。 今なら開き直って、笑うやつには笑わせておけ、金が全てだ、こんな風潮がありますよね。

それと武士の切捨て御免も、市民から見ればそんなに怖くなかったんですか ・・ 何となく真剣を持った人の近くには寄らないようにしようと思うのではないかなと感じていたのですが、考えればそんなに武士を怖がってばかりいたら、道を歩く事も出来ないですよね。

とても面白いお話、感謝します。

お礼日時:2007/11/13 15:24

また失礼します。

月代一考。
この話題で随分盛り上がってますが、私は「蒸れるから」という意見にはどうも賛同しかねます。

おそらく筋兜→頭成兜に変わった時に髪の毛の量を減らす為に剃ったと考えるのが自然です。

元々、兜を装着する時は、頭に揉み烏帽子という縦に長い帽子のような物を被り、中に髪を収めてその上から兜を被ります。
筋兜では中に十分な空間があるので髪の毛+揉み烏帽子がクッション代わりににもなり、丁度良い位置で安定します。
この兜では真っ向から刀を受けた時、兜自体は強度が多少劣っても髪+揉み烏帽子の衝撃吸収があるので、総合的にはかなり安全になります。

時代が過ぎて頭成兜になると、頭にかなりぴったりするので髪の毛の量が多いとまともに被れなくなります。
その為に髪の毛の量を減らす為に月代を剃り始めたと聞いた事があります。
更に揉み烏帽子も邪魔になるので省略されました。
当然、こちらは刀が直撃するとモロに衝撃が頭に伝わるので、兜自体の防御力はあってもかなり危険な兜じゃないかと思いますが、鉄砲が主役になった時代は曲面で受ける方が跳ね返せて安全だったのでそういう事もあるかもしれません。
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この回答へのお礼

有難うございました。
月代と兜の関係は難しいですねえ。
でも、いずれにしても月代はファッション性よりも兜という防具から出発したと考えるのが正解なようですね。

お礼日時:2007/11/12 13:21

ANO.36です。

URLを再掲します。
 白虎隊のうち、生き残った人以外の人の分を見てください。
 月代を剃ってる人はほとんどいません。しかも洋服を着ている人が多いです。
 伝わっている話とは大分違います。写真は正直です。なんだってそのまま撮っちゃいます。
 一方、絵や文章は書き手の想像や恰好付けが入って、事実と違ったものになります(江戸時代はみんなチョンマゲで月代を剃り、和服を着ていたと決め付けてしまう)。
 兜をかぶらない人は実用上月代を剃る必要がありません。
 兜をかぶる人でも毎日かぶるわけではありません。また、月代を剃っても兜をかぶれば蒸れるでしょう。剃ったから蒸れが軽減されるといってもどうかな?
 月代は最初は実用上かも知れませんが、その後は、実用というよりもおしゃれ風俗として流行った面の方が大きいと思います。
 まあ、幕末には勤皇方も佐幕方もその他の陣営も、殿様といわれるエライ人以外は剃っていない人が多いようですね。
 勤皇方も写真では、諸太夫マゲ(本当は立派なもんです)というよりも、単に月代を剃らずに総髪にしただけのように見えます。佐幕方の剣士では講武所風の月代の細いのもあります。
 月代を剃るのは大変です。人に頼めば金がかかるし。カミソリの手入れだってもう大変。下級武士以下はチャンと剃っていない人が多かったと思いますね。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumat …
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この回答へのお礼

有難うございました。
写真を拝見しましたが、月代を剃っている人って本当に少なかったんですね。
考えれば大変ですよね。 剃るのは剃っても、数日もすれば伸びてきて、逆に汚いというか、だらしなく見えるし。
一層の事、伸ばした方がごまかしがききますよね。
でも、頭のてっぺんを剃るのが格好イイという時代があったんですねえ。 今そんな事をすると 「そばに寄らないようにしよう」 とか思われますよね。

お礼日時:2007/11/12 13:17

・刀が貧弱


刀は「武士の魂」ですので、江戸期にはさまざまなデザインを凝らしたこしらえ(鞘などの外装)ができました。個性を競って赤や金などのこしらえも登場しましたが、時代劇を見るとどれも同じようなデザインで「支給された工業製品」みたいですね。戦国期は実戦重視のこしらえですが、それでも黒一色のような無個性なものは少なかったです。
本当は刀身の長さも様々なのですが・・・これもダメですね。

・町屋の煙がない
ガスなどありませんので、当然ご飯やお風呂は薪で炊きます。ですが夕刻のシーンでも町に一筋の煙すら上がらないのは不自然です。特に秋刀魚の季節には、町のあちこちから濛々と煙が上がっていたそうですよ。
また為政者側は、城などから町を見下ろして煙の多さで民が豊かに暮らしているかどうか大体の判断もしていたと聞きます。

・町娘
江戸期の女性は割と乳房を出しても平気(性的な意味がなかった)。
昭和後期でも電車やバスの中でお乳をあげるお母さんなどがおられました。
夏の江戸でも行水や夕涼みで若い娘でも乳露出はあったようで、浮世絵にも度々題材になってますね。これは是非時代劇で忠実にしてもらいたい(笑)

・衣服
赤や黄色や緑などのカラフルな着物は裕福な人が着れるものです。
庶民は渋(茶色)や藍色がポピュラーです。しかも絹はもちろん綿布もとても高価で、庶民が簡単に買えるものではありませんでした。
ですから町では古着屋が繁盛しましたし、ツギハギを当てて大事に着用しました。この場合色はあまり頓着せず、トンチンカンな色の布を当ててツギハギしたケースもあるようです。時代劇ではみんな新品みたいな服を着ているのは不自然です。

・八百屋、果物屋
一度時代劇でおや?と思ったことがあるので。
だいたいビニールハウスも冷蔵庫もありませんので、「旬」となったら、その作物しか流通しません。ミカンの季節ならミカンだけ売ることになります。野菜も同様に、その時期に取れる物しか店に置けません。

・遠山の金さん
実際はイレズミをできるだけ隠していたようですよ。恥ずかしかったそうです。

あと以前NHKの沖縄を扱った時代劇で疑問を感じたのですが、戦前まで琉球の女性は手足にイレズミがありました。ドラマではみんなキレイな白い手足なので「なんだこりゃ、ダメじゃん」と思い見るのをやめました。あと全部琉球語にして、字幕を入れるとかしてほしかった。

まあ外面の小さな部分なら「演出」ということで百歩譲れますが、平和主義の武将は確かにいただけませんね。あの当時は「世の中には殺していい人種もいるんだぜ」という感じですから。他国の人間も自分達と平等・・・のような認識は馬鹿としかいいようがありません。

ドラマを見た小学生~高校生が真に受ける恐れもあるので、ドラマのオープニングで「これはフィクションで本当の武将は全く違います」みたいな断り書きをしてほしいです。
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この回答へのお礼

有難うございました。
詳しく解説して頂いて感謝します。 大変面白かったです。
特に刀ですね。 当時は鞘などに色々なデザインを施していたんですねえ。 これは初めて知りました。 何となく黒一色というか、地味な感じしか無かったようなイメージがありました。
それと刀身の長さもバラバラだったんですね。 
色々と勉強になりました。

お礼日時:2007/11/12 13:11

他の方の回答とかぶっているかもしれませんが・・・



武士関係
1.乗っている馬が違う
 競馬に出てくるような、サラブレットみたいな大型の馬は、
 明治時代以降に輸入されたもので、日本古来の馬は、今で言うと
 ポニー程度の小型の馬だった。
 当時の小柄の日本人が乗っても、両足が付く程度の高さの馬
 だった。

2.刀が丈夫すぎ
 戦国時代の実践用のかなり丈夫な刀でも、3,4人切ると
 刃がこぼれてしまい切れなくなる。
 江戸時代になって、刀が装飾品的になってからは、刀はさらに
 もろくなったので、1つの刀で、10人、20人めったぎりなど
 不可能。

3.言葉
 昭和、平成といった短い時間もに、言葉は大きく変わっている。
 聞き取れない方言も多いのに、日本じゅうを旅する水戸黄門
 さまのご一行が、会話に全く困らないのはやっぱり変。
 見てる側も、聞き取れない会話がないのも本当は変。
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この回答へのお礼

有難うございました。
なるほど、言葉ですね。
今の日本では標準語さえ話せたら、どこに行っても会話に困る事は無いですが、江戸時代までの日本は方言がとても豊富というか、多いというか、余所者には何を話しているか全くチンプンカンプンだったかも知れませんね。
という事は、忍者というか間者のように情報収集を専門にする職業は、現地出身者以外には難しかったでしょうね。

お礼日時:2007/11/12 13:06

戦国時代の月代は、時代によって変わったようですね。

特に「風林火山」の頃は剃らないのが普通でした。時代が下って、織田信長、羽柴秀吉たちが台頭してきた頃は「剃るのが普通」だったようです。

この理由は戦術・戦略の変化によって、防具、特に兜が大きく変わったからと見るのが主流だそうです。風林火山時代の兜は「筋兜」といって、細く切った鉄板を横に鋲で止め、天辺ですぼめて留める作り方をしていました。この形式ですと全体が丸く成形され、頭の両脇が大きく開きます。また、製造法から天辺が塞げられず「天辺の穴」が開きます。

秀吉時代の兜は「頭成兜」といって、四角く切った鉄板を頭の形に添うように曲げて重ねて繋いでいます。この形式は量産しやすく、防御力も高いのですが、いかんせん「密着するので蒸れやすい」のです。

つまり、それまで月代を剃るのはそれほど多くなかった(何しろきれいに剃るのは大変です!)武士たちも、秀吉時代には「剃らずにいられなくなる」のです。

そう考えれば「風林火山の月代はあれで正解」でしょう(ホントの事は見てきた訳ではないので断言出来ませんが、おおむね「見栄えだけの嘘八百ではない」と言えますよ)。
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この回答へのお礼

有難うございました。
武士の月代は鉄兜に原因があったようですね。
たしかに今のヘルメットと違って、夏なんか暑かったでしょうね。 直射日光で鉄板が焼けて中は蒸し風呂状態 ・・ とても戦争どころではなかったでしょうね。

お礼日時:2007/11/12 13:01

#33です。

月代について…

#36の方が紹介されているURL興味深く拝見しました。こんなサイトがあったんですね。

月代の剃り方は各時代によっていろいろ流行があったそうですよ。幕末でいうと特に志士の間では月代をわずかしか剃らなかったり、まったく剃らずにマゲを結う(木戸孝允の写真みたいに)のがとても流行していたと聞いた記憶があります。たしか諸太夫マゲ(違ってたらすみません)とかいったような… 

時代風俗の専門化でも何でもないので確信はありませんけど、戦国時代の合戦図屏風や肖像画を見ると武士たちは皆かなり剃りあげてますよね。頻繁に兜をかぶっていた頃の武士は特に剃っていた方が楽だったでしょうから、室町末期は剃るのがスタンダードだったんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょうね。毎日こまめに剃っていたかどうかはわかりませんが、おそらく評定などで主君の前に出るときや、合戦に出るときは(首を敵に取られるかもしれないので)見苦しくないようキレイに剃っていたのではと推測しますが…

余談ながら昔コロンブスの映画を見たとき、コロンブスが初めて中南米の島に着くと月代モードでザンバラ髪(もろ落武者ヘアー)の原住民が弓矢を持ってわらわら出てくるシーンがあって、すごく怖かったです。初めて日本に来たポルトガル人や朝鮮の役で対峙した明軍将兵も恐怖を感じたのかなとか想像したらたら可笑しかったです。
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この回答へのお礼

有難うございました。
月代の有無は時代の流行だったんですねえ。
幕末の志士たちの写真が残っていますが、勝海舟のように幕府の高官でも月代は剃っていなかったです。
でも考えてみると、一度月代を剃ってしまうと、少し伸びただけでもだらしないような印象を受けそうなので、しょっちゅう剃らなければいけなかったかも知れませんね。 面倒くさいので伸ばす事にした人もいたでしょうね。

お礼日時:2007/11/12 12:57

 NO.7,24、31です。


 時代劇では、浪人以外は大抵月代を剃っています。
 しかし、実際はどうだったんでしょうか。顔のひげを剃るのと違って、月代を剃るのは大変です。自分じゃチョッと無理でしょう。下のURLには幕末の写真が出ています。
 一人ひとりクリックしていくと大変ですので、お終いのほうの団体写真を見てください。テレビや映画と違って剃っていない人の割合が多いと思います。旗本など偉くて恰好をつけなきゃならない人は剃るんでしょうが、その他の人は剃っていない人が多かったんじゃないでしょうか。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumat …
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この回答へのお礼

有難うございました。
写真を拝見しましたが、本当ですねえ。
中にはきれいに月代を剃っている人もいますが、当時はもしかすると剃っていない割合の方が多かったかも知れませんね。
月代を剃る剃らないは、本人の選択だったんでしょうか。
剃らない武士は金回りの悪い人とか、周囲から見られる事があったのでしょうか。 ちょっと気になりますね。
でも考えれば勝海舟も写真を見ると月代を剃っていなかったわけですから、幕府における立場とか経済状態とか、関係なかったかも知れませんね。

お礼日時:2007/11/12 11:40

お歯黒は既婚女子だけでなく男子もしていた習慣で「おあぬ物語」で敵の首を首実検の為髪を整えたりお歯黒を着けるのは恐ろしいことではなかったという記述があるように高位の人の証拠となったようで公家などの習慣であったようです。


今川義元もお歯黒をつけていたと言います。

それに既婚女性は眉を剃り、書き眉であった筈です。

映画では簡単に斬り倒されますがこれも嘘。 実際は連続しての殺傷には刀を途中で替えないと無理で最近は気がついて抜き身を畳につきたて取り替える演出も見られるようになりました。

馬上で太刀を振るうのは普通はありません。 槍が用いられるようになった戦国時代では槍です。 それも武将級が戦うのは普通ではありません。 これも演出。

西部劇の決闘シーンで互いに向き合って1発で仕留めるといのも演出で拳銃で距離があれば命中それも急所に命中することは僥倖でしかありません。  拳銃では銃を固定し狙いを定めないと命中は困難なものです。

フエンシングでの場面で一突きで相手を倒す事は至難です。 
重いサーベルならともかく細身の剣では心臓を正確に突く必要があります。 大抵の決闘でも相手に手傷を与えれば終わりで生き残れるルールでした。  大体チャンバラは洋の東西を問わずショーですから。
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この回答へのお礼

有難うございました。
お歯黒は既婚女性に限った事ではなかったんですか。
今の美意識で判断するのは間違っているとは思いますが、少なくとも当時日本を訪れた西洋人たちは驚いたでしょうね。
男性が笑うと口の中は真っ黒 ・・ 思わず尻込みしそうです。

西部劇によく1対1の決闘シーンが登場しますが、これも嘘に近いんですねえ。 考えると10m以上も離れた相手に、腰のホルダーに差した拳銃をコンマ何秒の早業で抜き、間髪入れずに相手の急所に一発で命中させる ・・ 本当にやれば、どんな名人にも無理でしょうね。
でもそうすると、実際の1対1の決闘ってどんな風だったんでしょうね。 また興味がフツフツと湧いてきました。

お礼日時:2007/11/12 11:25

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空想の話で恐縮です。

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例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

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風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

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Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
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(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q時代劇の大嘘を指摘して下さい

洋の東西を問わず、時代劇には大嘘が多いと聞きます。

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日本の時代劇では 「お歯黒」 でしょうか。 今の女優は白い歯のままで登場していますが、当時の既婚女性は全てお歯黒をしていたようです。 でも美人女優が歯を真っ黒にして登場したら、気持ち悪いですけと ・・・

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あと何でも結構なのですが、時代劇の大嘘を指摘して頂けないでしょうか? 教科書に載らないような歴史の勉強になると思います。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>あと何でも結構なのですが、時代劇の大嘘を指摘して頂けないでしょうか?

☆江戸時代「将軍」のことを「将軍さま」とは呼ばなかった?
時代劇では、「将軍さまのお成り・・・・・・」などと仰々しく台詞を言いますが、実は、「公方(くぼう)さま」または「御公儀さま」「大樹(たいじゅ)さま」と呼ばれたのが正しい。正式には、「征夷大将軍」といい、蝦夷(えぞ=東北地方)を征伐するという役職名でした。足利義満が将軍となった時、「公家に摂政なる棟梁あり、沙門(さもん=寺院)に門跡なる棟梁あれども武家になし、何とぞ公方の号を・・・」と第98代長慶天皇に願い出たのが最初だとか。

☆大奥は男子禁制?
確かに「男子禁制」でした。「表(おもて)」と「大奥」の中間に「中奥(なかおく)」というのがあり、ここが公方さまの寝所ででした。「表」と「中奥」の先を仕切ってあるのが「お鈴口」。このお鈴口を公方さまが入られるときに、合図として鳴らされたのが鈴で、「奥」の廊下の鴨居つたいに鈴が幾つもぶらさがっていましたので、この廊下を「お鈴廊下」と称しました。そして、公方さまは中奥の「蔦の間」で寝起きをし、子造りにも励まれました。大奥は「御殿向(おとのむき)」「長局(ながつぼね)」「御広敷(おひろしき)」と分かれており、「御殿向」は御台所様の居室。その他の女性たちは「長局」で起居していました。「御広敷」は玄関口などを警備する男性役人の詰所でした。唯一男性が入れる場所であった。大奥は10歳以上の男子はいっさい出入りが禁止されていました。しかし、老中などの位が高くなると、役目上の御用で、特別に大奥に入ることが許されました。また、警備上の理由で月に一回は「老中見回り」、三ヶ月に一回は「御留守居見回り」があり、男子が「女の園」に入ることができた。男に飢えたお女中たちが、この時ばかりと、特別に着飾って色目をつかったが、見て見ぬ振りをすることが義務付けられていた。

☆大奥の廊下で御台所様やお中﨟と出くわした下級お女中は・・・
下級お女中がバッタリ廊下で御台様などと出くわしてしまったときは、女中はバタッと腹ばいになり、顔を床に押し付けて、ただただ御台様一行が通り過ぎて行くのを待ちました。これには、「下品な者」が御台様などの目に入らぬようにとの仕来たりでした。しかし、御台様などが廊下で立ち話などをされていると、さあ大変。急用などでどうしてもというときは、腹ばいになったまま後ずさりをして、廊下の曲がり角などに身を隠してから立ち上がり、別の廊下を通って御用に走りました。

☆公方さまの食事
公方さまの食事には必ず「鱚(きす)」が付いた。これは、言わずと知れた喜ばしいという字が付くので縁起かつぎであった。また、朝食には味噌汁に落とし卵が定番だった。奥向きで作られる公方さまの食事は、いつも同じものを10人前ほど作り、1膳は「公方様御膳所掛」という台所の責任者が食べ、「お毒見役」が2膳に少量ずつ箸をつけて毒が盛られていないか、または、腐ってはいないかを確かめた。そして、中奥で公方さまの前には2膳が用意され、公方さまは1品に二箸をつけると、「お代わり」と称して、そばにはべるお女中が、もう一つの膳の品と取り替えて出されました。また、公方さまの食べるころには、すっかり冷え切っていて、味もそっけもなかった。落語でおなじみの「目黒のサンマ」は温かいものを食べたことのない公方さまを皮肉った話である。ちなみに、10-1-2-2=5人前残るわけですが、お勝手方の上級者がいつも「ありがたく」食べていました。
なお、御台所さまにも「御台様御膳所掛」、「お毒見役」がいて、公方さまと全く同じように膳が運ばれました。

☆大名行列も回り道
江戸市中で大名行列同士が行き違うことはしばしばであった。この時は、お互いが籠を開けて双方が目礼をした。しかし、籠を止めることは絶対にしなかった。また、相手が御三家や格式が上位の場合は籠を降りなければならなかったので、ややっこしい、めんどうくさい。そこで、御三家などとわかると下級の大名行列は、あわてて、横道へ逃げ回った。

☆大名屋敷の内に農家?
大名屋敷というと、豪華な庭園などを思い浮かぶ方も多いと思いますが、大名屋敷、特に、下屋敷内には百姓が住んでいて田畑を耕していました。これは、殿様に農業の辛さ、厳しさを見てもらうためでした。こうした百姓は住所があって無いようなものでしたので、「○○守殿百姓」と呼ばれていました。

☆テレビの中の大嘘
「したに~」「したに~」とやってきた大名に宿の玄関に「○○守△△様御宿」などと書かれているのは「もってのほか」である。現代の旅館で「××会社御一行様」という景気づけを真似たもので、江戸時代の大名行列はあくまで行軍だったので、看板を立てるとすれば戦場になぞらえて「本陣」「脇本陣」であった。さらに、テレビなどでは、好色大名が宿に着くと芸者を揚げて・・・なんてえのは、目も当てられない。芸者が許されたのは江戸、京都、大阪の三大都市だけで、街道筋の田舎に芸者はいない。いるとすれば「飯盛り女」であるが、こんな安物は大名は銭を出して買わなかった。また、戦時の行軍ととらえられていたので、女は禁物であった。現代ではよく「大名旅行だ」とか「殿様気分」などというが、それは、大名行列では飲料水から料理材料、料理道具一式、風呂桶、殿様専用の便器まで持ち歩いた。つまりは、すべてに行き届いていることを指すものをなぞらえていることである。大名行列は不意な出来事があるときは、野宿もしたので、常に、戦場の心構えで行軍にのぞんだ。そして、宿に宿泊しても、宿の料理人ではなく、供をしてきた料理人が食事を作って差し上げた。

☆大岡越前守が有名になったわけ
享保十六年(1731)、無宿の伝兵衛という者が火付けの罪で、江戸市中引き回しのうえ火焙(あぶ)りの刑を火付盗賊改から言い渡された。しかし、越前守の部下である手付同心が「伝兵衛にはアリバイがある」という噂を聞き、越前守に上申した。そこで、密かに、越前守は証拠集めを指示し、吟味のやりなおしをして無罪を言い渡した。当時は、1審制度だったので、再審まで断行し無罪を言い渡した越前守は、当然、庶民から人気の的となった。

☆女の取調べ
女に対しては、原則的に、責問や拷問はしないことになっていた。そして、取調べの最中、少しでも膝小僧から上を出すと調べは中断された。そこで、両膝を縛って取り調べをした。しかし、そのことを承知している女は、わざと後ろにそっくり返って、取調べをたびたび中断させたとか。

☆遊女の起源
遊女の起源は何と「巫女(みこ)」であった。寺社は、当時、遊覧地で人が多く集まった。だから、隠れて商売をしても儲かった。また、寺社の門前町は寺社奉行の支配で町方役人の手入れができなかった。隠れ「売女(ばいた)」の取り締まりは町奉行所の管轄で寺社奉行には、「風俗取締り」の権限がなかったことから、安全地帯というわけです。

☆吉原の誕生
慶長5年(1600)に家康が関が原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡神社の前に茶店を造り、揃いの赤ダスキに赤手ぬぐいを被った遊女8人にお茶を出させた。家康はこれを大変気に入り、戦いで勝利して江戸に帰ると、その男に遊女屋の開業を許可したのである。男は当時、柳町に遊女屋を営んでいた「庄司甚右衛門」という者で、許可がおりたのは元和3年(1617)だったという。日本橋葦屋町(ふきやまち)に公認の遊女屋を造ることを指示したが、このあたりは、まだ一面の葦(よし)野原であった。そこで、めでたくもじって「吉原」としたのである。

☆吉原の初めは金持ち専門
吉原ができた当初は、大名や裕福な武士、豪商などしか相手にされませんでした。つまり、幕府としては、裕福な大名や武士などが居ては、いつ幕府転覆をされないとも限らない、と言う事情から、とにかく、銭を使わせて「貧乏にさせる」と言う政策だった。
庶民に開放されたのは、元禄年間のことでした。

☆飯盛女
江戸四宿、つまり、品川、千住、板橋、内藤新宿、が四宿(ししゅく)であり、ここには「飯盛女(めしもりおんな)」という宿場女郎がいた。宿場の活性化のために黙認されていて「一軒に付き二人」と決められてはいたが、見世の表に顔を出すのは二人で、裏に回ればぞろぞろ・・・。

☆人を斬った後の刀の処理
「馬糞で拭うか、藁の灰で何度も脂のとれるまで拭うと良い」・・・と幕末の書に出てくるが、馬糞はともかく、どちらも「藁」なので、「藁」が効き目があったようだ。よく時代劇で、懐紙で拭いてポイ・・・実際にはあれだけでは脂はとれない。刀の手入れは中々面倒だったのである。

まだまだありますが、字数制限がありますので、これっくらいで・・・。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>あと何でも結構なのですが、時代劇の大嘘を指摘して頂けないでしょうか?

☆江戸時代「将軍」のことを「将軍さま」とは呼ばなかった?
時代劇では、「将軍さまのお成り・・・・・・」などと仰々しく台詞を言いますが、実は、「公方(くぼう)さま」または「御公儀さま」「大樹(たいじゅ)さま」と呼ばれたのが正しい。正式には、「征夷大将軍」といい、蝦夷(えぞ=東北地方)を征伐するという役職名でした。足利義満が将軍となった時、「公家に摂政なる棟梁あり、沙門(...続きを読む

Q歴史上の人物のウソエピソード

以下の人たちがついていたウソや誤魔化していた、騙していたというようなエピソードを探しています。
知っている方お願いします!
森鴎外
竹下登
島村抱月
陣幕久五郎
田部長右衛門
徳川夢声
若槻礼次郎

福沢諭吉
緒方洪庵
手塚治虫
井原西鶴
幣原 喜重郎
鈴木 貫太郎
与謝野 晶子

伊藤博文
井上馨
江木翼
岸 信介
近衛 文麿
田中 義一
寺内 正毅
乃木 希典
山県 有朋

Aベストアンサー

確か福沢諭吉は「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と人間は平等だと言っておきながら、「自分の娘は、武士のところしか嫁にやらない」と言って、言行不一致をしでかしたことがあると聞いたことがあるようなないような…。記憶が確かではなくすみません。

Q最強の戦国武将は?

最強の戦国武将は誰だと思いますか?皆さんのご意見を聞かせてください。戦略的にではなく戦術的に強い武将でお願いします。ちなみに私は上杉謙信だと思います。

Aベストアンサー

織田信長ではないかと思います。
「大軍をもって寡兵を破る」というのが彼の真骨頂で、敵の数倍の兵を集めて、弱い敵を討ち漏らさないのは、当たり前のようでなかなか出来ることではありません。
十分なリサーチをし、勝てるような算段をして、万一の準備をしてから戦に臨み、確実に勝ちを拾う。
信長が世に出たきっかけは桶狭間の戦いですが、人間若いうちに成功するとなかなかそのやり方を否定することが出来ません。
彼の場合、これ以降は余程でなければ相手より少ない兵力で戦をすることは無く、やる場合も損害が少ないように上手に逃げます。
信長の大失敗で知られる越前攻めですが、部下を全て見捨てて自分だけ逃げ帰るような事はなかなか出来ることではありません。
途中で名も無き土民に首を獲られれば末代までの恥ですし、リーダーが逃げ出せば軍団は壊滅し、裏切り者が出て岐阜に反転し、自分の妻子すらどうなるか判らない。
私なら落城した金ケ崎城に兵を入れて浅井軍を牽制し、全力で木の芽峠を越えて朝倉を攻撃します。
運がよければ朝倉を壊滅させて浅井と対峙できますし、運悪く命を落としても武士の名誉は守れ、悲運の名将という名が残ります。
それがあんなにも大胆に逃げたのは、将に天才的な名将と言えるかと思います。
途中の朽木も、それを見越したからこそ恩を売るつもりで朽木谷を通したのではないでしょうか。

上杉謙信は結局人間の心理が読めない武将と思います。
この時代の武士はドライなもので、恩とか義理とかは余り考えていません。
実質の無い関東管領を名乗り、見入りの無い信州に介入し、部下の心は離れ、関東の諸将は冷ややかに彼を見つめ、同盟していた北条もメリットが無いとして同盟を破棄します。
戦に出ても勝ちを拾えず、砂上の楼閣のような物を得て引上げる、しかも田植えが済んでごく短期間だけちょろっと戦をして引上げる。
上杉謙信、武田信玄などは所詮はアマチュア武将であり、嘗て清原・桑田を擁したPL学園が阪神タイガースより強いのではないかと幻想を抱かせましたが、実際にはプロとアマとの間には大きな差があるように考えます。
短期の戦ではアマチュアがプロを抑える事は出来ても、決定的に破ることは出来ませんし、やがて破れていく。

上杉は運良く謙信が死んだので幕末まで残りましたが、生きていれば、北陸道を進む柴田軍と信州から進入する信忠軍、伊那から徳川軍などが進軍し、じりじり春日山に迫られ自刃したかと思います。

歴史的にも徳川家には武田の生き残りが多く仕え、彼らにとって武田信玄は神のような武将で、それに5分に渡り合った謙信は神に準じる武将と祭り上げられ、逆に家康が臣従した今川家と織田家は低い評価が付きますので、そこは割り引いて考えてもよいのでは。

最強というからには、やはり兼業武士(アマチュア)ではなく専業の武士(プロ)で競うべきで、信長を除けば、蒲生氏郷、結城秀康、柴田勝家、加藤清正などかと思います。

私の独断と偏見で。

織田信長ではないかと思います。
「大軍をもって寡兵を破る」というのが彼の真骨頂で、敵の数倍の兵を集めて、弱い敵を討ち漏らさないのは、当たり前のようでなかなか出来ることではありません。
十分なリサーチをし、勝てるような算段をして、万一の準備をしてから戦に臨み、確実に勝ちを拾う。
信長が世に出たきっかけは桶狭間の戦いですが、人間若いうちに成功するとなかなかそのやり方を否定することが出来ません。
彼の場合、これ以降は余程でなければ相手より少ない兵力で戦をすることは無く、やる場合...続きを読む

Q時代劇のウソ

時代劇とか西部劇などで何となく見ているシーンの中で、専門家に言わせると明らかにウソだと言えるものが多くあるようです。

最近聞いた話では、西部劇で一匹狼のガンマンが馬に乗って荒野を旅するシーンがよくありますが、これは大ウソだとか ・・・

というのは荒野のド真中で馬が倒れたら、人間まで危険に晒されるので、遠出をする時には必ずもう一頭の馬を連れて行くとか聞きました。

聞けば、なるほど、たしかにそうだなと思われますよね。

そこで質問なのですが、日本の時代劇とか西部劇に出てくるシーンで明らかにウソだと思われる事はどんなものがあるでしょうか?

自分としては、たとえば鎌倉時代や室町時代での戦闘シーンに登場する馬は今のような結構大型の馬が多いのですが、たしか昔の日本ではもっと小型の馬が多かったと聞いた事があるのですが ・・・

源義経の 「ひよどり越えの逆落とし」 では兵士が馬を担いで急な坂を下ったようですが、これは馬が非常に小型の馬だったから可能だったとか ・・・

あと、時代劇に登場するヤクザの描写にも大ウソがありそうな感じがします。

洋の東西を問わず何でも結構ですので、時代劇での大ウソがあれば教えて下さい。

時代劇とか西部劇などで何となく見ているシーンの中で、専門家に言わせると明らかにウソだと言えるものが多くあるようです。

最近聞いた話では、西部劇で一匹狼のガンマンが馬に乗って荒野を旅するシーンがよくありますが、これは大ウソだとか ・・・

というのは荒野のド真中で馬が倒れたら、人間まで危険に晒されるので、遠出をする時には必ずもう一頭の馬を連れて行くとか聞きました。

聞けば、なるほど、たしかにそうだなと思われますよね。

そこで質問なのですが、日本の時代劇とか西部劇に出て...続きを読む

Aベストアンサー

まずは比較的分かりやすく、手に入りやすい参考書をどうぞ。
『絵で見て納得!時代劇のウソ・ホント』(笹間良彦:遊子館歴史選書)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4946525653/249-1916625-5238752

他の笹間氏の著作も参考にされるといいでしょう。

さて目明かし(岡っ引き)ですが、与力・同心の個人的配下であるため十手は持てません。ただし、奉行所に届け出られた一部の者(「小者」と称されます)は、房なしの十手と取縄の携帯を許されました。ですから、銭形平次や半七親分が、赤房の十手を神棚から取り出すシーンは誤りです。また、与力・同心の許可がなければ捕縛できないので、勝手に下手人を探索し捕まえることもできません。
 それ以前に目明かしは博徒ややくざ者、犯罪者から頭の良さそうな者を手下とした者であり、ゆすり・たかりを行う者もいて、ヒーロー的存在ではありませんでした。

 次に江戸時代を暗黒時代とみなす史観に対するアンチとして、江戸時代を賞賛する史観が最近台頭していますが、正直どっちもどっちだなと思います。
 例えば“江戸時代は治安が良かった”ですが、これは治安が良いというよりも、犯罪検挙率が低かった(連座を恐れて表沙汰にしない。捜査能力が低いなど)ので記録に残らないと見ることができます。鬼平こと長谷川平蔵が火盗改に就任して、わずかの間に600人の盗賊が死罪となったのですから。

「長谷川平蔵と云ふ者に命じて、盗賊を捕えて死刑に処し、僅の間に六百人の首を刎ねたりと云ふ。故に下々の者も、此の政略に驚き恐れ(中略)市人恐れ戦きたり」(佐久間長敬:『清陰筆記』)
 

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4946525653/249-1916625-5238752

まずは比較的分かりやすく、手に入りやすい参考書をどうぞ。
『絵で見て納得!時代劇のウソ・ホント』(笹間良彦:遊子館歴史選書)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4946525653/249-1916625-5238752

他の笹間氏の著作も参考にされるといいでしょう。

さて目明かし(岡っ引き)ですが、与力・同心の個人的配下であるため十手は持てません。ただし、奉行所に届け出られた一部の者(「小者」と称されます)は、房なしの十手と取縄の携帯を許されました。ですから、銭形平次や半七親分が、赤房の十...続きを読む

Q徳川家はなぜ天皇家をつぶさなかったのか

徳川家はなぜ天皇家をつぶし、最高の権威を手に入れなかった

のでしょうか?

自分は徳川家が早い段階で天皇家を滅びさせていれば

明治維新は起きなかったのではないかと思っています。

徳川家は惜しいことをしたと思うのですが、やはり天皇家は

日本人にとって切っても切れない存在だったのでしょうか?

Aベストアンサー

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす為には、天皇に代わる権威(支配の
正統性)が必要なのです。徳川に限らず、結局のところ、力では圧倒
しても、天皇に代わる権威を見出せず、実行できなかったのだと思い
ます。

平家は都落ちに際し安徳天皇を拉致?しますが、京都には天皇家の家
長である後白河院が健在であったため、焼け石に水。
承久の乱では、北条義時が天皇家の家長である後鳥羽院の島流しを敢
行しますが、北条得宗専制ですらまだ始まってはおらず、あまりにも
時期尚早。天皇を頂点とする公家勢力・寺社勢力の息の根を止める以
前に、まだそれ以下の鎌倉「将軍」の権威で武士の統合が必要な時代。
元弘の乱の後醍醐天皇の配流と、建武新政崩壊後の南朝への攻略は、
持明院・北朝の存在を前提としたもので、天皇家抹殺の意図なし。
足利義満による皇位簒奪計画という学説もありますが、事実だとして
も未遂。
織田信長が将軍や関白などの官職を受ける意志がなかったとすれば、
どのように権威(支配の正統性)を樹立するつもりだったか、興味深い
ところ。信長自身の神格化?がそれという説も。
豊臣秀吉は天皇を中国に移し、自分はインド方面まで手を伸ばすつも
りだったとか。天皇を一国王としての地位に留め、その地位を保証す
る世界皇帝になることで、天皇を超えようとしたという説も。
で、本題の徳川家ですが‥
徳川家康の場合は、京都や大坂を掌中に置くのに時間がかかり過ぎ、
短期決戦できなかったのがネックでしょう。家光の代までに幕府も安
定し、禁中並公家諸法度などで従来の権門(公家・寺社)を幕府の法制
下に置き、武家官位と公家官位を分離するなど、色々と手は打ってい
るようですが‥
でも綱吉になると、生母桂昌院に従一位を貰って喜んでみたり‥
そうこうしているうちに将軍の継承問題、そして改革と挫折の連鎖の
時代となり、天皇家に構っている余力はない‥ 要は支配の正統性の
問題は、権力を握ったらすぐに手を打たないと、手遅れになるという
ことですね。

あと、蛇足ではありますが、源・平・藤原・豊臣などの「氏」が、
日本の場合天皇から与えられるという性格を持つという点も、天皇制
存続に関して何らかの意味を持つのかもしれません。平清盛・源頼朝
・平(北条)義時・源(足利)義満が姓を自分で決めて自称せず、織田信
長・徳川家康が源・平姓を名乗り、羽柴秀吉が豊臣姓を貰って喜んで
いるうちは、天皇の風下に甘んじるという一面を持ちます。もっとも、
姓を自分で決めて自称するとか、姓を捨てて天皇家と同じ無姓となる
という発想自体が、思考力の枠を超えるものでしょうけど。でも、信
長あたりは長生きしていたらやっていたかもしれないし‥

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす...続きを読む

Q韓国人が一発で黙る歴史の真実

東アジアでは昔から「王」は「皇帝」の家来です。
従って朝鮮王と名のることは中国皇帝の家来ですと宣言することです。(日本は天皇がいた。)
このことを韓国人に教えてあげれば韓国人は黙るしか無いと思いますがどうでしょうか?

Aベストアンサー

失礼な表現、記載、誤記等ありましたら済みません。

>このことを韓国人に教えてあげれば韓国人は黙るしか無いと思いますがどうでしょうか?

私も激しくなる事はあっても黙らないと思います。
まず、李氏朝鮮は古くは明、後に清に冊封していた事は明らかです。
韓国でどういう歴史を教えているか知りませんが
嘘の多い韓国の大河ドラマですが「チャングムの誓い」「イ・サン」「トンイ」で世子(セジャ・次期朝鮮王)、世孫(セソン)を世継ぎとして明や清に認めてもらうと言う場面が多々あります。
少なくとも、李氏朝鮮は明や清に朝貢、冊封していた事は認めています。
もし、そう言う認識が韓国に無いのならばこのドラマを作った監督は韓国マスコミや民衆に袋叩きになっていると思います。

中国に対しても韓国5000年の歴史と大統領が発言したりして中国より歴史があると言ったりしています。歴史観でほんの少しでも日本寄りの発言をすると韓国メディアや国民から袋叩きにあって社会的に抹殺されます。
それがソウル大学の教授でもですよ!
まだ、社会的な抹殺で殺人でないだけ良いですが…
(添付YouTubeを見てください)

韓国の有識者は日本併合(植民地)時代の本当の歴史等を知っているとは思いますが全体としては臨時政府などと言い方を変えたり、テロリストを反日であれば英雄にしてしまうように都合のいい歴史観にしています。
考古学的に何の検証もしていない神話レベルの話で韓国5000年の歴史と大統領が発言してもはばからない国です。
現在は日本は、歴史は歴史で神話とは別というのが日本人の共通認識のはずですが韓国人がどこまで区別しているのか、全く分かりません。

何せ、韓国では日本は悪でなくてはならない国であり、韓国は常に正義であり善であると教えている国です。
今の韓国には日本人が何を言っても逆なでする事はあっても肯定する人はなく無駄な気がします。
多少の隠れ親日派は作れるかもしれませんが公に口にする人はいないと思います。
韓国で権威のある歴史学者、大学の教授の発言でも親日でなくとも日本を少しでも擁護する内容であれば叩かれます。

李氏朝鮮末期の記録は欧米の記録や写真などが多少なりとも存在しています。
そう言った物、資料を直視する韓国人は少ないのです。
今の韓国と日本で歴史観を埋めようとしても一方的に韓国の歴史観を押し付けられるだけです。
今のうちに、そう言った客観的な資料を集めておくとか、日本、中国の文献を集めておくとか準備しておくくらいしかないと思います。
あまり人の事を言える立場では無いですが慰安婦問題なら「韓国軍のベトナム人大虐殺」「米軍慰安婦」とかで対応するしかない。

添付YouTubeでも言っているように
韓国とは暫く距離を置いて付き合うのが無難だと思います。

【日韓問題】 韓国人から見ても異常な…韓国人ブロガー・シンシアリー氏 .
↓↓(YouTube)

https://www.youtube.com/watch?v=cluHbI5i7gU

失礼な表現、記載、誤記等ありましたら済みません。

>このことを韓国人に教えてあげれば韓国人は黙るしか無いと思いますがどうでしょうか?

私も激しくなる事はあっても黙らないと思います。
まず、李氏朝鮮は古くは明、後に清に冊封していた事は明らかです。
韓国でどういう歴史を教えているか知りませんが
嘘の多い韓国の大河ドラマですが「チャングムの誓い」「イ・サン」「トンイ」で世子(セジャ・次期朝鮮王)、世孫(セソン)を世継ぎとして明や清に認めてもらうと言う場面が多々あります。
少なくとも、...続きを読む

Q懲役刑と禁固刑の違い

ニュースで良く耳にする「懲役」と「禁固」とはどう違うのでしょうか?
禁固刑はずっと牢屋に閉じ込められて一切外には出れないのでしょうか?
この犯罪は懲役刑、この犯罪は禁固刑と犯罪によって決まるのですか?
わたしなら、牢屋に閉じ込められるくらいなら禁固刑三ヶ月なら、ある程度自由のある懲役刑1年くらいの方がまだマシです。

独り言のような疑問なのでおヒマな方、回答おねがいします。

Aベストアンサー

処遇の内容については皆さんお答えのとおり
刑務作業(要は強制労働)の有無のちがいです。

懲役刑は軽蔑すべき犯罪を故意に行った「破廉恥犯」に課されますが
禁固刑は政治犯など、自分の政治的信念に従って「正しいこと」と信じて行動した結果が犯罪になった場合、また過失犯など「非破廉恥犯」と言われる場合に課されます。

禁固受刑者で作業をしない人は1%にも満たないそうです。ほとんどの禁固受刑者は自ら望んで刑務作業(請願作業といいます)をします。

と、大学で習いました

Q戦国時代の強い武将は本当にその人が強いの?

こんにちわ。ふと、ゲームをやっていて気になったので質問します。
よろしくお願いします。

よく、アニメやゲームなどで、武将が先頭で敵陣に突っ込んでいくシーンを見かけるのですが、実際の戦闘方法というのは本当にあんな感じだったのでしょうか?

日本の戦国時代にしろ、中国の戦国時代にしても強い武将というのは、一人で100人を倒すみたいなイメージがありますが、本当にそのようなことをした場合すぐに死んでしまうと思うのですがどうでしょうか?

大の大人が10人も集まれば一人くらいやっつけられそうなものです。

やはり、ゲーム等にでてくる武力が強い武将というのは本人が強いではなく、その軍団が強いだけなんでしょうか?統率がとれているとかみんなが死ぬ気で戦っているとかそういう意味なのですか?

実際、武将達は一番後方で戦いを指揮して親衛隊に守ってもらっていたからなかなか武将は死なないのではないか?

そう思ったので質問してみました。

誰か戦国時代の戦闘方法を知っている人、ご教授よろしくお願いします。
一騎当千とか絶対嘘だと思うんです。

こんにちわ。ふと、ゲームをやっていて気になったので質問します。
よろしくお願いします。

よく、アニメやゲームなどで、武将が先頭で敵陣に突っ込んでいくシーンを見かけるのですが、実際の戦闘方法というのは本当にあんな感じだったのでしょうか?

日本の戦国時代にしろ、中国の戦国時代にしても強い武将というのは、一人で100人を倒すみたいなイメージがありますが、本当にそのようなことをした場合すぐに死んでしまうと思うのですがどうでしょうか?

大の大人が10人も集まれば一人くらいやっ...続きを読む

Aベストアンサー

これは時代によります。
日本でも戦国時代後期になれば、銃の普及により前線で武将が指揮を取る危険度が大幅に上がり、前線で華々しく戦うのは無理になっていきます。
しかし飛び道具が発達する前は、武将が前線で戦うのは重要な要素でした。
例えば有名な項羽は前線で激しく戦い、最後の戦いとなった垓下の戦いでは一日で漢の指揮官だけで60人あまりと交戦したという、ちょっと信じがたい記録が残っています。
当時の戦闘では雑兵の殆どは雇われ兵で「命をかけて戦う」理由は殆ど無いため、自分たちの指揮官が打ち負かされると、戦意をなくして逃げ出してしまうのが普通でした。
つまり「一騎当千」には誇張はあっても、決して嘘ではありません。
このため少数の兵でも指揮官の武勇次第で状況をひっくり返す事が可能であったために、項羽や呂布と言った剛勇名高い将の軍は強かったのです(ただし個人の武勇で得られるのは、あくまでも戦術的勝利です。彼らが最終的に敗れたのが個人の武勇の限界を示しています)。
ただ上述のように時代が下り、飛び道具が発達するとそのような個人の武勇によって戦場を支配することは困難となり、現代ではそれは遠い昔の話となりました。

これは時代によります。
日本でも戦国時代後期になれば、銃の普及により前線で武将が指揮を取る危険度が大幅に上がり、前線で華々しく戦うのは無理になっていきます。
しかし飛び道具が発達する前は、武将が前線で戦うのは重要な要素でした。
例えば有名な項羽は前線で激しく戦い、最後の戦いとなった垓下の戦いでは一日で漢の指揮官だけで60人あまりと交戦したという、ちょっと信じがたい記録が残っています。
当時の戦闘では雑兵の殆どは雇われ兵で「命をかけて戦う」理由は殆ど無いため、自分たちの指揮官...続きを読む

Q競馬のボックスって?

先日初めて競馬を見に行ったら馬券で「ボックス」っていう買い方がありましたが、意味が判らないので買えませんでした。どんな馬を当てるのでしょうか?詳しい方教えて下さい。 また、馬連や枠連に対してどのようなメリット、デメリットがあるのですか?

Aベストアンサー

馬連で説明します。
買いたい馬が3,4,8,9番だとします。
でどれも甲乙つけがたいの全ての組み合わせを買いたい。
そんなとき「ボックス」の登場です。
3,4,8,9の4つをマークするだけで
3-4,3-8,3-9,4-8,4-9,8-9
と計6通り一気に買えます。
メリットはマークする手間が省けること。
デメリットは金額が均一でしか買えないこと。
あと頭数が増えると点数も増えるので(5頭ボックスだと10点)窓口で
あわてないようあらかじめ購入金額を確かめた方がいいでしょう。
ちなみに今週はじまる3連複、連単でもボックスはあります。


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